日銀の植田総裁は就任以来まったくと言ってもいいほど動いていない。だが実は「大きな事をやりとげる」ために闘っているのかもしれない(写真:ブルームバーグ)

「二度あることは、三度ある」ということわざがある。確かに、人生には3回起こる出来事が少なくない。

だが、これがわざわざことわざであることの意味は、「2回起こったことは、3回目が起こりやすいのだから、気をつけなさい」ということだ。

その前提として、出来事が2回起こったくらいでは、3回目が続くことを十分に想定しないものだ、という人間心理に対する洞察がある。そして、同じことが3回続くと、「これは続けて起こることなのだ」という印象が形成される。

3%、4%の物価上昇が続くほうがむしろ好都合


この連載は競馬をこよなく愛するエコノミスト3人による持ち回り連載です(最終ページには競馬の予想が載っています)。記事の一覧はこちら

これを物価に当てはめると、どうだろうか。

インフレ目標の2%を超えるような物価上昇があり、これに追随しようとする賃上げがあり、それが3回、つまり3年くらい連続しないと、多くの国民が「物価は2%程度は十分に上がるものだ」と思うようにはなるまい。流行の用語を使うと、日本人の物価に対する「ノルム」(規範や慣習)が変わるには、その程度の繰り返しが最低限必要だろう。

「2%」の物価上昇が普通であると思われるためには、3%、4%といった上昇がそこそこ続くことは、危機であるというよりも、国民の物価認識を改訂するためにはむしろ好都合だろう。

ただし、物価上昇を普通のことだと国民に受け入れてもらうためには、十分か不十分かはともかくとして、物価を追う賃金上昇が必要だ。いわゆる「賃上げと物価上昇の好循環」が、少なくとも目指す姿として目に見える必要がある。

賃上げが、来年、再来年と続くかどうかは、やってみないとわからないし、それを確認しないと国民は安心しないだろうという問題はある。

企業経営者の行動を考えると、世間が賃上げによる物価上昇分の補填を求める声に満ちると、「ゼロ回答」というわけにはいかなくなる。他社の横並びの様子を確認しながら、ある程度の賃上げを行うだろう。もちろん、個々の業界や企業の事情にもよるだろうが、全般的には収益が好調な現在の日本企業には賃上げ要求に応える余力はある。

しかし、急激な円高などで収益環境が悪化することがあれば、企業は「賃上げしない理由」を簡単に得ることになるだろう。

副作用の解消は「大事の前の小事」

日々の経済ニュースから一歩引いた感覚で、上記のように考えてみると、日本銀行の植田和男総裁の「総裁就任以来まったく動こうとしない姿勢」の意味がよくわかる。

国民の物価に対するノルムを変えようとする大目標に対しては、日銀の個々の政策の手直しなどは、「大事の前の小事」なのだろう。

気楽なので、自分のことを材料にしよう。

筆者は、日銀総裁の交代が視野に入ったここ数カ月間、投機を呼ぶ危険性があるYCC(イールドカーブコントロール)の撤廃について言及してきた。

また、株式の保有構造として、つたなくて同時に運用会社に対する通称「日銀補助金」(運用管理手数料の支払いが年間数百億円にのぼる)の問題がある日銀のETF(上場型投資信託)の買い入れと保有などを、「即刻修正すべきだ」とし、「植田新総裁は遠からず修正するだろう」とほうぼうの記事に書いてきた。

しかし、国民の物価に対するノルムを書き替える大目的に照らすと、優先度の低い「小事」であり、意見としては「雑音」の類だったのかもしれない。「それは後回しでもいいのではないかな」と諭されたら、しばし考えて、うなずくしかない。大物を狙う釣り人(植田総裁)に、雑魚(筆者)が頭を下げて海に戻るような絵が思い浮かぶ。

YCCの見直しには、金融緩和の後退だと意味づけされて大幅な円高を招くリスクがあるし、長期金利が動くと「やれ住宅ローン金利がどうした」などというつまらない報道が金融引き締めを印象づける可能性がある。

また、大量に抱え込んだETFをどう始末するのかに関しては、いずれは何とかせざるをえないと思うが、植田総裁といえどもいいアイデアがあるとは思えない。だが、今すぐに処理しなくても金融政策の大勢に影響があるとも思えないので、後回しは可能な選択肢だ。

後述のようにメディアは緊縮・引き締めが好きだ。ともすれば「金融緩和を後退させた」と印象づけたがるメディアに、材料を与えることは得策でない。

「フィリップス曲線の上昇シフト」を待つ

植田氏が日銀総裁に就任して早々に打ち出した、「1年半程度の期間をかけて過去の金融政策について検証を行う」という方針には、発表当時、「人を食った話だな」と驚いた。「検証など学者の時代に済んでいるのではないか」「この人は金融政策の変更をヤル気がないのではないか」と少々失望したのが、正直な気分だった。

その後にわかったことは、「1年半」はしばらく動かないという宣言として適切だったということと、「検証」はさすがに結論のメドをすでに得ていたのだなということだった。

5月19日に内外情勢調査会で行われた植田総裁の講演およびその図表を見ると、話をほぼフィリップス曲線に絞って、学生でもわかるくらいに金融政策に関する認識と方針をわかりやすく説明している。

これから行われる日銀の「検証」作業は、大学では教授が教えるのではなく学生にレポートを書かせることが大事であるのと同様に、日銀の手で総括を行うことが重要だという趣旨なのだろう。日銀マンに経済学を学び直しさせる「リカレント教育」なのかもしれない。

