高野山奥之院の織田信長墓所(写真: Skylight /PIXTA)

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、徳川家康が主人公。主役を松本潤さんが務めている。今回は本能寺の変勃発の背景を分析する。

天正10年(1582)5月26日、織田重臣・明智光秀は、中国地方に出陣するため、近江坂本を立ち、丹波亀山城に到着。翌日には、亀山から愛宕山に赴き、一晩参籠(寺社に一定の期間こもって祈願すること)し、神前で御籤を二度・三度と引いたという。

同月28日には、連歌を興行し「ときは今あめが下知る皐月哉」(時は今である。雨が世に降る5月であることよ)と光秀は詠んだ。そして同日には亀山に帰城する。

一方、織田信長は、同月29日に上洛。夕刻には宿所である本能寺(法華宗本門流、四条坊門通西洞院にあり)に入る。

信長からすれば想定外だった本能寺の変

本能寺は広い寺域を持ち、水堀や土居(土塁)で囲まれていたため、城と同様の防御性を持っていた。お供の者は、小姓衆20・30人のみであった。国に戻り出陣の用意を整え、命令があり次第、出立するよう命じられていたので、信長の周りに軍兵はいなかったのだ。

後世から見れば、これは信長の油断と言うこともできるが、信長からしてみたら、まさか自分を襲う者がいるとは想定外だっただろう。

信長=独裁者、独裁者は猜疑心が強いというイメージから、信長を疑り深いと思っている人もいるかもしれないが、そうとばかりは言えない。信長はこれまで多くの武将に裏切られてきた。妹婿の浅井長政、臣従した松永久秀や荒木村重……。彼らの謀反情報が入ったときに、信長は謀反を信じられないといった態度を示している。

浅井が寝返ったときも「裏切り情報はうそだ」と最初は思い込んでいたし、松永や荒木が謀反したときも「どのような事情があるのか。存分に思うところを申せ。望みを叶えてやろう」と落ち着いて話している(『信長公記』)。

そうした発言からは、彼らが裏切る理由もわからないし、そもそも裏切ることなどあまり想定していない信長の心理を垣間見ることができる。そのため、信長が少数のお供の者を連れて本能寺に入ったことは、これまでの信長の言動を見ていれば、それほど驚くことではない。

さて、6月1日、公家や僧侶が信長のもとに挨拶にやって来る。信長は彼らと話をし、同月4日には西国に出陣する。「戦はたいした手間はかからない」などと述べたという。信長の後継者・織田信忠は、家康らの警護のため上京後は堺まで同行するはずであったが、信長上洛を知り、自らも京都に留まっていた(宿泊所は本能寺の至近距離にある妙覚寺)。

もし、信忠が堺に行っていたら、彼は生きていた可能性が高く、そうなると後の歴史(天下の趨勢)も変わっていたであろう。

本能寺に向かう明智軍

同じ頃(6月1日の夜)、明智光秀は信長への謀反を企て、重臣らと謀議していた。『信長公記』によれば、信長を討ち、天下の主になるために挙兵したという。

一方で『三河物語』には、光秀謀反の理由などは書かれてはいない。明智の軍勢は、中国方面に向かうはずだったが、途中で引き返し、馬首を京都・本能寺に向けた。

本能寺を取り巻いた明智軍は四方から乱入。信長や小姓たちは初め、これを下々の者の喧嘩と認識したようである。

だが、叫び声が上がり、鉄砲を撃ち込んできたのもわかって、「謀反」だと認識した。「如何なる者の企てぞ」と問う信長に対し、森蘭丸は「明智の者に見えます」と応答。

「是非に及ばず」(やむをえない)。信長はそう話すと、弓を取り、矢を放ち抗戦する。そうした間にも、明智の軍勢に押されて、お供の者は次々に討死していく。

弓矢を放ち戦っていた信長だったが、弓の弦が切れてしまい、途中からは槍で応戦した。しかし、肘を敵の槍で突かれたことから、前線から退く。そのとき、女中衆に対して「女たちはかまわぬ。急いで脱出せよ」と述べたという。

