2022年公開の映画では「不倫される妻」を演じた広末涼子。左は夫役の豊川悦司(画像:映画『あちらにいる鬼』公式サイトより)

芸能人が不祥事を起こすたび、彼らの出演作を封印すべきか、作品には罪はないのかと喧々囂々、議論がなされる。人気シェフ・鳥羽周作との不倫を報道された広末涼子の出ている作品も、目下その議論の俎上に載る中、“朝ドラ”こと連続テレビ小説『らんまん』(NHK総合)は広末の出演シーンを6月30日(金)に放送した。

『らんまん』は4月から放送がはじまり、広末は、植物学者・牧野富太郎をモデルにした主人公・槙野万太郎(神木隆之介)の母親・ヒサとして序盤を彩った。第1週で早々、病で亡くなり退場するも、万太郎の人生の選択に大きな影響を与える重要な役だ。

母のヒサが好きだった花バイカオウレンを万太郎は大事にして、日陰に咲く小さな花の生命力の尊さが主人公の生きる指針になる。さらにヒサは、亡くなっても、子どもを見守り、その心は次世代の者に繋がっていく、ということの象徴にもなっている。いわば、聖母のような存在。そんな大事な役を広末は演じていたのだ。

さらに彼女は、主人公の出身地・高知出身者でもあり、2重に重要な存在であった。だからこそ、不倫という行為に落胆する視聴者がいても仕方ない。

騒動の最中、放送された『らんまん』のシーン

俳優やタレント、アイドルという偶像は、イメージが大事で、爽やかとか家庭的とか、清廉潔白なイメージを打ち出してしまうと、それに反する私生活が見えたときがっかりされてしまう。

だが、もともと、奔放なイメージだとそうでもない。なんだか不平等な気もするし、どういうキャラで売っていくかは本人の希望なのか、マネージメント側の思惑なのかわからないが、ともあれ、広末の場合は、ベストマザー賞を受賞して、仕事も子育ても両立する俳優という信頼感を不倫によって崩したため、出演していた広告をストップされたり、雑誌の連載が休止になったりした。

高知出身の広末涼子は、1994年、ピッカピカのスーパーアイドルとしてデビューし、絶大な人気を博した。すらりと伸びた手足と卵型の輪郭、つるっつるの肌、さらさらのショートカットで、健康的な魅力を振りまき、男女問わず人気であった。早稲田大学に入るという知性的な面もあり、パーフェクト。

そんな絶対王者・広末が、俳優として活動するようになると、自由奔放な面を芸能ニュースに書かれたりもしながら、やがて結婚し、3人の子の母親になり、ベストマザー賞を受賞して、子育ても仕事も両立する憧れの的としてのポジションを確立していたところの不倫発覚で、列島に衝撃が走ったのだ(ちょっと大げさ)。

夫のキャンドル・ジュンが異例の赤裸々会見を開いたり、広末が不倫相手に送った手紙の文字を達筆と褒める記事が出たり、キャンドル・ジュンにもハラスメント疑惑が出てきたり、それはもう大騒ぎの中、『らんまん』は広末のシーンをカットしないで放送。すでに先週(第12週)でも回想シーンがカットされずに放送されていた。

なぜ『らんまん』では出演シーンが放送されたのか

第13週の、新規に放送されたシーンがどういう内容かというと、主人公・万太郎が寿恵子(浜辺美波)という女性と結婚するにあたり、実家に挨拶に戻ると、祖母タキ(松坂慶子)が病に臥せっている。この祖母の死の間際に、広末が演じるヒサが登場する。


松坂慶子演じる祖母タキ(真ん中)との別れ(写真:NHK『らんまん』公式サイトより)

本来、松坂慶子が祖母の大往生を演じることが見せ場にもかかわらず、広末が出る出ないが話題になるというのはいささか残念ではある。そういう意味では、やっぱり俳優は出演作のイメージを守る責任があるとは思う。

