生成規則に従うだけのコンピュータとは異なり、人間は柔軟な行動をとることができます(写真:Fast&Slow/PIXTA)

かつて、感情は理性による論理的な思考を妨げるものであり、避けたり抑えたりすべきものとされていた。しかし、「感情神経科学」という注目を集める研究によって、感情や情動は人間の意思決定などに大きな役割を果たしていることが明らかになっている。感情や情動は直感的で正しい判断を下すために必要不可欠であり、それをコントロールすることは、社会的成功にとっても欠かせないものなのだ。今回、日本語版が6月に刊行されたレナード・ムロディナウ氏の著書『「感情」は最強の武器である』より、一部抜粋、編集の上、お届けする。

人間の思考の数学的モデルを作る試み

これまで現代科学では、感情の必要性や、反射的行動(「何も考えずに」おこなう反応のこと)と比べたその利点は必ずしも認識されていなかった。


それどころか、いまから半世紀足らず前ですら、認知心理学者のアレン・ニューエルや経済学者のハーバート・サイモン(のちに別の研究でノーベル賞を受賞する)などの科学者は、人間の思考は突き詰めれば反射的であると唱えていた。

1972年にニューエルとサイモンは、論理やチェスや代数を用いたパズルを被験者に次々に出し、解きながら自分が何を考えているかを声に出すよう指示した。

そしてその様子を録音して一瞬ごとの言葉を丹念に分析し、規則性を探した。目的は、被験者の思考プロセスを支配する規則を見つけ出して、人間の思考の数学的モデルを作ることだった。

そうすることで、人間の心に関する新たな知見を得て、線形的な論理ステップの限界をはるかに上回る「知的な」コンピュータプログラムを作る方法を発見できればという狙いだ。

ニューエルとサイモンは、人間の理性、すなわち思考は、いくつもの反射的反応からなる複雑なシステムにすぎないと考えていた。

正確に言うと、思考は生成規則システム(プロダクションルールシステム)と呼ばれるものでモデル化できるということだ。これは、「もし……ならば、……をせよ」という形の厳格なルールの集まりのことで、全体として反射的反応を生み出す。

たとえばチェスにおけるそのようなルールの1つが、「王手を掛けられたらキングを動かせ」というものだ。生成規則を踏まえれば、我々が何らかの決断を下す方法、ひいてはいくつかの行動に光を当てることができる。

たとえば人は、「物乞いからお金をせびられたら無視せよ」といったルールにある程度無意識に従う。人の思考が本当に巨大な生成規則システムにすぎないとしたら、我々はアルゴリズム的なプログラムを走らせるコンピュータとほとんど違いはないことになる。

しかしニューエルとサイモンの考えは間違っていて、彼らの取り組みは失敗に終わった。

その失敗の原因を解き明かせば、我々の情動系の目的と機能に光を当てることができる。単純なシステムにおいて完全な行動戦略を組み立てるには、どのように生成規則を組み合わせればいいか、考えてみよう。

「生成規則システム」とは?

例として、屋外が氷点下のときに屋内の温度がたとえば21℃から22℃の範囲内に保たれるよう、サーモスタットをプログラムするとしよう。それは次のようなルールを使えば実現できる。

ルール1――温度が21℃未満であればヒーターを入れる。
ルール2――温度が22℃より高ければヒーターを切る。

旧式のヒーターでも最新型のスマートヒーターでも、このようなルールがヒーターの頭脳の土台をなしている。

このような条件付きの命令を組み合わせることで原始的な生成規則システムが作られ、ルールが多いほど複雑な課題を扱うことができる。

たとえば小学生に引き算の筆算を教えるには、「下の数字が上の数字よりも大きければ、上の数字の左の数字から1を借りる」といった10個ほどのルールが必要だ。

複雑な課題の中にはこのようなルールを何千も必要とするものもある。医療診断や住宅ローンの審査など、特定の課題における人間の判断を真似たプログラム、いわゆる「エキスパートシステム」を構築することもできる。

そのような課題に関してはこの方法論はある程度成功を収めている。しかし、生成規則だけでは人間の思考のモデルとして十分でないことも明らかになっている。

ニューエルとサイモンが失敗した根本原因は、人間の生活が多様であることによる。大腸菌などの単純な生物は一連の反射的ルールだけで生きられるが、もっと複雑な生活を送る生物ではそうはいかないのだ。

腐った食べ物を前にしたときの反応

例として、腐った食べ物や毒入りの食べ物を避けるという一見単純な課題について考えてみよう。そのような食べ物の中には匂いで判別できるものもあるが、そうした「嫌な」匂いには膨大な種類がある。

腐った食べ物の中には見た目や味や触感などで見分けられるものもあるが、それにもたくさんのタイプがある。すっぱい牛乳とカビの生えたパンとでは、見た目も匂いもまったく違う。そのような指標の強弱も重要である。