すでに本能寺からは火の手があがり、延焼していた。信長は敵に最期の姿を見せたくないと思ったのか、寺中深く入り、戸口には鍵をかけ、自害するのであった。

『三河物語』にも本能寺の変の描写があるが『信長公記』に比べて、簡素である。

それは『明智光秀は、信長が取り立てた者で、丹波国を与えられていたが、突然裏切った。光秀は夜襲をかけ、本能寺に押し寄せ、信長に腹を切らせた。信長は表に出て「信忠の裏切りか」と仰せになったが、森蘭丸が『明智の裏切りのようでございます』と答えると『明智の変心か』と述べた。信長は明智の配下に槍で突かれると、奥に引き下がる。蘭丸は槍で戦い、戦死する。館に火を放ち、信長は焼死した』というものだ。

我が子の裏切りを疑う信長

内容は『信長公記』とほぼ同じだが、軍勢が押し寄せたとき、信長が「信忠の裏切りか」と言い放ったというのが、特徴的だ。

信長が本当にこんなことを言ったのか、本当のところはわからないが、信長の身になって考えてみたら、自身のいちばん近くにいるのは、信忠ぐらいだ。

「信忠が裏切ったのか」と感じたとしても、大きな違和感はない。49歳で自刃した信長。父が急襲されたことを知った嫡男・信忠は妙覚寺を出て、父と共に戦おうと思い立つ。

しかし、寺を出たところで、村井春長軒父子に出会い、本能寺はすでに焼け落ち、敵がこちらに攻め寄せてくること、堅固な二条御所に立て篭もることをアドバイスされる。

二条御所に入った信忠に対し「まずは安土に引き揚げては」と助言する者もあったが、信忠は「このような謀反を起こすくらいだから、敵は我らを易々と逃しはしまい」と京都に留まり、決死の覚悟で戦うことを決意。そうこうするうちに、やはり明智の軍勢は攻め寄せて来て、次々と信忠の周りにいた者を討っていった。 

明智の軍兵は、近衛前久の御殿の屋根にまで上がり、弓や鉄砲で攻撃を加えてきた。そのため、信忠方の死傷者は続出。ついに、御所は無人に近い状態になる。

明智軍は御所内に侵入し、放火する。信忠は「私が切腹したら、縁の板を外し、その中に入れよ。死骸を隠せ」と命じたうえで、家臣に介錯させた。


「本能寺跡」の石碑(京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町)(写真: skipinof /PIXTA)

『三河物語』にも二条御所の戦いの記載はあるが『信長公記』の文を基に先述した内容と比べると、こちらも簡潔である。「明智は、信忠の館へ押し寄せた。織田九右衛門尉、福富をはじめ、百余名が籠っていたので、火花を散らした戦いがあった。信忠はじめ、その殆どが戦死した」とあるだけだ。

信長・信忠を討ち果たした光秀は、落人狩りのため、家々を捜索させた。洛中の町屋に明智の軍勢が踏み込んできたので、都は騒然となった。光秀は信長を討てば多くの者が自分に味方してくれると考えていたかもしれないが、その見通しは甘かった。

「人質を出し、味方せよ」と勧誘した勢田城主・山岡景隆に「信長公には高恩がある。同意できかねる」と早々に加勢を蹴られている。

多くの人々に衝撃を与えた本能寺の変

光秀は、近江から織田方の軍勢が進軍してくるのを恐れ、その日のうちに近江国へと向かう。安土にいた織田に仕えていた人々は「信長死す」の噂が流れてくると、初めは狐につままれたような顔をしていたが、しだいに大混乱となる。

信長や信忠の死を嘆き悲しむ者はおらず、自身の進退に汲々とする有様であったという。貴重な道具類もそのままに、妻子のみを連れて、故郷に帰る者も多かった。本能寺の変は、多くの人々に衝撃を与え、混乱の坩堝へと突き落とすことになったのだ。

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)