それでもカットできないのは、広末演じるヒサの存在も重要で、すでに先立ったヒサが幻のように登場するのは、脈々と続く、“嫁の道”のイメージでもあるのだろう。

江戸から明治、まだまだ男性社会の中、いかに女性が苦労したか。主人公の家は、代々夫が先立ち、残された妻が必死で頑張って家を守ってきた。しかも実子でない綾(佐久間由依)まで分け隔てなく育て、結果、長男・万太郎は植物学の道に進むため、綾が家を継ぐことになる。継承を描く大事なシーンだからカットできないのも無理はない。

筆者は、広末の出演作はどうあるべきかという某ネット媒体の取材に、いい演技を見せてくれるなら構わないと答えた。

『らんまん』での広末の演技については、出番が短いながら、印象的ではあった。短い分、母の物語があまり描かれていないとはいえ、子どもへの慈愛のようなものは感じることができたし、なんといっても華があるという点では起用される意味があったと考える。

ただし、じゃあ、広末涼子は演技派かといえば、良くも悪くも、スーパーアイドルだったという印象のまま脱皮できていないように思う。だからこそ、好感度が先に立ち、それを裏切るような私生活への批判が噴出してしまうのだろう。

広末の「浮気される妻役」は実に味わいがあった

だが1作、俳優というよりはタレントという印象のある広末の存在感に目を見張った作品がある。『あちらにいる鬼』(廣木隆一監督)である。

2022年11月に公開された映画で、作家で僧侶の瀬戸内寂聴をモデルにした主人公を寺島しのぶが演じた。瀬戸内寂聴が同業者で妻子ある井上光晴との7年にもおよぶ道ならぬ恋をした、その情念の物語を題材にして、井上の長女で直木賞作家の井上荒野が書いた小説を映画化したものだ。

光晴をモデルにした人物を豊川悦司、その妻をモデルにした役を広末が演じた。この浮気される妻役が実に味わいがあってよかったのである。寺島しのぶと豊川悦司という名優の圧倒的な情感にかき消されることない存在感を放っていたのだ。

広末が演じた妻は、実によくできた人物で、作家である夫を支えている。それはいわゆる妻としてだけではなく、夫の作品にも関わっているのである。本当は彼女にも才能があるかもしれないにもかかわらず、夫の作家活動を陰で支えている。夫の浮気相手は、彼の才能を尊敬している作家であり、その彼女は作家としてメキメキ頭角を現していく。妻はどれだけ忸怩たる想いを抱えていただろうか。

妻の抑圧された想いを、実生活では浮気相手のほうの立場になってしまった広末涼子が見事に演じていたことは、今思えばじつに皮肉である。

仕事も恋も思うがまま情熱的に生きる人物ではなく、仕事も結婚生活も支える側を演じる。ただし、この原作も映画も、妻の存在意義が尊重されている。最終的に、夫婦と愛人の3人は「書く」という行為を通して、同志のようになるのである。

広末演じる妻はその同志たる、とても理知的で魅力的な人物に見えた。原作の作者がこの妻の娘であり、母の存在意義を大切に描いているからこそ、この役がとてもよく見えるとも言えるわけだが、たとえどんなにいい役でも、演じる人物が拙かったら残念なことになる。もしかして、私生活と逆の役を演じたほうが、いい方向に出るのかもしれない。

広末のエネルギーを生かせる作品

広末涼子の良くも悪くも旺盛な生命力を、忍従する役で抑制することによって、それでもなお溢れ出るものがなんともいえない役の魅力になったのではないか。この役を、地味な日陰の身のように演じてしまったら、不幸で可哀想に見えてしまう危険性があるけれど、この妻は決して可哀想ではなく、かっこいいのだということを広末がみごとに体現したのではないか。

そういう意味では、『らんまん』における病弱な母も、一見、広末にそぐわないような役ながら、病弱だけど、人一倍、愛情の強い、子ども想いの最高の母として、役を光り輝かせることに、広末は成功したのである。彼女のエネルギーを生かせる作品がもっとあればよいのにと切に思う。

(木俣 冬 : コラムニスト)