大阪の街を愛し、大阪弁を愛した作家の田辺聖子(写真:霜越春樹)

1964年に「感傷旅行」で芥川賞受賞し、2008年には文化勲章を受章した作家の田辺聖子。大阪の街を愛し、大阪弁を愛した理由と生き方に迫る。

※本稿は『道をひらく言葉 昭和・平成を生き抜いた22人』から一部抜粋・再構成したものです。

4世代、20人以上が暮らす大家族の中で育った

花柄の服に、ぬいぐるみ。仕事、恋、人生を上質なユーモアで包んだ柔らかな大阪弁でつづり、多くの読者に愛された作家・田辺聖子。「おせいさん」の愛称で親しまれた田辺はかわいらしいものが大好きだった。

「フランソワーズ・サガンに憧れてたの。サガンの小説が好きだったから、大阪弁でサガンを書こうと思った。だから恋愛小説をたくさんたくさん書きました」

1964年に短編小説『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』で芥川賞を受賞。一躍、人気作家となる。その後、数多くの小説、エッセイのほか、『源氏物語』の現代語訳など、古典文学の紹介や文学者たちの評伝にも力を注いだ。2008年には文化勲章を受章している。

田辺が生まれたのは1928(昭和3)年。実家は大阪市此花区(現・福島区)で写真館を営んでいた。4世代、20人以上が暮らす大家族とともに、大阪の文化を全身に浴びて育った。

「大阪の街ってだいたいはハイカラなところがあるのよ。みんなシャンソンとかアメリカのポップスなんか歌いながら、自転車を走らせたり。丁稚さんも番頭さんもみんな好きでしたのよ。

私たちも小っちゃいときから道頓堀の洋画の封切り館松竹座へ(映画を)観に行ったり、父たちや若い叔父や店の人全部そろって幌タクシーなんかでミナミの道頓堀のカフェに乗り込んだりして、みんな跳ね出してたの。でも、その一方で祖父みたいに浪花節が好きで、広沢虎造さんなんか聴いたり。もう私はゴッタ煮の中で育ってますの」

幼いころから本が大好きで、とくに少女小説を愛読していた。女学校時代には友人たちと手づくりの文芸雑誌を制作していたという。

「小説らしきものを書いてクラスメイトに回覧したりしてたの。吉屋信子みたいにロマンチックなのが好きですけど、山中峯太郎の冒険小説も好きだったのね。例えば『蒙古高原の少女』という題だったかな。私が女学校のときはちょうど戦争中ですから、少女スパイになってお国のために尽くしたかったの」

幸せな少女時代を奪い尽くした戦争

しかし、戦争が容赦なく田辺の幸せな少女時代を奪い尽くす。大阪大空襲で自宅の写真館は全焼してしまった。そして父親は病死する。優秀な成績で女学校を卒業した田辺は、小説家の道を進むことを決意しつつも、極貧に陥った田辺家の家計を助けるために、大阪の金物問屋で働きはじめる。

「やっぱり弟妹のことを考えると、どうしても学校に上げてやらなければと思って。でも、それはそれで、勤めに行ったお店がすごく元気があって面白かったの。商売の世界というのは打てば響くようなところがありますから」

田辺は苦境をものともせず、むしろ喜んで金物問屋で働いた。勤め先で田辺が知ったのが、大阪弁の面白さと奥深さだった。

「大阪人って不思議なところがありまして、自分のことを言うのに人のことを頼んでるみたいに言うんです。

例えば男性が女性をくどきますときに、『こない入れ込んでいるんやから、エエ返事聞かしたりいな』。お友だちのことを頼んでるのかと思っておりますと、本人が自分を売り込んでますの」

「『ええ返事聞かしたりいな』なんて、こういうまわりにまわったくどい言葉。商売の街ですから、お互いに気を悪くしないで、相手を傷つけないように断わったり、売り込んでもダメなときは、『ほんだらこの次はあんじょうお願いします』と言えるように」

大阪の商人が使う独特の言葉も学んだ。そこには大阪の人たちの知恵が息づいていた。

「『相手が返事に困るようなこと言うたらアカン』という商売人のそういうのを仕込まれます。向こうが面白がって返事するような会話をしないといけない」

ある番組では質問にこう答えている。

──解説して下さい。まずは「猿のションベン」。

「『気にかかる』というシャレですよ」

──「木にかかる」、なるほど。「赤子の腰」って何ですか?