見た目はちょっと怪しいが匂いは問題ないのであれば、代わりの食べ物を見つけられる見通しや難しさによっては食べたいかもしれない。

見た目がすごく変であれば、匂いが問題なくても避けたいかもしれない。しかし飢え死にしそうだったら、見た目を気にせずに口にするかもしれない。

考えられる状況と反応のあらゆる組み合わせに対して、具体的で厳格で許容範囲の狭いルールを当てはめていたら、脳がパンクしてしまうだろう。そこで別の方法論が必要となる。

その方法論を提供してくれるのが情動だ。

反射作用では、ある特定の誘因(たとえば牛乳がすこしすっぱい匂いがするが、ここ何日も食べ物を口にしていないし、近くにほかの食べ物や飲み物はないかもしれない)が、それに合わせた自動的な反応(たとえばその牛乳を飲む)を引き起こす。

しかし情動の働き方はそれと異なる。誘因はもっと漠然としているし(飲み物の見た目や匂いがおかしい)、それから直接引き起こされるのは行動でなく、強弱さまざまな情動(ちょっと嫌だ)である。

すると脳はその情動と、ほかにいくつかの要素(ここ何日も食べ物を口にしていない、近くにほかの食べ物や飲み物はないかもしれない)を考慮して、反応のしかたを「計算」する。

こうすれば、一定の誘因/反応のルールを膨大な数取り揃えておく必要がなくなる。しかも柔軟性が大幅に高まるため、さまざまな反応のしかた(何もしないことも含む)を検討して、熟慮の上で決断を下すことができる。

脳は情動に対する反応を決める際に、複数の要素を考慮に入れる。いまの例では、どれだけ腹が空いているか、ほかの食べ物を探しに行くのがどのくらい嫌であるかなど、いくつかの状況を考慮する。

そこに関わってくるのが理性的な心だ。情動が引き起こされると、事実や目的や道理、および情動的要素に基づく精神的計算によって行動が導き出される。状況が複雑な場合には、このように情動と理性を組み合わせることで、実行可能な正解をより効率的なルートで達成できるのだ。

情動が担うもう一つの役割

高等動物の場合、情動はもう一つ重要な役割を担っている。情動を引き起こした出来事からその反応までのあいだに「遅延」を設けることができるのだ。

そのおかげで我々は、ある出来事に対する本能的反応を理性的思考によって巧みに調節したり遅らせたりして、もっと適切な機会を待つことができる。

たとえばあなたの身体が栄養分を欲しているとしよう。目の前にはスナックの袋がある。反射的に反応するならば、何も考えずにそれをむさぼり食うだろう。

しかし進化によってこのプロセスには1つ余計なステップが挿入されていて、身体が栄養分を欲しがっていても、視界に入った食べ物を自動的に口に入れることはしない。代わりに空腹感という情動を感じるのだ。

その情動によって食べることへと促されるが、この状況に対する反応はもはや自動的ではない。状況をじっくり考えて、スナックは我慢しようと決めれば、夕食のダブルベーコンチーズバーガーのためにお腹を空けておける。

あるいは、ネットがつながらなくて通信会社に電話を掛けたら、担当者に冷たくあしらわれたとしよう。

もしもあなたが反射的に行動する動物だったら、相手に食ってかかって「地獄に落ちろ、この間抜け野郎」などと罵声を浴びせるかもしれない。

だが実際には、担当者の振る舞いを受けてあなたは怒りや欲求不満などの情動を抱く。あなたの心がこの状況を処理する方法はこの情動から影響を受けるが、それとともに理性的な自己からの入力も受け入れる。

それでも相手に食ってかかるかもしれないが、それは自動的ではない。代わりにその衝動を無視して、一度深呼吸してから、「規約は分かりますが、この場合それが当てはまらない理由を説明させてください」などと説きつけるかもしれない。

情動が柔軟な行動を可能にする

人間以外の動物、とくに霊長類でも、そのような形で情動が作用することがある。動物行動学者のフランス・ドゥ・ヴァールが著した『チンパンジーの政治学:猿の権力と性』という本を取り上げよう。

もしもあなたがチンパンジーだったとしたら、何ともショッキングな一冊である。その中でドゥ・ヴァールは以下のような事例を紹介している。

若い雄は受け入れてくれる雌に興奮してもいったん待って、懲らしめに来るかもしれないボスザルに見つからずに交尾する方法を雌とともに探す。

またボスザルは、取り巻きのサルを毛づくろいして回っている最中に年下の雄から喧嘩を吹っかけられても無視し、翌日になって報復攻撃をすることがある。

母ザルは自分の子供が若いサルに奪われると、そっと後をついていって、子供を怪我させずに取り返すチャンスを待つ。

カリフォルニア工科大学教授で米国科学アカデミー会員のデイヴィッド・アンダーソンは、次のように言っている。

「反射的行動では、きわめて特定の刺激から特定の反応が即座に引き起こされる。そのような刺激にしか出くわさず、そのような反応しか必要ないのであれば、これで問題ない。しかし進化のある時点で動物にはもっと高い柔軟性が求められるようになり、それをもたらすために情動の構成要素が進化したのだ」

(翻訳:水谷淳)

(レナード・ムロディナウ : 作家、物理学者)