世界こんなところに日本人サッカー選手(3)インド

 いまやサッカー日本代表メンバーのほとんどは海外組となった。昨年のカタールW杯では登録メンバー26人のうち、実に19人がドイツやフランス、イングランドなどサッカーの本場"西ヨーロッパ"でプレーする選手だった。この事実は、日本サッカーのレベルアップのひとつの象徴かもしれない。

 ただ、サッカーはスポーツのなかで最もワールドワイドであり、盛んなのは西欧だけではない。環境や求めるものは、その土地によって様々。世界中のあらゆる地域でプレーしている日本人選手を追った。

 2022−23シーズン、インド・Iリーグのスデバ・デリーでプレーしたのが内田昂輔(35歳)である。

 2010年に立命館大学から大分トリニータ入りした内田は、FC琉球(当時JFL)を経て、2013年にモンテネグロ1部リーグのグルバリに移籍。その後、モンテネグロ2部、オーストリア4部、ラオス、バーレーン、インドネシア、ミャンマー、カンボジアなどのクラブを経て、2022年にインドへ。インド行きの理由について、内田はこう話す。


2022−23シーズン、インドIリーグのスデバ・デリーでプレーした内田昂輔

インドにはサッカーもそうですし、生活や文化を含めずっと興味を持っていて、いつか行ってみたいと思っていました。僕は海外でサッカー選手としてプレーしながら、常に新しい刺激やワクワク感を求めていたのですが、国土が広く、人口が多く、環境面のタフさが想像できたインドってどんな感じなのかなって。まあ行ってみると、よくも悪くもすべてが想像以上でしたけどね(笑)」

 インドのサッカーリーグは少し複雑で、もともと2007年に発足したIリーグ(1部および2部)があったなか、2014年に国内外の大企業が主導するかたちでインド・スーパーリーグ(以下ISL)という別組織が立ち上がり、一国にトップリーグが2つ存在する歪な状況が続いていた。だが、2022−2023シーズンから、人気、実力、集客面で圧倒的だったISLをトップに、Iリーグをその下部リーグにすることで再スタートした。

インド移籍までの経緯】

 ISLは立ち上げ時に元フランス代表のダビド・トレゼゲ(プネ・シティ)やニコラ・アネルカ(ムンバイ・シティ)、元イタリア代表のアレッサンドロ・デル・ピエロ(デリー・ダイナモスFC)ら世界的な往年のスター選手を呼び集めたほか、元日本代表監督のジーコ(FCゴア)らを指揮官として招くなど話題を呼んだ。日本人選手では過去に遊佐克美やカレン・ロバート(ともにノースイースト・ユナイテッド)もプレーしたが、待遇や環境面において内田がプレーしたIリーグとは大きな開きがあるとされていた。

 ただし、Iリーグとはいえ、代表歴などのない外国人選手が簡単に移籍できるかといえば、そうではない。そこで内田はまずIリーグ2(3部相当)のデリーFCに移籍し、そこからIリーグのクラブへのステップアップを狙ったと振り返る。

「最初に行ったのは22年2月です。たまたまラオス時代のポルトガル人コーチが、デリーFCのオーナーとつないでくれて。ただ、行ってみると給料の未払いに加え、それまでIリーグの1部と2部は開催時期がずれていたのに、この年から同時期に行なうようになり、先に開幕する2部で活躍して1部に移籍するという目論見が外れました。それに、前の年まであった外国人枠がなくなるという噂まで出てきたので、一度はインドでのプレーを諦めて帰国しました」

 だが、帰国すると、デリーFCのコーチや分析官がIリーグのスデバ・デリーFCに移籍し、スデバが外国人選手を探しているとの情報を聞いた。しかも、スデバがJリーグの湘南ベルマーレとパートナーシップを提携していたこともあと押しになり、消えかけていた内田のインド移籍が決まった。

 Iリーグは22年11月に開幕し、内田は開幕戦からMFとして5試合に出場。しかし、無念にもシーズン途中での退団を余儀なくされた。

「スデバもデリーFC同様に、サラリーの未払いが続き、移動やサッカーをする環境もよくなくて......。監督は日本人で、その方は3節が終わったところで辞任されました。僕もFIFAの弁護士に相談し、『すぐにサラリーが支払われないなら退団します』とクラブに伝えると、オーナーは『もともとひざの古傷があっただろ。日本に帰ってゆっくり治療すれば』と開き直るありさま(笑)。外国人選手は僕やトリニダード・トバゴ代表経験のある選手などを含めて5人いたのですが、全員退団しました」

【サラリーの未払いは当たり前】

 内田のインド挑戦は約10カ月で終わり、いい思い出ばかりではない。それでも、現地の話を聞けばどれもインドらしさに溢れている。

 一番困ったのは、やはりサラリーの未払いだった。


スデバ・デリーのチームメイトと写真に収まる内田昂輔

「これまでも東欧や東南アジアでプレーしてきたので、給料の遅延はありました。でも、感覚的にインドは未払いが当たり前みたいな(笑)。チームメイトのなかには最大2年、未払いが続いている選手もいました。インド人の選手は寮に住んでいて、食事はクラブが用意してくれるので、最悪、お金がなくても生活はできます。若手なら活躍次第でISLに移籍できるチャンスもあるので、それにかけていたのかもしれません」