「『ややこしい』という。ヤヤコでしょ、赤ちゃんは。会話の中にこれを挟んで『ちょっと赤子の腰やな』って『ややこしい話やな』ということになります」

──「八月の槍」というのは何ですか?

「『ぼんやり』ですね」

──(八月は)お盆だから。

「『ぼんやり』と言われたら、言われた方も『何だ?』ということになりますけど、『ほんまに八月の槍やな』『スンマヘン』と、こうつい声が出て来るんですよね』(中略)

「先輩が使うので、だんだん新米の丁稚さんたちが覚えていって。覚えると会話がスムーズになって、相手の商店のご主人としゃべるときに大変楽なもんですから、テクニックとして覚えてはるのね。

(中略)なるだけ相手を怒らせないようにして、こっちの言い分も通して、そして向こうの言い分も聞いてあげて。ほどほどのところでうまいこと『双方怒らんうちに手打とうやないか』という」

26歳で大阪文学学校に入学、小説を書き続けた

大阪人の気質と大阪弁の素晴らしさを知った田辺は、大阪弁で小説を書きたいと強く思うようになる。7年間勤めた金物問屋を辞めて、26歳で大阪文学学校に入学。仲間たちと同人誌をつくり、10年もの間、ひたすら小説を書き続けた。20代で結婚、出産するのが当たり前だった当時の女性としては非常に珍しいことだった。

「今もそうだと思うけど、26から36って、当時の女性にとっても大切な時期だった。私は結婚する予定も全然なかったし、家族から『将来どないすんねん』と言われていたけれど、『自分で自分に聞きたいわ』っていうぐらいだった。

案外のんきでポカッとしてたのは、物書き仲間の志を同じにする人たちと集まって、作品をああだこうだと批評し合う、これが本当に楽しくて、こういう楽しみがあってほんのちょっとのお金を稼げたら、もう人生何もいらないっていうぐらい面白かった」

1956年に書いた『虹』で大阪市民文芸賞を受賞。本格的な作家活動に入り、恋愛をテーマにして大阪弁を取り入れた小説の創作に取り組んだ。そして1964年、大阪弁を用いた『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』で芥川賞を受賞する。

「芥川賞もいただいても、ちっともうれしくなかったの。これから後のほうが大変ですもんね。

一足前に直木賞いただいてらした司馬遼太郎さんのところにご挨拶に行ったときに、司馬さんは『もう書けないかもしれない、どうしよう』なんて言いましたら、司馬さんが『心配せんでもええねん。あんた、向こうは練習させてくれはんのやと思うて書いたらええ』って。

とってもやさしくて。そういうことを聞いて、『ああ、そうかしら。練習、練習』と思っちゃった。厚かましいわね」

嫁いだ先は、10人の大家族

大きな転機が訪れたのは38歳のとき。4人の子を持つ開業医・川野純夫と結婚したのだ。嫁いだ先は、10人の大家族だった。川野はエッセイにも「カモカのおっちゃん」として登場し、読者に親しまれた。

「私、なんで若いときに結婚しなかったかというと、男性が恐かったのね。何考えているかわからへん。それであんまり(しゃべる)機会もなかった。しゃべらへん分、小説に書いてた。

(中略)社会的な出来事をしゃべったのは結婚してからおっちゃんとでしか(ない)。おっちゃんはおしゃべりやから。『そのとき、あんたはどない思ってん?』『う〜ん、そうね』なんて言いながらしゃべったのね。『あんた口数少ない言うけど、ウソつけ。ようしゃべってるやないか』『しゃべってますか、私』。

そんな感じだったの。こんだけしゃべれるんだったら大丈夫と思って」

「『こんなに朝も昼もしゃべってんのやったら、いっそ一緒になろうか』。『しゃべる時間多くなるやないか』と言うの。『しゃべる相手もいっぱいおるし』と言うから、何かと思ったら子どもを4人連れてきた」

夫と毎日のように晩酌しながらさまざまなことを語り合い、家事や子育ての合間に小説を書く。新しい環境で、作家としての視野が大きく広がったという。

「同じような世代で育ってますけど、4つ年上でしかも男性というのはやっぱり自分が発表すべきこといっぱい持ってて、それをちゃんとしゃべりおるからね。要領得て、よくわかるようにしゃべる。『これが大人の男の説得力やな』というのを学んだわけよ。

