3月1日に『母の味、だいたい伝授』(新潮社刊)を上梓された阿川佐和子さん。69歳になった今もその輝きは変わらず、作家・エッセイストのほか、インタビュアーやキャスター、俳優と多方面で活躍されています。

阿川佐和子さんインタビュー。介護は後ろめたさをもつことも大切

今回は阿川さんが実際に経験された介護の話や、そこから感じたことなどお話をたっぷり伺いました。これからを楽しく暮らすヒントは必見です!

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●母の介護で感じたこと

――著書『母の味、だいたい伝授』でもお母さまの認知症について触れられていますが、お母さまの介護はご実家でされていたのでしょうか?

阿川佐和子さん(以下阿川):まあ、いろいろプロセスはありましたけど、母が認知症になった当初は症状も軽く、1人でお手洗いも行けるしご飯もつくれたので、父と2人で暮らしていました。

でも、父が高齢者病院に入り、母がひとり暮らしになって…そこに私も一緒に住もうかと思ったけど、仕事の都合でそうはいかなくて。私が小さい頃によく来てくれていた知り合いのご夫妻に泊まりこみをお願いして、週末は兄弟が交代で母の面倒見ていました。だから母はずっと実家にいたんです、ギリギリ最後まで。

――介護を経験されてみていかがでしたか?

阿川:最初の頃はこっちもショックだし、今後どうしようっていう問題とか、仕事を減らした方がいいかとか、辞めた方がいいかなとか考えたり。兄弟との連携プレイもいろいろあって、泊まってくれる人が定まるまでは大変ではありましたけれども、母は根が明るかったんで、それがなによりの救いでしたね。

毎日一緒にいたわけではないけど、最後というか、お手洗いに行くことが心配っていう時期になって、同じ部屋で寝てると、眠れなくてね。夜中の3時ぐらいに、母がお手洗いに行ったと思っても、全然帰ってこないんですよ。「えー?」なんて思って起きてお手洗いに行くと、鍵が閉まってて、ドアを開けてって言っても開かなくて。

そしたらドアと便器間に座り込んじゃって立てなくなってるんです。なんとかして鍵は開けたけど、ドアが開かない。だから「そこどいて」って言って、手を引っ張ってずるずる引きずり出したら、母が「痛い痛い」とか言ってね。そこからなんとか寝室に連れてきて、服を着替えさせてたりしてたら、「あんたかわいい顔してるわね」だって。

「そういう問題じゃないでしょ、今、なにを言ってんの」って、思わず笑っちゃったんですよ。大変っていや大変なのよ。洗わなきゃいけないし、シャワーに連れていかなきゃいけない、お尻をふかなきゃいけない、パンツを変えなきゃいけない…とかいろいろ問題もあるでしょ。だけど笑わせてくれるからね。毎回救われてました。

●介護は大変だったけど、気づきもあった

――介護に対して明るくお話されていますが、当時は寂しさとかはなかったのでしょうか?

阿川:初期の頃には、このまま分かんなくなっちゃうのか、前の母には戻らないのかという、別人格になっちゃうようなショックは確かにありましたね。爆発して母を叱りつけて、母が泣き出すみたいなこともあったし。

母もまだ半分、しっかりしてる頃は、なんでこんなに家族に怒られなきゃいけないんだろうって、珍しく機嫌が悪くなったりしてましたね。算数テストとか脳トレゲームとかやらせると、それはできるし、しりとりなんか途中で「つまんないわね」みたいな。いろいろ初期の頃の方がぶつかることが多かったです。

そういう時期もあったんだけど、あるときお医者さまに、「今の医学では元に戻すことはできない」。そう言われたときに、「あ、昔の母を求めるより、今の母と毎日笑える日々を続けることの方が大事なんじゃないかな」って思ったのね。

母のひげが生えてきたり、爪が伸びたりするの見ていると、生きてるな、この人、って。ちゃんと体を循環させて毎日毎日コツコツ生きてるじゃない、この生物は、って。生きてるときを大事にしなくてどうするの? って思いましたね。

――そこから意識を変えられたのでしょうか?

阿川:諦観っていうのともちょっと違って、おもしろかったですよ。医学的に見れば確かに認知症で脳が衰えてるっていう現象が起こっているのに、なぜこういうことにはすばやく気がつくの? っていうこととか、ひょんなことをちゃんと覚えてたりしてね。

たとえば、母を助手席に乗せて父の病院に行くときに、窓を見ていて、「高いビルね」とか言って、数え始めたりして。「○○歯科」なんて看板が目に入ると、「小学校の友達に○○さんって人がいたのよ」って延々話すの。そこをまた通ると、「あら、小学校の友達に…」って、それ、先週も聞きました、みたいな(笑)。なにが始まるか分からない。

この人の脳みそはなにを感じてどう反応して、どこがクリアでどこがダメなのか、一概には言えないっていう。おもしろいな人間の脳は、って思うことが多かったですね。

――お母さまの介護は何年くらいされたのでしょうか?

