誕生の経緯は条約逃れ 旧海軍巡洋艦「最上」竣工-1935.7.28 事故契機に偵察機マシマシへ
旧日本海軍の重巡洋艦「最上」が1935年の今日、竣工しました。ただし対外的には最後まで「軽巡洋艦」。太平洋戦争中には水上機用甲板を設置し航空巡洋艦にも改造されますが、生涯を通じて事故に縁があった艦でした。
“軽巡”に装備テンコ盛り
1935(昭和10)年の7月28日は、旧日本海軍の重巡洋艦「最上」が竣工した日です。「最上」はのちに、10機以上の水上偵察機を搭載できる航空巡洋艦へと姿を変えた珍しい艦でもあります。
なお冒頭で「重巡洋艦」と表記しましたが、対外的には最後まで「軽巡洋艦」とされ続けました。その理由は建造当時、重巡洋艦の保有数を制限するロンドン海軍軍縮条約の規定に則り、軽巡洋艦に分類されるよう主砲に15.5cm三連装砲を採用したからです。基準排水量も8500トンに抑えられましたが、主砲は5基15門、三連装魚雷発射管は12門と、小ぶりな船体に装備がテンコ盛り。軽量化しようと、鋼板のつなぎ目にはリベット留めではなく、最新技術であった電気溶接が用いられています。
航空巡洋艦に改装された「最上」。不鮮明ながら後部に水上機が並んでいるのが見てとれる。背後の空母は「大鳳」または「飛鷹」といわれる。
ただ「最上」は、進水2日前に発生した水雷艇「友鶴」の転覆事故を受けて、高かった船体の重心を下げる工事などが追加で実施されたことから、結果的に基準排水量は1万1200トンまで増加してしまいました。しかし、竣工の翌年1936(昭和11)年末に前出の海軍軍縮条約が失効したことで、主砲を20.3cm連装砲塔に更新。重巡洋艦さながらの姿になっています。
主な戦歴は太平洋戦争に入ってからです。重巡部隊の1隻として東南アジアのマレー半島やジャワ島沖などへ赴き、南方作戦の上陸支援に従事します。1942(昭和17)年2月末から3月にかけては、砲撃と雷撃でアメリカ海軍とオーストラリア海軍の巡洋艦を1隻ずつ撃沈。しかしこの際、外れた魚雷が味方の輸送船などを撃沈してしまいました。
不運は続きます。1942(昭和17)年6月にはミッドウェー海戦に参加しますが、この戦いで日本は主力空母4隻を喪失。「最上」は夜間に反撃を試みますが、撤退命令の最中、アメリカ軍の潜水艦に発見され、回避行動中に味方の重巡洋艦「三隈」と衝突してしまいます。このあとに襲来した敵機の空襲もあり「三隈」は沈没、「最上」は大破しました。
2度目の衝突、最後は味方が処分
満身創痍で佐世保に帰り着いた「最上」は修理を受けるとともに、空母4隻を喪失した旧海軍の航空戦力を補完するため、後部砲塔を撤去し水上機用甲板を増設。飛行機を最大11機搭載できるよう改装されました。こうして翌1943(昭和18)年4月、「航空巡洋艦」へと生まれ変わったのです。
その2か月後、「最上」は戦艦「陸奥」の爆沈事故に居合わせます。「陸奥」爆発の原因は現在に至るまで不明ですが、事故直後は敵潜水艦による雷撃も疑われ、傍らにいた「最上」は爆雷を投下し対潜警戒を行いました。
レイテ沖海戦の最中、スールー諸島でアメリカ軍の空襲を受ける扶桑型戦艦(手前)と「最上」(奥)(画像:アメリカ海軍)。
戦局が悪化する中、「最上」はパプアニューギニアのラバウルなどへ物資輸送任務に従事します。1944(昭和19)年6月には、サイパン島およびグアム島を巡って勃発したマリアナ沖海戦に、同年10月にはフィリピンのレイテ島を巡って勃発したレイテ沖海戦に、それぞれ参加します。ただレイテ沖海戦が、「最上」の最期となります。
10月22日、「最上」はフィリピン東部のスリガオ海峡に進出すると、水上偵察機を発進させアメリカ艦隊の索敵を成功させます。しかし圧倒的な戦力差に日本は苦戦。行動をともにした戦艦や駆逐艦が次々と撃沈され、「最上」も砲撃で火災に見舞われます。
そのような中、突如「最上」は味方の重巡洋艦「那智」と衝突。「那智」は炎上している「最上」を停止と判断、その前方を横切ってしまったためでした。火災も相まって大破した「最上」は、味方の駆逐艦により雷撃処分されました。
激戦の最中2度も僚艦と衝突した「最上」ですが、沈没から75年経った2019年5月、故ポール・アレン氏の調査チームによって発見されます。発見場所はスリガオ海峡の水面下で、深さ1450mの地点に残骸が残されていたそうです。