カルトを信じてしまう人には、どんな特徴があるのか。かつて新宗教団体で熱心に活動をした経験があり、現在はカルトの脱会支援にも取り組んでいる玄照寺(真宗大谷派)の住職・瓜生崇さんは「入信者とそうでない人の間に明確な違いを見つけることは難しい。正しく生きたいと考える真面目な人なら、誰でも危険性がある」という――。

※本稿は、瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか――脱会支援の現場から』(法蔵館)の一部を再編集したものです。

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■人生の意義を考える「節目」は要注意

一般的にカルトへの入信は若年層ばかりがクローズアップされる傾向にあるが、実際のところは中高年層においても珍しくない。では、カルトに入る時期に傾向はあるのだろうか。

大学に入学した新入生がカルトに入りやすいのは、それが人生の転機だからだ。高校時代には一生懸命に受験勉強をし、努力の方向性が明確に定まっていた。それがいざ大学に合格してしまうと、人生の目標を失いどうしていいのかわからなくなるのだ。特に地方出身者で地元では秀才だったが、都会の名門大学に入ると周囲の優秀な学生に埋もれ、自分の存在の小ささに気づいて、何かの拠り所を見つけようとしてカルトに入ってしまう人も多い。大学に落ちて志望校に行けなかったケースも、同様にその虚しさから自分の存在意義を求めるだろう。私はそのパターンだった。

一方、熟年層ではどうなるだろうか。これは女性については子育てが終わる五十代半ばから六十代くらい、男性については仕事が定年退職で終わる六十代半ば頃からが多いように見える。今まで一生懸命に子育てや仕事をしていたときは、宗教に関心もなく見向きもしなかったのに、それが終わると急に空中に放り出されたような気持ちになり、人生の意義を問い始める。そんなときに「人はなんのために生きているのか考えたことはありますか?」という勧誘やチラシに、ちょっと聞いてみようかという気持ちが生じてしまう。

一生懸命に生き抜いてきた人が、自分の人生は子供を育てるための人生だったのかとか、仕事をするためだけに生きてきたのだろうかとか、そういった虚しさを人生の節目で感じるのは当たり前のことである。そんなときに人は旅行をしたりボランティアに打ち込んだり、趣味のサークルに入ったりして、何か別の「生きがい」を見つけることでその穴を埋めようとする。しかし健康不安、親や友人の死といった出来事が重なり始めるのもこの年代であり、「生きがい」によっては埋められない、「死」へ向かう不安と空虚が生じてくる。そんなときに勧誘を受けると、人は驚くほど自然に入信してしまったりするのだ。

■熟年層が入信するとやめさせにくい

熟年層は人生の様々な経験も積み、それなりに分別があると思われている年代でもあり、第三者がその信仰に介入することはかなり難しい。

相談が来るのは信者の配偶者や子供たちからが多いのだが、若者と違って学業を放棄したり出家したりということもなく、週に数回くらいの活動で普通に社会生活を送るので問題性も見出しにくい。さらに教団側も安定した信者として長く教団を支えてほしいので、活動や献金で無理をさせて、部外者の介入を招くようなことはしないケースも多いのだ。

その上宗教活動が生活の中に入ることで、健康で活き活きとすることも少なくなく、相談者らも積極的にやめさせる理由が見出せないという悩みを持ったりする。入信者本人も特に男性の場合はプライドが高く、周囲の忠告に全く耳を貸さないこともある。

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ただ、活動が行きすぎると、退職金がほとんどなくなっていたり、活動の激しさと疲れから事故を起こしたり、夫婦どちらかの入信の場合は離婚に至るケースも見られる。さらにこれらの熟年層が底支えすることで、教団は若者の勧誘をするための経済力を維持することができるので、頭の痛い問題であることに変わりはない。

■入信する人は心の中に教えを求める「核」がある

さて、入信する人に傾向はあるのだろうか。

カルトに勧誘されるのは、人生に何らかの矛盾や虚しさを感じているときだと書いたが、私がかつて所属していた親鸞会で勧誘していたときに先輩は、入信する人は心の中に教えを求める「核」のようなものがあり、それをつかんで本人の目の前に引きずり出すのが勧誘ということだと言っていた。私にはそれがあったのだろう。たくさんの人を勧誘してきたのだが、こんな人がどうして、というケースもあれば、いかにも入らなさそうな人が入ることもあった。でも入った人は今振り返れば、やはり何らかの「核」を心の中に持っていたのだと思う。