 デリーFC入団直後のプレシーズンでは、ネパールのチームとの練習試合のためバスで27時間ほど移動した挙句、ビザの問題で入国できず、国境検問所でチームと離れ、ウーバー(タクシー)での帰宅を強いられると、その道中で野生のトラと遭遇したこともあった。

「マネージャーとウーバーに乗っていたら、いきなり道にトラが出てきて(笑)。国境付近はベンガルトラの保護区になっていたようで、僕は少し見たかったので『車を停めてほしい』とドライバーに言いましたが、停めてはくれませんでした。あとで聞くとその地域では年間に何人もトラに襲われて命を落としているとのことだったので、納得しました」

 インド人との時間の感覚の違いにも驚いた。

「練習試合が朝の7時スタートだと思ったら、インドは7人制サッカーがすごく人気で、トレーニングの一環としてIリーグのチームも地元の大会に参加し、勝ち上がると決勝が深夜2時キックオフだったり。早い日は早いし、遅い日は遅いという感じで、もう朝なのか夜なのか、正直、時間の感覚がわからなかったですね」

 京都出身の内田だが、高校は神戸の強豪・滝川第二でデカモリシこと森島康仁と同級生で、ひとつ上に岡崎慎司、ひとつ下に金崎夢生がいた。「さすがに滝二時代も3日連続の試合はなかった」が、インドではプロチームがローカル大会に参加することも珍しくなく、3日で3試合という厳しいスケジュールを強いられたこともあった。

【チームの食事は毎食カレー】

 また、インドのサッカーといえば、ともにコルカタに本拠を置くイースト・ベンガルとモフン・バガンのダービーが、かつては10万人以上の観衆を集めていたことなどでも知られる。だが、サッカー熱は地域差が大きく、一般的なIリーグの試合は2000人から3000人程度の入りだったそうだ。

 サラリーの未払いとともに、インドで困ったのが、たびたび起こる停電だ。


インド時代、街なかの屋台で

「ミャンマーとかでも結構ありましたが、インドは特に多かった。一度、3日間続いたことがあって、電気が止まると水も出なくて......。そのときは仕方なく(シャワー代わりに)外の施設に水を浴びに行きました」

 ISLのクラブは程度の違いこそあれ、軒並み好待遇だと聞く。だが、インドはカースト制(身分制度)の影響か、待遇はカテゴリーやクラブの大小などで、日本では考えられないほど、その差は大きいという。

「スデバでは、試合時の移動も大変でした。インドは(日本の約8.7倍と)国土が広いので、基本、リーグ戦の移動は飛行機です。ただ、なるべくお金をかけたくないのか、深夜の格安航空になることが多かった。真夜中の3時や4時発の便で、直行便があるのに、なぜか乗り継ぎ便なんです。前々日に移動して前日の夕方に着くようなスケジュールで、徹夜の移動で疲れて、前日練習などはやっている場合じゃなかったです(笑)」

 インドの食事といえば、カレーが定番。極端な言い方をすれば、チームでの食事は毎食カレーだった。

「朝は自分で済ませていましたが、昼と夜はチームで食べることが多く、いわゆるカレーっぽいものです。外国人選手のなかには『毎食カレーだとキツい』と言っている選手もいましたが、味はおいしかったので、僕は全然大丈夫でした。ただ、帰国する時に、いわゆる街中のローカルな屋台カレーを一度食べてみたくてトライしたら、1カ月くらい下痢が止まらなかったです(笑)」

 内田が笑って話すので、どれも楽しそうだが、第三者からはその生活が楽ではなかったように見える。ただ、内田はインドに行ったことを少しも後悔していない。むしろ「行ってみないとわからないし、いい経験ができた」と強調する。

「道路では車が逆走してくるし、試合の遠征先のホテルのツインルームに4人で泊まらされたとか、びっくりすることはたくさんありました。ただ、行く前はインド人に対して怖いとか、騙されるんじゃないかというよくない印象もありましたが、自分と関わったほとんどの人は親切で、優しかった。1シーズン通してプレーできなかったことに残念な思いはありますが、行ったことに後悔はないです。

 待遇に関しては、僕がプレーしたデリーFCもスデバも東南アジアなどのリーグと比較しても、よくなかった。普通なら行きたくないと思うかもしれないですが、僕はそんなことをわかったうえで行ってみたかったんです。もちろん、僕が行ったのはキャリアの最後で、サッカー選手のキャリアを作っていく若い選手にはあまり進められません。いろんなリスクがあるのは確かですから(笑)」

 ラオス、ミャンマー時代はリーグ優勝も経験。バーレーンでは初の日本人選手としてもプレーした内田は、スデバ・デリーでのプレーを最後に現役引退。今年の春からは、大阪の追手門学院大学のサッカー部の監督として、指導者の道を歩み始めている。

プロフィール
内田昂輔(うちだ・こうすけ)
1987年10月生まれ。滝川第二高校、立命館大学を卒業後、2010年に大分トリニータに加入。1年目にJ2で19試合に出場したが、2年目はケガでほぼ1年を棒に振ることに。FC琉球を経て、2013年からモンテネグロ、オーストリア、ラオス、インドネシア、ミャンマーなどのリーグを渡り歩き、2022年にインドへ。Iリーグ2のデリーFC(プレシーズンのみ)、Iリーグのスデバ・デリーのプレーを最後に引退。2023年より追手門学院大学サッカー部監督を務める。