箱根駅伝常連校・山梨学院大で伝説となった井上大仁の走り 大迫傑は「雲の上の存在から越えていくべき目標になった」
2024年パリ五輪のマラソン日本代表の座を狙う、箱根駅伝に出場した選手たちへのインタビュー。当時のエピソードやパリ五輪に向けての意気込み、"箱根"での経験が今の走り、人生にどう影響を与えているのかを聞いていく。
※ ※ ※ ※
パリ五輪を目指す、元・箱根駅伝の選手たち
〜HAKONE to PARIS〜
第13回・井上大仁(山梨学院大―三菱重工)前編
2015年の箱根駅伝。山梨学院大・井上大仁(左)は最下位で襷を受け取った
井上が長崎・鎮西学院高から山梨学院大に進学したのは、将来を見据えてのことだった。
「高校の時から、将来はマラソンを走って有名になりたいと思っていました。当時の山梨学院大は、尾方剛さん、大崎悟史さんなど、マラソンで活躍されている先輩方を輩出していて、なおかつ世界レベルのケニア人留学生がいたので、彼らについて学んでいきながらマラソンの下地を作っていきたいと思ったんです」
マラソンのベースを作るのが目的だったのだが、箱根駅伝も重要なポイントとして井上は考えていた。
「もちろん、箱根に出たかったというのもあります。当時の山梨学院大はシード常連校で、頑張れば優勝も見えるぐらいだったので、自分がいる間に優勝できたらと考えていました。箱根もマラソンにつながっていくんじゃないかなと思っていたので、それも山梨学院大を選んだ理由のひとつです」
大きな夢をもって箱根駅伝の常連校に入学した井上だが、練習環境やチームメイトに馴染むまで、多くの時間を要した。
「山梨学院大は、付属高から上がってくる選手、全国の強豪校からくる選手、僕みたいに地方から出てくる選手の3つに分かれるんです。付属上がりや強豪校からくる選手はすでに合宿や試合で一緒になって顔見知りなので自然とコミュニティーができるんですよ。でも、僕みたいな地方から来た選手はみんなと馴染むのが大変でした。先輩も怖くて、なかなか話しかけづらかったので、チームに慣れるまで夏ぐらいまでかかりました」
練習においても高校時代との違いを痛感した。大学に入るまでは10キロの持ちタイムに自信があったが、いざ入学するとレギュラーを獲れるかどうかのぎりぎりの線にいた。練習メニューも質が上がり、ついて行くのが精一杯だった。そんななか、故障してしまい、それ以降、長く歩いたり、補強トレーニングをしたり、自転車を漕いだりして基礎体力を鍛えていった。
「基礎がしっかりできていたせいか、夏合宿で長い距離を走り込んでいくと、夏を過ぎてから一気に力がついて伸びたのを感じました」
井上は、すでに全日本大学駅伝の予選会に出場していたが、箱根駅伝の予選会(前年はシード落ちしていた)にも出場することが決まった。レースは「すごく緊張した」というが、1年生で唯一予選会を走り、チーム内4位、総合45位でチームに貢献し、山梨学院大は2位で予選会を突破した。
「そこで箱根も戦えそうだなっていう手応えを感じました」
実際、井上は早い段階で1区での出場を告げられていた。箱根駅伝の本番、1区には大迫傑(早稲田大2年・現ナイキ)、村山紘太(城西大1年・現GMO)ら錚々たる顔ぶれが並んでいた。
「スタートラインに立った時、周囲は雑誌とかテレビ越しで見ていた人ばかりで、オーラが全然違うし、本当にこの人たちと走るのかって感じでした。どこまで通用するのだろうか。いや、通用するだけじゃダメだし、1区を任された以上は下手な走りはできないので、集中してしっかり走ろうと思っていました」
スタートしてからも箱根駅伝を走る喜びや沿道の声を聞く余裕はほとんどなかった。これが箱根かぁと感慨にふけることもなく、しっかりと自分の仕事をしないといけないという気持ちだけで走った。井上はトップの大迫を追いかけ、3位争いを展開し、8名の選手とともに中継所になだれこんだ。区間10位という結果を出して、次に襷をつないだ。
「1年目としては、わりと走れたほうかなと思いました。でも、トップの大迫さんを始め、撹上(宏光・駒澤大)さん、服部(翔大・日体大)さん、宇野(博之・東洋大)さんには歯が立たないという気持ちもありました。特に大迫さんは、本当に強かったです」
1年時は、背中を見ることしかできなかった大迫だが、井上が3年になるとその距離はグンと近づいた。3年時の全日本大学駅伝では2区で大迫らと同タイムで区間賞を獲得するまでに成長した。
「レースで強い選手と競り合うとか、そういうレースを経て自信をつけてこられたのは、駅伝の魅力だと思います。それがあったから大迫さんを雲の上の存在ではなく、越えていくべき目標として意識することができました」
ここから大迫は、井上にとって憧れではなく、明確なライバルになった。
山梨学院大在学中、井上は4年間、すべての学年で箱根駅伝を走った。
1年時は1区10位、2年時は3区7位、3年時は5区だったが2区オムワンバが右足疲労骨折で途中棄権になり、オープン参加になった。4年時は3区3位だった。
井上にとって、どの学年の時の箱根が一番印象に残っているのだろうか。
「学年ごとに立場が違うなか、いろんな区間を走らせてもらったので、それぞれ印象に残っているんですが、3年時の途中棄権はなかなかない経験をしました。もう勝敗に関われないので開き直って走るしかなかったですね。4年の時は、最下位で自分のところにきたんです。襷がつながっている分、前年よりもマシだなぁって思いつつ、ここから追い上げの流れを作ればシード権はなんとかなるかなって思って走りました。僕の3区でダメなら完全に終わったなという感じでしたし、自分のモチベーションとして、ひとりでシードまで差を詰めるぞっていう気持ちで走れたので、この箱根は印象深いですね」
4年時は、キャプテンとして出走し、最下位から17位まで順位を上げた。この走りが起爆剤となり、その後、チームは総合9位にまで順位を上げて、シード権を獲得した。この時の井上の快走は、山梨学院大では、半ば伝説化されているほどだ。
この箱根の経験は、井上の競技人生にどのような影響を与えたのだろうか。
「箱根の20キロの距離というのは元々抵抗がなかったですし、実業団に入ってからマラソンへの移行もそれほど難しくはなかったです。箱根の距離や結果がその後の何かにつながったというよりも、自分はもともと無名の選手で特別な才能を持っているわけでもなかった。そういう選手が駅伝でもまれて、勝負していくことで自分の力を高めることができた。マラソンという競技を強く意識するきっかけ作りを箱根駅伝がしてくれたのかなと思います」
井上は、キャプテンのシーズン、関東インカレのハーフマラソンで優勝、1万mで2位になるなどレースで強さを発揮した。箱根でもその強さを見せて、競技者として学生トップレベルの選手であることを証明した。
「レースとか箱根を走る際は、しっかり走れてよかったとかではなく、やって当たり前ぐらいに思っていました。周囲からやって当たり前という見方をされることがプレッシャーになることもあります。でも、それを周囲から押しつけられるのではなく、自分の内にそういう意識を取り込んでいればそれほど苦ではないんです。大学時代、そう思って走ってきたことが今の力になっています」
やって当たり前──そう思えるのは、それを裏づける圧倒的な練習量と誰にも負けたくないという強い気持ちがあったからに他ならない。山梨学院大卒業後、それらを継続しつつ、何が足りないのかを常に考え、地道に取り組んでいくことで井上の才能はさらに大きく開花していった。