植田総裁が目指しているのは、あくまでも後述するフィリップス曲線の上方シフトだ。現在のフィリップス曲線に沿って景気を上げ下げしてインフレ率を「2%」に調整しようとするものではない。そして、そのためには2〜3年の月日がかかってもまったくおかしくない。そこそこの賃上げが伴うことが望ましいが、むしろ今年も含めて3年くらい2%超えのインフレ率が続いてちょうどいいくらいのものだろう。

フィリップス曲線は、縦軸にインフレ率を、横軸にオリジナルでは失業率だが、失業率と強く相関するマクロ経済変数を取って両者の関係を表す、通常は右上がりの曲線だ(講演の図表で確認されたい)。

今回の植田氏の図表では、横軸にはマクロ的な需給ギャップを取っている。右に行くほど需要超過(好況)で、左に行くと需要不足(不況)の状態を表す。

長期的な理想は、フィリップス曲線が上方シフトして、需要が不足でも超過でもない状態でインフレ率が「2%」の近辺に来ることだろう。

消費者物価指数で見た現状の3.4%(前年比)は、目標よりも高いが、当面は主に供給要因によるフィリップス曲線からの上方乖離だと説明しつつ、これに対して対策に乗り出すつもりはなさそうだ。

植田総裁の方針に対する典型的な批判は以下のようなものだ。「利上げの判断が遅れた米国と同じ失敗をするのではないか」「早めの対応で2%目標未達となるコストは、日銀が思うほど大きくないだろう」「デフレに戻る可能性は低い」「視点を国民の生活に移せば、物価高の不満も依然として大きい」(いずれも『週刊ダイヤモンド』6月24日号21ページの須田美矢子・キヤノングローバル戦略研究所特別顧問の「数字は語る」より)。

対策を取るとすれば、典型的には利上げによって需要を抑制して景気の減速を図ることになる。いわば今のフィリップス曲線上の点のより左側の位置への誘導を目指すことになるが、植田総裁はそうはせずに「待つ」つもりなのだろう。

例えば、2年後に、先の須田氏の批判が当てはまるような状況、すなわち、昨今のFRBのように大慌てで利上げするドタバタ状態に日銀が陥る可能性はゼロではない。

また、財務省の官僚、日銀のOB、学者(職業的には主に大学教師)、多くの経済メディア関係者は、給料、雇用が景気によって危うくなることはないし、彼らの相対的な社会的ポジションはむしろデフレのほうが改善するし、生活の実感としては物価が上がらないほうが好ましいのだろう。

彼らの場合、物価が上昇した場合の給料の追随は、やや遅行傾向が予想される。したがって、金融政策にあれこれコメントする人々は、財政は緊縮好き、金融政策は引き締め好きで、為替は円高好きの傾向がある。心の底では「2%」よりも「0%」が好きだ(たぶん)。

植田総裁は「腹をくくっている」かもしれない

これから、とくに物価上昇率が2%を超えている場合には、小うるさい彼らからの政策変更催促の相手をしなければならないことを思うと、植田総裁の「待ち」の姿勢にはなかなかの胆力が必要なことがわかる。

本持ち回り連載で前回登場した小幡績・慶應義塾大学大学院教授の評価によると、植田総裁はもはや「闘う男」ではないとのことだったが、筆者にはむしろ「腹をくくって闘っている」ように見える。

読者には、どう見えているだろうか?

(本編はここで終了です。次ページは競馬好きの筆者が週末のレースを予想するコーナーです。あらかじめご了承ください)

6月25日には、上期の総決算的なG1レースである宝塚記念が行われる。阪神競馬場の内回り2200メートルの芝コースだ。今回は、本稿執筆時点ですでに枠順が明らかになっている。

衆目の一致する本命は、目下世界レーティング1位のイクイノックス(3枠5番)で、確かにこの馬が強いのは間違いないが、いくつか死角になりうる要素がある。

まず、今年の宝塚記念は「第3回阪神開催の8日目」で、馬場がそれなりに荒れているはずだ。4月に行われた大阪杯(G1)の設定(芝2000メートル)の手前に直線を200メートル足したコースで、助走をつけてゴール前の坂を上るのでタフなレースになりやすい。

しかも、今回のメンバーの特徴は前に行く意識が強い馬がひどく少ないことだ。過去の戦績を表す「馬柱」の、前走位置取りの数字に3番手以内があるのは、大外のユニコーンライオン(8枠15番)、アスクビクターモア(6枠12番)、ディープボンド(5枠10番)に、せいぜいダノンザキッド(2枠3番)の4頭だ。

ユニコーンライオンが内を圧迫しながら先頭に立つのだろうが、とくに内側の枠を引いた馬には長い直線を密集した馬群で位置取り争いに費やすストレスのかかるレースになる。イクイノックスは3枠5番だが、外目の芝が走りやすいコースに出すには苦労しそうだ。

宝塚記念の本命にはジェラルディーナを指名

最後の4コーナーを回ってきたとき、レースの質は「スローな割に上がりのかかる消耗戦」の様相を呈しているのではないか。

本命には、混戦向きの差し脚を持っていて、レースのしやすそうな枠(6枠11番だが、両隣が前目に意識のある馬だ)を引いたジェラルディーナを採る。

イクイノックスが当然対抗だが、ストレスなくやや外前目のポジションを取れそうな前出のディープボンド、アスクビクターモアを対抗とほぼ同格の単穴と考えたい。以下、ダノンザキッド、ジャスティンパレス(5枠9番)、ブレークアップ(7枠14番)が押さえだ。

(当記事は「会社四季報オンライン」にも掲載しています)

(山崎 元 : 経済評論家)