阿川:認知症と診断されてからは9年半くらいですかね。仕事が忙しく、父と母の介護が重なった頃はちょっと大変でした。

覚えているのが、仕事をしてこれから横浜の実家に帰って晩御飯をつくらなきゃいけないってことで、おでんだったら便利じゃないですか。そうだ、おでんいいねって、おでんの種を持って帰ってつくったの。

そしたら、まず父の第一声、「おでんはあんまり好きじゃない」。第二声は、兄弟から。母が心臓の手術をしたあとだったので、「練り物は塩気が多いから、心臓にはよくない」だって。「必死で買ってきてつくったのに! ガーン!」ってイラっとしましたね。本にはリモートのお葬式の話も書きましたけど、兄弟とも見解の相違はいろいろありました。

●50代がいちばん大変だったけど、今思うとまだ元気な世代

――年齢を重なるにつれて、いろいろと大変になってくることも多いですよね。

阿川:私の経験から言うと、やっぱり女にとってアラフィフはつらい時代かもしれませんね。自分の体が更年期障害になってくるのと、親の介護がちょうど重なるんです。それに、だんだんとときめきがなくなってくる。会社でもかわいい女の子扱いは一切されなくなるし。そういうこともあるから、結構苦難の世代だなって思います。

でも、今年で70歳になりますけど、思い返してみれば、やっぱり50歳はまだ元気だった。肉体的には更年期障害があるけれど体力はあるし、今の人たちはホントにキレイだし若い。なにかを始めようっていうのも、不可能ではないでしょう。もう人生後半だってあきらめる必要はないと思うな。

――阿川さんが50代から始められたことなどありますか?

阿川:私、ゴルフ始めたのが51歳ですから。ゴルフと出合わなかったら、介護なんか絶対できなかったと思う。このうさばらしがなかったら絶対無理だったって思います。介護をやっていろんなことを教えてもらったり、学んだりしましたけれども、やっぱりいろんなことが煮詰まったときに、つらいけど真面目にちゃんとやらなきゃいけないって思う人がすごく多い。

自分が介護をしながら思いついたのは「サボる」、「後ろめたさをもつ」ということ。つまり、母の介護をしながらゴルフ行ったりしました。母に「あなた疲れた顔してるわね。今日仕事大変だったのね」なんて言われるんですけど、じつはゴルフ行っただけなんです。でも、自分に後ろめたさがあるから優しくなれるんですよ。

肉体的辛さっていうのは、もちろん限界もあるでしょうけど、精神的なものの方が重いんじゃないかしら。一言「大変だったね、ありがとう」って誰かに言ってもらえるだけで、翌日につなげるエネルギーになるし、それをしてもらえないからパニックになってしまうんだと思うんです。それと同じで、自分がちょっとズルをしたなって思っていると、人に優しくなる余裕が出てくると思う。

●後ろめたさをもつことで、優しくなれた

――たしかに、あまり真面目に向き合うと苦しいですね。

阿川:あるとき、「親の介護があるのに趣味のお稽古に行くのはやめた方がいいでしょうか?」っていう相談を受けたことがあるんだけど、やめない方がいい! そこでストレス発散できて、ほかの人と接することによって、私だけが辛いんじゃないと思ったり、いろんな情報が入ったりして、ラクになれたりするから。別の楽しい場所があれば、帰ったときに余裕ができるんですよね。

だけど、すべてを家のことに集中させると絶対潰れてしまう。介護離職という現実もあると思うけれど、できればもうひとつの場をもってるっていうことは死守した方がいい気がしますね。とりあえず気分が晴れたり、気分転換になるとか、実際すごく好きなこととかあるんだったらそれは大事にして。それと、助けてボタンをどっかに置いておくことですよね。

――後ろめたさをもった方がいいんですね。

阿川:父にも散々「お前は病院に来てくれないのか」と言われたり、持っていった食料に「まずい」とか言われたりしました。せっかくやったのに! と思って、この捌け口をどうしてやろうかと、父のお金でプラジャーを3本買ってやったんです(笑)。ザマミロですよ。でも、そう思ったら、少しは次に父に会ったときに優しくなれました。まあね、人間、そんなに聖人君子にはなれないですよね。