それまでは男性を書いてるけれども、男役っていう感じ。編集者に笑われてたの。『田辺さんの書くのは宝塚(歌劇)の男役や』って」

文中に登場する大阪弁には細心の注意を払った

田辺は文中に登場する大阪弁には細心の注意を払ったという。

「コタエタというのは傷ついたということである。大阪弁には『傷つく』などというキザな言葉はないので『コタエタ』と言うのだ。そしてまた『逃げられた』というのは『別れた』と同義語で大阪弁には物事を自嘲・被害的発想で表現することが多い。『あたしかてコタエタわ』と私は小さく言った」(『苺をつぶしながら』)

「大阪弁はとっても気を入れて書きました。やっぱり字に対して美意識があるかないかだと思う。みんなが使ってて、耳で聞いたら何ともないんだけど、目で見たときに汚い言葉というのは小説には使えない。小説は文字の芸術ですから。目で見てきれいでないとダメなのね。

だから、難しい漢字にいくらルビがふってあっても、そういうものがあまり並ぶとみんな嫌になっちゃう。みなさん、いっぺんご覧になって。スッと頭に入って『あっ、いいこと言ってるな。何て素敵なセリフだろう』『俺、これ今度使うてみよう』とか(中略)。

文学というのは、本当に人間の人生の中へ生身に入って来て、そのままきれいに消化されていくと私は信じてます。

小説の中でも、素敵な言葉、人をあっと驚かせる言葉、人の心の中に警戒されないうちにスルリと入ってって、いつの間にか大きく太っていく。こういう愛の言葉だったら、みんなとても可愛がってもらえるだろうなって。そんなことを考えるから、いろいろモノの言い方とか会話なんか、とっても力を入れて」

1974年の『言い寄る』から1976年の『私的生活』、1982年の『苺をつぶしながら』の3作を通して主人公・乃里子の31歳から35歳までを描いた「乃里子三部作」では、恋愛・結婚・離婚を経て、本当の意味での自立を果たす女性を描き、読者の共感を呼んだ。「乃里子三部作」の3作目『苺をつぶしながら』は、このような3行で始まる。

「苺をつぶしながら、私、考えてる。こんなに幸福でいいのかなあ、って。一人ぐらしなんて、人間の幸福の極致じゃないのか?」

女性が家庭に埋没することなく、広い視野をもって楽しく生きることを提唱し続けた。女性は結婚して、出産して、夫と家を支えるのが当たり前だった昭和の時代に、結婚したものの自分の意思で離婚し、1人に戻った状態を「女性の幸福」だと言い切った作品は革新的だった。

「どうしても女の人は、なかなかやりたいことをやれない場合が多いから。書いているうちにだんだんフェミニストになっていくのね。私、はじめはそんな気はありませんでした。だんだん小説書いてて、20年経ったらこうなっちゃった」

2006年には朝ドラのモデルに

また、田辺は「当代随一の古典の読み手」とされ、『源氏物語』をはじめとする古典の翻訳も旺盛に行うほか、エッセイなどでも数々の古典文学を紹介した。


「古い日本の文学の中でも、われわれが民族遺産と思っている古典なんかに、すごく面白いのがあるのに、そちらはあんまり伝えられなくて。学校で私たちが習う古典の時間も大変真面目な、襟を正してという、そういうことが多いですね。すごく面白いものはやっぱり紹介したいなと思うし」

江戸時代の俳人・小林一茶の生涯を追った『ひねくれ一茶』で1993年に吉川英治文学賞を受賞。70歳を過ぎてからは、これまで正当に評価されてこなかった文学者たちの評伝に力を注いだ。

「亡くなった方の一生というのを俯瞰できるのは、ある程度の歳を取ってからだと思うんです」

田辺の半生は連続テレビ小説『芋たこなんきん』として2006年にドラマ化された。田辺をモデルにした花岡町子は、「女だから」と言われることを何より嫌う主人公だった。

大阪を愛し、大阪弁を愛し、古典文学を愛し、女性の生き方を書き続けた田辺聖子。喜びも悲しみも上質なユーモアで包み、多くの読者に愛された。2019年に逝去。91年の生涯だった。

●田辺聖子の至言

「女の人には全部、既婚・未婚を問わずバラ色の空がある」というのは私の持論なんです

(NHK「あの人に会いたい」制作班 )