■フィクションと現実が区別できない人たちなのか

小説家の村上春樹は、オウムに入っていった人は小説を熱心に読んだ経験がなく、それで現実とフィクションの区別がつかなかったのではないかと語っている。

オウム真理教に帰依した何人かの人々にインタビューしたとき、僕は彼ら全員にひとつ共通の質問をした。「あなたは思春期に小説を熱心に読みましたか?」。答えはだいたい決まっていた。ノーだ。彼らのほとんどは小説に対して興味を持たなかったし、違和感さえ抱いているようだった。人によっては哲学や宗教に深い興味を持っており、そのような種類の本を熱心に読んでいた。アニメーションにのめり込んでいるものも多かった。
言い換えれば、彼らの心は主に形而上的思考と視覚的虚構とのあいだを行ったり来たりしていたということになるかもしれない(形而上的思考の視覚的虚構化、あるいはその逆)。
彼らは物語というものの成り立ちを十分に理解していなかったかもしれない。ご存じのように、いくつもの異なった物語を通過してきた人間には、フィクションと実際の現実のあいだに引かれている一線を、自然に見つけだすことができる。その上で「これは良い物語だ」「これはあまり良くない物語だ」と判断することができる。しかしオウム真理教に惹かれた人々には、その大事な一線をうまくあぶりだすことができなかったようだ。(村上春樹「東京の地下のブラック・マジック」『村上春樹雑文集』新潮文庫)

これは、私の実感と違う。

私の場合はオウムの信者に接したことはほとんどなく、その後継団体のアレフの信者・元信者と、私がいた教団である親鸞会の話が中心になるが、彼らは小説を読まなかったどころか、平均的な人たちよりもずっと読んでいたと感じる。

アレフの場合は教団に入ると小説は読まなくなるのだが、親鸞会の場合は学生の拠点の本棚にはたくさんの小説があり、私自身先輩からよい小説を紹介されてむさぼるように読んだ。

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そもそもオウムに入った人は、アニメやSFが好きな人が多かったと報道されていたが、そこからフィクションと現実との区別がつかなくなってしまったのではないか、という考察は、村上に限らず多くの識者によって語られてきた。しかしアニメや哲学や宗教はダメで「ちゃんとした物語」ならいいと考えているのだろうか。アレフの信者で村上春樹の作品が好きだった人だって、何人か思い出すことができるのに。

■カルトに国立大の理系男性が多かった理由

村上に限らず、カルトに入る人は人生の何らかの大事な経験が欠如しているのではないか、という見方をする人は多い。これ以外にも家族関係に軋轢があった人が入る傾向があるのではないかとか、あるいは過去に反抗期がなかったのではないかという見方もある。しかし様々な人に接すれば接するほど、そんなことは関係ないのではないかと思う。

信者一人ひとりを見れば「普通の人」との違いはどこかにあるだろうが、そもそも百パーセント普通の人間などこの世界には存在しない。私自身は十数年この問題に取り組んできて、入信者とそうでない人の間に明確な違いを見つけることはできなかった。かつてはカルトに入る人は国立大学の理系の男性が多いと言われ、その傾向を生む理由が様々に論じられたが、最近来る相談は私大の文系の女性が大半である。あれは単に国立大学の理系の男性がたまたま多い時期があって、彼らが勧誘するから同じような人がたくさん入った、というだけだったのだろう。

■教えを求める心が目覚めると無視しては生きられない

私が感じた入信者の傾向というのはただ一つで、彼らは人間の根源的な救済や教えを求める「核」を持っているというだけだ。そういう人が自ら求めて入っていくというのもあるし、カルトが勧誘の中で選んで、「目覚めさせる」こともあるだろうと思っている。それは表面に出ている場合もあるし、本人すらも気づかないような、内心の深いところに隠されていることもあるだろう。

カルトに限らず宗教というのは、フィクションと現実の区別ではなく、そういう「核」をあぶり出すのだと思う。一度あぶり出されてしまうとそれを無視して生きることができない。

教団がインチキであったとしても、そこで気づかされた人生の根本問題は本物であったりする。だからこそ、教団をやめて脱会者となっても、少なくない人が求道を続けるのだ。私はそういう人たちをたくさん見てきた。

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オウム真理教・新実智光が最後まで謝罪しなかった理由

広瀬健一元死刑囚の手記『悔悟―オウム真理教元信徒広瀬健一の手記』が出版されている。

それを読んで驚いたのは、広瀬が、「ポア」(オウムでは人が悪業を積んで地獄に堕ちる前に、殺して転生させることを意味した。オウムの犯した数々の殺人を、正当化する教理とされる)するという行為そのものが、「悪業」だと教えられていたと語っていたことだ。

ただし、私は決して軽い気持ちで事件に関与したわけではありませんでした。救済とはいえ、「ポア」の行為そのものは、通常の殺人と同様に、悪業になるとされていたからです。それまではカルマの浄化に努めてきたのですが、救済のためにカルマを増大させる行為をすることが「ヴァジラヤーナの救済」と意味付けられていたのです。(同書)

