徳川家康公銅像(写真: ブルーインパルス /PIXTA)

NHK大河ドラマ「どうする家康」の放送で注目を集める「徳川家康」。長きにわたる戦乱の世に終止符を打って江戸幕府を開いた家康が、いかにして「天下人」までのぼりつめたのか。また、どのようにして盤石な政治体制を築いたのか。

家康を取り巻く重要人物たちとの関係性をひもときながら「人間・徳川家康」に迫る連載『なぜ天下人になれた?「人間・徳川家康」の実像』(毎週日曜日配信)の第28回は武田家の重臣「穴山梅雪」が徳川に寝返った背景について解説する。

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「筆まめ」なタイプは相手の心を動かすことに長けている……と今でも言われるが、戦国時代もそうだった。徳川家康は、75年の生涯において、現存するだけで実に約3700通もの書状を書いている。

天正10(1582)年、織田信長の協力を得ながら、ついに武田勝頼を討ち取った年にも、家康はその手紙力を発揮している。その相手とは、武田氏の重臣、穴山信君(梅雪)だ。

武田姓をも許された穴山氏

もともと穴山氏は、甲斐武田氏7代当主である武田信武の子、義武が巨摩郡逸見郡穴山(山梨県韮崎市穴山町)にて「穴山氏」を名乗ったのが始まりとされている。甲斐武田氏の御一門衆として君臨し、武田姓をも許されていた。それが穴山氏である。


穴山氏発祥の地(写真:もぐもぐ / PIXTA)

16世紀前半から、穴山信友と、その息子である信君が、武田氏の重臣として存在感を発揮。信友は武田信虎の次女にあたる南松院殿を妻に、そして信君は武田信玄の次女にあたる見性院を妻として迎えており、親子2代で婚姻政策によって武田氏とのつながりを強化している。

そんな信君が、武田方を裏切ることになるとは、本人も想像していなかったのではないだろうか。

穴山信君は、今川家臣への凋落を担ったり、隣接する徳川氏との交渉を行ったりするなど、いわば外交のエキスパートとして、信玄から厚い信頼を寄せられていた。信玄から勝頼へと代替わりが行われてからも、やはり外交面でその手腕を発揮している。

信玄の死後、勝頼は長篠城こそ家康に落城させられるものの、天正2(1574)年の幕開けから、反転攻勢に出て、正月に美濃へと侵攻。明智城を攻略すると、5月には勝頼自身が遠江へと出馬。2万5000の兵を率いて出兵し、高天神城を包囲してしまう。

このとき、抵抗する城主の小笠原氏助に対して、勝頼は攻勢をかけながら、開城を促す交渉も展開。交渉役を担ったのが、穴山信君だ。見事に高天神城を開城させることに成功している。

「長篠の戦い」では撤退を主張するも却下

しかし、この頃から段々と勝頼は重臣の意見を軽んじ始めたようだ。高天神城を落とした約1年後の天正3(1575)年、勝頼は長篠城の周囲を包囲。連日のように攻め立てるも、陥落できないまま、織田と徳川の大軍が接近してきた。

すぐに軍議が開かれると、穴山信君らを始めとした重臣は、大軍相手に決戦することに猛反対したという。だが、勝頼の意見は違った。信長と家康が居並ぶ戦場で勝利することでこそ、道が開けると確信したらしい。重臣たちの意見を退けて、決戦に踏み切っている。その結果、あえなく大敗を喫して、武田氏は数千人にもおよぶ兵を失うこととなった。

この長篠の戦いにおいて、穴山信君は大した働きをしなかったらしい。
敗戦後、総大将の勝頼はなんとか生き延びて、数百人の旗本とともに退却。信濃で高坂昌信(春日虎綱)に迎えられている。

昌信は「武田四天王」の1人だが、そのほかの山県昌景、馬場信春、内藤昌豊の3人は、長篠の戦いで命を落としている。

武田氏が危機的状況を迎えるなか、昌信も何とかしなければと考えたのだろう。『甲陽軍鑑』によると、五箇条の献策を行ったという。そのうちの1つが、次のようなものだった。

「武田信豊、穴山信君には腹を切らせること」

なぜ、今この状況下で、わざわざ戦力を減らすようなことを……と思ってしまうが、なんでも「長篠の戦い」において、穴山信君らは右翼に位置しておきながら、目立った働きをしなかったばかりか、早々に戦線を離脱したのだという。

『甲陽軍鑑』は裏切り者となった穴山信君に手厳しく、またこの五箇条の献策自体が、実際にあったかどうかは疑わしい。たとえ事実だとしても、穴山信君からすれば、自分たち重臣の意見を退けてまで、無謀な決戦を決めたのだから、少なくとも前向きにはなれなかったことだろう。

穴山信君は戦線離脱したあとに、勝頼の本陣までやってきて、こう言い放ったともいわれている。

「信玄以来の家老衆をことごとく殺してしまったではないか!」

この発言も事実かどうかは怪しいが、内容自体はその通りだと言わざるをえない。勝頼からすれば、ぐうの音も出なかったことだろう。

重用されても裏切ったワケ

結局、勝頼は昌信の献策をほとんど却下しており、穴山信君にいたっては、切腹どころか、かえって重用している。信君は戦死した山県昌景に代わり、江尻城に入ることになり、そこが駿河支配の拠点となった。

勝頼からすれば、やはりベテランの力を借りざるをえないということだろうが、信君からすれば、沈みゆく船で今さら奮起するのは難しかったのではないだろうか。

また勝頼は、息女を穴山信君の嫡男に嫁がせる予定だったところ、婚約を破棄。その相手を従弟の武田信豊に変更した。信君の胸中は穏やかではなかっただろう。

信君の勝頼に対する不信感が高まるなか、絶妙なタイミングでアプローチを行ったのが、家康である。天正10(1582)年3月2日、こんな趣旨の手紙を穴山に送った。

「当方に帰服するならば、甲斐一国をあてがうが、その前に、信長から扶持を貫えるように斡旋する。もし、それがうまくいかなければ、家康が扶助する」

この書状が秀逸なのは、提案内容が極めて具体的なところである。何をすれば、どんな見返りがあるのか。しかも、家康は信長とかけ合うことを約束すると同時に、「うまくいかなかった場合」についても、きちんと明記している。

相手の立場に立って、不安に思うことのないように配慮する――。この細やかさが家康の真骨頂だろう。信君はこの手紙を受けて、家康を仲介として、信長へと寝返ることとなった。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉〜〈5〉現代語訳徳川実紀』(吉川弘文館)
宇野鎭夫訳『松平氏由緒書 : 松平太郎左衛門家口伝』(松平親氏公顕彰会)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
笠谷和比古『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』 (ミネルヴァ書房)
平山優『新説 家康と三方原合戦』 (NHK出版新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』 (PHP新書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
日本史史料研究会監修、平野明夫編『家康研究の最前線』(歴史新書y)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)
佐藤正英『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫)
平山優『武田氏滅亡』(角川選書)
笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
黒田基樹『家康の正妻 築山殿』 (平凡社)

(真山 知幸 : 著述家)