すべてを背負い処断されるに至った築山殿(有村架純)は、どのような心境だったのでしょうか(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

NHK大河ドラマ『どうする家康』第24回「築山へ集え!」では、瀬名(築山殿)が思い描く「戦のない世をつくる」という理想に向かって信康とともに突き進む姿と、それに協力するかに見えた武田勝頼の裏切りまでが描かれました。第25回「はるかに遠い夢」では、天下統一を阻む動きをしていたふたりに信長が……。この「築山殿事件」がいわゆる史実でどう扱われていたのか『ビジネス小説 もしも彼女が関ヶ原を戦ったら』の著者、眞邊明人氏が解説します。

松平信康は、徳川家康の嫡男として正室・築山殿(瀬名)とのあいだに生まれます。

築山殿は今川義元の姪であり、当時、家康(元康)は今川の配下にありました。ところが信康(竹千代)が3歳のころに桶狭間の戦いがあり、尾張に侵攻していた今川義元が織田信長に討たれるという大事件が起こります。さらに、この機に乗じて信康の父である家康は、今川からの独立を目論見ました。

この事態に、義元の後を継いだ今川氏真は激怒します。信康と母の築山殿、そして妹の亀姫は駿河にいたため命の危険に晒されました。当時、裏切りありと見なされた武将の妻子は、見せしめのために串刺しなどの残虐な処刑を行われるのが常。しかし氏真が、家康に捕らわれた重臣・鵜殿長照のふたりの息子との人質交換に応じたため、信康たちは無事に岡崎の家康のもとに送られました。

ただし築山殿の両親は、家康の裏切りを責められ自害させられてしまいます。

その後、家康は織田信長との同盟に踏み切り、その証として信康と信長の娘・五徳の婚姻が結ばれました。信康・五徳ともに9歳。このころ遠江まで勢力をのばしていた家康は浜松城を築き、自身はそちらに移り岡崎城を信康に譲ります。

信長から「信」の一字をもらい信康に

それにともない信康は元服し、信長から「信」の一字をもらい松平信康と名乗ります。また母である築山殿は、家康とは行動をともにせず岡崎に残ります。

信康は15歳で初陣を飾って手柄をあげました。そして宿敵・武田勝頼との対決、長篠の戦い(設楽原の合戦)では、徳川軍の一手の大将として活躍し、その勇猛さを讃えられたと言われています。武将としての信康は、有能だったと言えるでしょう。しかし、この長篠の戦いのあとから信康の人生は暗転します。

長篠の戦いから4年後の1579年。信康の正室である五徳は、父・信長に12カ条からなる訴状を送ります。そこには信康の日常的な振る舞いについてだけでなく、義母である築山殿が「滅敬」という医師と不倫関係にあり、その医師を通じて武田に内通しており、そのことは信康も承知しているという重大なものも含まれていました。

ことの真偽を確かめるために信長は家康に使者を送り、驚いた家康は重臣である酒井忠次を信長の元に派遣し申し開きを試みます。しかし、ここでの尋問に酒井忠次は明快な否定ができなかったため、家康は信長に信康と築山殿の処分を求められることに。この処分とはすなわち、ふたりの命を奪うことを意味しました。

家康は苦悩したあげく、まず信康を岡崎城から堀江城に移します。この時点で信康は岡崎城主の地位を追われたことになりました。このあいだに家康は、なんとか信康の命を救うべく時間稼ぎをするために堀江城から二俣城に、さらにその身柄を移します。

しかし信長はこれを許さず、処分を急ぐよう家康に要請。この圧に抗しきれず、ついに信康に切腹を命じました。同時に築山殿を岡崎城外に連れ出して殺害……というのが通説での信康自刃までの流れです。

要するに信長が娘の讒言を受け入れ、無理やり家康に妻子を殺すように命じたというもので、信長の冷酷さを表すエピソードとして捉えられています。

本当に信長が命じたのか?

ことの発端となった五徳の訴状ですが、じつはその存在は確認されていません。内容は江戸時代のもので創作の可能性が高いでしょう。ただ、信康と五徳の関係が険悪だったのは事実のようで、それは「信長公記」や「家忠日記」「安土日記」など複数の書物に残されており、ふたりを心配した信長が鷹狩りを理由に何度か岡崎を訪ねたという記録も残っています。信長は意外に細やかな気配りをする人で、秀吉とその妻の寧々が夫婦喧嘩をした際には寧々に手紙を送って仲裁をしたこともあるほどです。

そもそも、この時期に信長が徳川家に圧力をかける明確な理由はありません。

長篠の戦いで打ち破ったとはいえ、武田勝頼は復活を目指し活動を活発化しており、東には大国・北条氏、そして上杉家、西には毛利家と、反織田を掲げる強国はまだまだ残っています。

徳川は対武田の最前線であり、さらには北条氏と同盟を結んだ間柄です。もしも家康が信長の命に反発して同盟を破棄すれば、信長は対武田の前線を失います。さらには徳川が武田と結び北条も動けば強力な織田包囲網が完成。そのようなリスクを信長が犯すでしょうか。

