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2022年7月、参院選の真っ只中に起きた安倍晋三元首相銃撃事件。容疑者の山上徹也氏をモチーフにした映画「REVOLUTION+1」が昨年公開された。

メガホンをとったのは元日本赤軍の足立正生氏。短縮版が2022年9月、安倍氏の「国葬儀」のタイミングに合わせて全国10数カ所で緊急上映された。

ネット上では「元テロリストによる礼賛映画」といった情報が飛び交い、「昭恵夫人に見せられるのか」などと炎上。劇場には中止を求める抗議が相次ぎ、鹿児島県では上映断念に至った。

近年、延々と繰り返される「表現の自由」を巡る対立 。これらの作品は果たして表現なのか運動なのか。そもそも表現とは何なのか。表現の自由とは、あらゆる制約からの自由なのか。同作の脚本を書いた井上淳一氏に聞いた。(ライター・大友麻子)

●「少なくとも観てから批判してほしい」

――2022年12月に完成版が劇場上映されました。閉塞感を強める若者の鬱屈が描かれていて、“テロ礼賛”というレッテルがなければ、もっと広がったのではないでしょうか。

人間を描いていたら、結果としてそういう作品に仕上がったということです。そもそもは国葬の日に間に合わせたいという思いがまずありましたから、9月に短縮版を公開することになりました。

しかし、そういうレッテルが貼られ、SNS上で炎上したからこそ、宣伝をほとんどしていないにもかかわらず、それなりに広がったと言えなくもありません。実際に全国12カ所のミニシアターとライブハウスで上映した短縮版はどこも満員でしたから。

――表現としての映画ではなく、政治的な運動としての映画だったということでしょうか。

むしろ、そこを区別することに何か意味はありますか。僕自身は映画原理主義的なところがあり、まず作品としての面白さを追求すべきだと考えています。

一方で、師匠である若松孝二監督のように、三島由紀夫が割腹自殺をしてからわずか2日後に、事件をモチーフにした脚本を盟友の足立正生さんに書かせて、8日後には『性輪廻 死にたい女』を撮っていたという、ああいうことが自分たちにもできないだろうか、という思いがずっとありました。

当たり前ですが、表現と時代はつながっているわけで、作り手の頑固さとある種の雑さとスピード感で映画を撮りたい。それがこの作品の初期衝動になったことは間違いありません。

――時代とリンクさせようとした。その上で「プロパガンダ映画じゃないか」といった批判に対してはどう思いますか?

基本的に映画というものはすべからくプロパガンダであるとも言えるのではないでしょうか。例えば、愛が大切、平和が大切、というようなテーマを、映画を通して観客に伝わるように語っていく。それがなぜか政治的な題材を語ると「プロパガンダ映画」と言われる。これはおかしくないでしょうか。

そして、批判するにしても、最低限、観てからにしてほしい。観た上で、内容についての批判、山上容疑者(当時)の描き方、宗教2世問題や親との関係性の切り取り方などについて、批判なり批評なりをしてほしい。僕自身、国葬の日に間に合わせることを最優先にした結果、彼を十分に描ききれなかったという反省もありますから 。

ですが、この作品が最も炎上したのは「国葬の日に合わせて特別上映をやるらしい」という情報が流れた瞬間で、その時点ではまだ誰も作品は観ていないわけです。

反体制音楽であるはずのロックのミュージシャンまでもが「山上容疑者を映画化 この異常な状態を許す それが今の日本 国・メディアは全力でこれに警鐘を鳴らすべき」などとSNSでつぶやきました。内容を観ることもなく、なぜこんなことが言えたのか、同じ表現者として心底驚きました。

●表現は「ノンポリ」含め政治性を帯びているもの

――“テロ”の是非は描いていませんが、それが主題になる作品にもなり得たということでしょうか?

主題かどうかはともかく、描いていることに違いはありませんから、そうなり得た可能性は否定できません。ただ、これは映画に限らず、音楽でも漫画でもお笑いでも、そこに何やら政治的な匂いのするものが入り込むと途端に「ピュアじゃない」とか「利用している」といった批判が出てきます。しかしそもそも「政治的」とはどういうことでしょうか。

例えば、地上波の2時間サスペンスドラマでは、「酒」や「車」「薬」を使った意図的な殺人はまず描かれない。これはスポンサーへの配慮という「政治的」な忖度ではないでしょうか。

そういうマニュアルがあると何人もの脚本家から聞いたことがありますが、それだって、本当にスポンサーがやめてくれと言ったかどうかわかりません。「脳内リスク」を作り上げて勝手に自粛しているだけかもしれません。でも、この国の自主規制って、すべてにおいてこの図式が当てはまるような気がします。

つい最近までジャニー喜多川氏によって性的に搾取された少年たちの存在を、マスメディアは決して報じてこなかった。さらに言えば、戦時下を舞台にしたテレビドラマは数多ありますが、最近のNHKの朝ドラで 「御真影」を飾っている家が登場したことがない。

当時の状況から考えて、あり得ないことじゃないですか。僕は「プチ歴史修正主義」と呼んでいますが、これらも「ノンポリティクス的」に振る舞うという、一つの「政治的」な姿勢だといえます。  

――内容を「観るまでもない」といったコメントが目立ちました。この事件を描くべきではない、つまり、表現してはいけないタブーが存在するということでしょうか。

そう思っている人が存在するということではないでしょうか。そして、作り手たちもそういう人たちに「忖度」して、自ら表現の枠を狭めてしまう人が少なからずいる。しかし、実際に表現してはいけないタブーなんて存在しませんからね。

