「旅客機=丸い窓」誕生のきっかけにも? 世界初ジェット旅客機「コメット」が残した功績とは
73年前の7月27日、世界初のジェット旅客機として知られるデ・ハビランドDH.106「コメット」が初めて空へと飛び立ちました。この機は、あらゆる意味で、民間航空の歴史に大きな足跡を残したモデルといえるでしょう。
WW2中に開発がスタート
1949年7月27日、イギリスで製造された世界初のジェット旅客機、デ・ハビランドDH.106「コメット」が、ハート・フィールド飛行場で初飛行に成功しました。「コメット」は民間航空の歴史に大きな足跡を残す革新的な機体だったと同時に、残念な運命を辿ったモデルとしても知られています。
BOACのコメットMk.I(画像:帝国戦争博物館)。
DH.106「コメット」の開発が持ち上がったのは、第二次世界大戦下。大戦の勝敗の行方が見え始めたころ、イギリスでは、戦後の民間航空界における航空機の開発計画を「ブラバゾン委員会」で立案していました。当時まだジェット機は実用化していませんでしたが、同委員会では、プロペラ旅客機だけでなく、ジェット輸送機の開発案も持ち上がりました。
そのなかの原案のひとつから、イギリスの航空機メーカー、デ・ハビランド社が担当となり、国家プロジェクトとして、大西洋横断可能な中型のジェット輸送機DH.106の開発に着手しました。
機体形状としていくつかの案が検討されましたが、最終的に、主翼2枚、尾翼3枚を設置し、ジェット・エンジンは主翼の付け根に左右に2基ずつ、埋め込むように取り付ける方法を採用。そして客室窓は現代の旅客機のように丸みを帯びたものではなく、角が鋭角の四角いものが採用されました。大きさは全長約29m、全幅約35mです。
この機体には「彗星」を意味する「コメット」と言う名称を授けます。ちなみに同社で「コメット」の愛称を持つ機体はDH.106が2機種目。同社での元祖「コメット」は、DH.88というエア・レース用の双発機でした。
革新的すぎた「コメット」を襲った悲劇
DH.106「コメット」を世に出すことは、デ・ハビランド社の創業者、ジェフリー・デ・ハビランド・シニア社長の悲願でした。それを裏付けるエピソードの一例として、初飛行日である7月27日は、社長の誕生日。これはあえてこの日が選ばれたのだそうです。初飛行は31分間と記録されています。
なお、初飛行が実施されたハート・フィールド飛行場は、デ・ハビランド社の工場敷地の一角にあり、製造した飛行機をすぐ飛ばせるように整備した飛行場で、第二次世界大戦後には、ジェット機が飛行できるように舗装されました。
那覇空港で。旅客機の「丸い窓」は2022年現在でも健在だ(乗りものニュース編集部撮影)。
DH.106「コメット」が初飛行に成功したことで、イギリスは、当初はまだダグラスDC-7、ボーイング377、ロッキード「エレクトラ」などのプロペラ旅客機が主力だったアメリカの輸送機に威信を示すことができました。しかし、1952年の就航後、同機は空中分解事故を連発させ、高い事故率を記録してしまうことになります。
これは先述した「四角い窓」が原因でした。同型機は空気が薄い高高度でも、人為的に機内の空気の濃さ、気圧を上げる「与圧客室」を搭載。ただ居住性とトレード・オフで、機体の構造には圧力差による負担がかかることになります。窓枠を鋭角にしてしまったことで、この角の部分に力が集中して負荷が生じてしまい、結果として、設計値の10分の1の飛行回数で機体破壊に至るという“想定外”の事態が発生してしまったのです。
このことから「コメット」は、当時の最新技術を盛り込み、未知のジャンルに挑戦した最新鋭機であったにもかかわらず、現代でも“駄作機”と辛辣な評価を下されることもあります。ただ、同機が辿った経歴によって、イギリス航空界はまさに“威信をかけた原因究明”にあたることになり、その後のジェット輸送機のデザインにおける大きな指針を示したことはいうまでもありません。事実「コメット」以降のジェット旅客機の窓はすべて丸みを帯びており、その設計は現代の最新鋭機でも健在です。
なお「コメット」には、課題の窓枠部分を設計し直した派生型も誕生しましたが、最終的にはわずか112機の製造にとどまっています。すでにアメリカが開発したジェット旅客機が次々登場しており、そちらにシェアを奪われてしまったためとされています。