徳川の位置が対等な同盟から従属的な立場に変わったとはいえ、他家の後継者と正室を殺せと命じるのは重大なことであり、家康が織田との対決を選ぶ公算は低くありません。そもそも、家康及び徳川家の軍事能力の高さは信長自身がよくわかっており、仮に戦うことになれば、そう簡単に倒せないこともよく理解しているはずです。

信長は外交能力が並外れて鋭い人物であり、十分勝てると見越してから戦う慎重さをもっています。ただ信長としては五徳と信康の関係の悪さは、ひいては織田と徳川の亀裂につながることであり、そのことを気にしていたのは間違いないでしょう。だからこそ岡崎に訪れ、信康と五徳のあいだを取り持とうとしたと思われます。

そうした意味でも、この信康の自刃において信長が主導的な立場を取っていたとは考えにくいのです。

なぜ徳川屈指の外交官・石川数正を派遣しなかった?

信康自刃の謎を解くに当たって重要な点があります。

それは信長の「指示」についてです。

じつは信長は「信康を殺せ」とは言っていません。築山殿に至っては言及すらしていないのです。酒井忠次が安土に陳情に行った際には「徳川殿の思うがままに」としか言いませんでした。

言葉と結果だけ捉えれば、息子の処断の伺いを立ててきた家康に了解したという信長の意思表示に見えます。確かに、家康が自発的に信康を処断しようとすれば、そのことを信康の舅であり、名前を与えた信長の了解を取るのは自然です。

そもそも信康の助命嘆願をするならば、酒井忠次よりも織田・徳川の同盟を結んだ徳川屈指の外交官であり信康の後見人でもある、石川数正のほうが適任でしょう。

この人事から見ても、信康の処断の許可を信長に得るために家康は酒井忠次を安土に送ったのではないかという推測が成り立ちます。

戦国時代は親子でも激しく争うのが常です。さらに最近の研究では、信康のいる岡崎家臣団と家康のいる浜松家臣団のあいだに亀裂が生じていたということもわかりました。この構図は、家康が恐れ尊敬した武田信玄とその嫡男・義信とのあいだに起こった出来事とよく似ています。


母・築山殿とともに処断の対象とされ、自刃した松平信康(細田佳央太)は初陣から武功を立てた武将でもありました(画像:NHK大河ドラマ『どうする家康』公式サイト)

信玄は今川侵攻を巡り、正室との子であり嫡男だった義信と激しく対立しました。義信は武勇に優れ、その後見人には武田家の重臣・飯富虎昌が。結果的に信玄は自分の方針に従わない義信と飯富虎昌を危険視し、死に追いやります。

家康は、自分に従わない信康、そして浜松家臣団と岡崎家臣団の軋轢を重く見て、信玄と同様に非情な判断を下したのかもしれません。そして信康の母である築山殿には、信康の死で取り乱すことを懸念してと、信康が自分に逆らうようになった一因は彼女にあるとして、その責任を取らせた可能性があります。

そもそも家康は我が子に対して情が薄いところがありました。

幼少期に人質として出された家康の特殊性

自身も6歳から人質暮らしで父と離れ、織田の人質となった際には父に見捨てられます。そういう境遇ゆえ子への接し方がわからなかったのかもしれません。信康とは9歳のころから浜松と岡崎で離れて暮らしていたので、親子としてのコミュニケーションも十分に取れていなかったのでしょう。

さらに母親の築山殿には岡崎城に住まわせないなど冷たい仕打ちを行っており、(築山殿が岡崎城に入ったのは家康が浜松城に移ってから)そのことを信康が快く思っていなかったことも想像できます。このころの家康は信康だけでなく、お万の方とのあいだに生まれた次男の秀康も嫌い、面会すらせず認知もしませんでした。

秀康を認知させたのは信康でした。

ただし明確に家康と信康の不仲を記したものはなく、あくまでも推測の域を出ません。しかし後年、家康は6男の松平忠輝に「顔が恐ろしく三郎(信康)に似ている」と言って、この忠輝を毛嫌いしたという記録が残っています。


忠輝は、剣術の達人として知られ武勇に優れていましたが同時に気性が荒く、自分を抑えられない一面がありました。この点も信康とよく似ており、家康は自分の臨終の際にも忠輝のみは立ち会いを許さないという徹底した嫌いっぷりでありました。

家康にとっての信康は、恐れを抱くような存在だったのかもしれません。

一方で、関ケ原の戦いの折には「信康がいれば自分はこのような苦労しなくてもよかったかもしれない」と呟いたともされ(真偽のほどは不明)、信康に複雑な想いを抱いていたようです。

3男・秀忠は後継者として認めた

信康の自刃の理由に今のところ明確な答えはありませんが、江戸期に入って嫡男を死に追いやったという事実を、ある程度肯定するために五徳の訴状や、築山殿の不倫や武田との内通などが創作されたのかもしれません。

家康はこの後、3男の秀忠を手元で育てながら後継者にします。そして、自らは正室を迎えることはしませんでした。私は、それが非業の死を遂げた信康と築山殿に対する、家康のせめてもの贖罪のような気がします。

(眞邊 明人 : 脚本家、演出家)