この映画に関しては、テロリストを英雄視しているという決めつけが前提にあったのだと思います。しかもメガホンを取ったのが元日本赤軍で現在は生活保護を受給しているという。バッシングしやすいキーワードが揃ったわけでしょう。

――「正しくなさそうな」人が「正しくなさそうな」映画を作っている、と。

その「正しさ」は誰から見てどう「正しい」のか、「正しくない」のか。そもそも僕たちは「正しいこと」を表現したくて映画を撮っているわけではありません。だいたい、テロリストいう言葉も、9.11以降、独立運動も何もかも一緒くたになって、そう呼ばれるようになってしまった。ウクライナのことも、ロシアはテロリストだと言うわけですよ。そういうことから考え直さないといけない時に来ているように思います。

さらに言うと、あらゆる表現は、先ほどの「ノンポリティクス」という姿勢も含めて、何らかの政治性を帯びているということです。『戦場のメリークリスマス』などで知られる大島渚監督が、かつて「映画に“政治的”じゃないカットなどない。どのワンカットも“政治的”だ」と言っていましたが、まさにその通りだと思います。

●表現者がひるんだら日本映画は廃れる

――政治的な表現は、時に社会にハレーションを起こします。

それは起きるでしょう。むしろ、いかなるハレーションも起こさない表現とは何でしょうか。何かを表現すれば、何らかのハレーションがどこの社会でも起こり得るでしょうし、そのハレーションを受け止める社会の層の厚みが問われているのだと思います。

例えば、アメリカ。成功したマーベル作品は、実はどれも非常にポリティカルです。

かつて、アメリカ映画のヒーローは、「力の行使=正義の行使」という構造でした。しかし、実はそうではないのだという気づきを経て、今、成功したマーベル作品の多くは、その悩みをエンターテインメントとして表現しています。今、公開中の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーvol.3』なども完全にそうした視点で描いている。

あるいは、DCコミックス原作の『ウォッチメン』のテレビドラマシリーズでは、100年前にオクラホマ州で起きた白人至上主義者らによる黒人大虐殺「タルサの大虐殺」がファーストシーンに出てきます。そして、生き延びた黒人と白人至上主義者たちとの100年後の物語を描いていくのです。

韓国でも、政府による民主化運動弾圧の黒い歴史を『タクシー運転手』や『ペパーミント・キャンディー』『1987、ある闘いの真実』などで繰り返し描いています。光州事件という、いわばタブーになっていたようなことに焦点を当ててエンターテインメントとして質の高い映画を作り出し、世界市場できちんと勝負しています。

僕たちは、関東大震災の時に起きた朝鮮人虐殺と、朝鮮人に間違われて香川県から来た行商人たちが千葉県の福田村で虐殺された事件を題材にした映画『福田村事件』(監督・森達也/2023年9月1日全国公開予定)を製作しました。

すでに劇場に「こんな事実かどうかわからないことを映画にすることは許されない」と上映反対の電話や、記事を掲載した新聞社に「(被害者たちの)地元で反対の声があるから載せるべきではない」という電話がかかってきたりしているそうです。

残念ですが「REVOLUTION+1」の特別上映の際、抗議の電話によって鹿児島の劇場が上映を取りやめたことが、彼らの成功体験になっていることは間違いありません。

しかし、本当にそれでいいのでしょうか。表現者たちが、ハレーションを起こさないことに腐心するようになってしまったら、日本の映画はますます世界市場で見向きもされなくなり内向きになり、痩せ細ってしまうのではないでしょうか。

――たとえヘイト的な表現も、制限されるべきではないのでしょうか?

そこは本当に難しいところです。例えば、民族やルーツに対する差別的な意図があからさまに込められた作品が上映されたり展示されたりしたら、きっと僕も抗議の声を上げるでしょう。もちろん、作品は観た上でということになりますが。いずれの場合にしても、表現の場を行政によって安易に規制させるべきではない、表現の自殺に手を貸すべきではない、ということが基本にあります。

――SNS上では、政治的ポジションの違いで全否定をし合っているように見えます。

お互い、きちんとした批判になっていないというところが問題ですね。140文字という制限の中、届く人にしか届かない言葉でつぶやいてみたところで相手に伝わるわけもない。

まだ全面的な対立なら仕方ないと思えるけれど、同じ立場に立ちながら、些細な意見の相違でそうなってしまう。これでは何も生まないどころか、ただ失うだけです。とはいえ、炎上と「いいね」の多さは表裏一体ですので、承認欲求という名の魔力もあります。

しかし、相手に投げつけた言葉は、必ず自分たちにも跳ね返ってきます。そのことにいかに自覚的になって、表現のハレーションを受け止め、さらに、批判への回答を表現の中でいかに見せていくか、ということが問われていると感じています。

【プロフィール】井上淳一(いのうえ・じゅんいち) 脚本家・映画監督。1965年愛知県生まれ。早稲田大学卒業。在学中より若松プロダクションで助監督に。『パンツの穴・ムケそでムケないイチゴたち』で監督デビュー。主な監督作品に『戦争と一人の女』『大地を受け継ぐ』『誰がために憲法はある』。主な脚本作品に『男たちの大和』『アジアの純真』『止められるか、俺たちを』ほか。