同じ元死刑囚の新実智光は広瀬と異なり最後まで遺族に謝罪をせず、自らの行為が救済であることを主張し続けたが、その中で「捨て石でも、捨て駒でも、地獄へ至ろうと決意したのです」(降幡賢一『オウム法廷〈12〉』)と語っているところがある。他にも新実は、自分が地獄に堕ちる覚悟で救済をしたという発言を幾度かしているが、私はここに違和感を感じていた。

それは、悪業を犯す前に人間を「ポア」するという行為は、社会的には悪だが、オウムでは善行であり修行が進むと教えられたからこそ、彼らはできたのではないかと思っていたからだ。なので新実の言う「地獄へ至ろう」という言葉の意味は宗教的なものではなく、法律に従って刑を受ける、という程度の意味での「地獄」だろうと私は思っていた。

ところがそうではなかった。

たとえ救済が目的であっても、殺人はオウムでもやはり「悪業」であった。そんなの当たり前だと思うだろうか。私は切なくて仕方がなかった。彼らはやはり本気だったのだと。自分が救われたいから人を殺すというのではなく、たとえ自分が救われないとしても、人を救おうとしたんだと。

■「誰かを救いたい」という人たち

私は今まで何人ものアレフの脱会者や現役信者と面談してきた。

それらの人たちの入信の動機は、「誰かを救いたい」というものが多かった。人の役に立ち、救っていけるような人間になりたいと思って大学に進学し、救いたくても救えないという自分に悩んで、そこからアレフに入った学生がいたことを思い出した。彼女は笑顔で私に言った。「私はやっと本当に人を救うことができる教えに出遇ったんです」と。

地下鉄サリン事件の実行犯である林郁夫は、もともと慶應義塾大学医学部出身の医師だったが、林のオウム入信の動機もまた、医学では人を根本的に救い切ることはできない、と気づいたことだった。中川智正元死刑囚も障害者施設でボランティアをしていて、人の嫌がる仕事を率先して行う青年だったと言われている。

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こうしたことを知るたびに、私自身がほんの少し早く生まれていたら、きっとオウムに入っていただろうという思いを強くする。私も彼らと同じであった。私は人間の存在の無意味さから救われたかったのだ。救われたかったから人を救いたかった。人を救うことで自らの存在に意味が与えられるからだ。だが本当の意味で人を救い切ることができないと気づいたときに、オウムに入信した彼ら自身もまた、存在の無意味さから救われないという思いを持ったのではなかったか。

カルトと言ってもいろいろあり、霊感商法で高額な開運グッズを売りつけるような、最初からただの詐欺以外の何物でもないようなものもある。しかしアレフをはじめとする、私が接してきた教団の元信者から感じるのは、たとえ教団や教祖がインチキであっても、それを求めた人の思いは本物だったのだろうということだ。それだけでなく、あらゆる歴史上の宗教者が真実を求めて求道した思いと、彼らの思いはそう変わらないのではないかとすら思った。

■世の中は何が正しいかわからない

とある総合大学の新入生オリエンテーションで、カルト問題の講義をしていたときがある。大きな大学で数百人が入れるような教室をいくつも回って話をするのだが、そのとき薬物依存症者を支援している先生とたまたま一緒になった。お互いに二十五分くらいの持ち時間で、カルトと薬物依存の話を何度もしたあと、午前中の講義が終わって昼食の弁当を食べているときに、その先生が私にふとこんなことをもらされたのを覚えている。

「瓜生先生は、カルトの信者は真面目さゆえに正しさを求めて生きていて、正しさを提供してくれるカルトに依存するという話をされていましたよね」
「はい」
「わたしは、その気持ちがよくわかるんです。私も正しさを求めていたので」
「そうなんですか?」
「そうです。私はもともと新聞社で記者をしていたんです。しかし記者をするとわかるんですけど、世の中のことって一体どうするのが本当に正しいことなのかが、突きつめると一つもわからないんですよね」
「確かにそうですね」
「はい。それで私も、自分が間違いない正しい生き様をしたいという思いがありまして、薬物に依存している方は絶対的な弱者であるから、その人たちを助ける活動をするのは絶対的に正しいことではないかと思って、この活動をすることになったんです」

なので、正しさを求めてカルトに入る人のことは、よくわかるんだと言われるのである。

私たちは、正しさをつかみたい。なぜなら、考えれば考えるほど人生で何が正しいのかがわからなくなるからだ。

■カルトはあなたに明確な答えを与える

人生は決断と後悔の連続だが、何が後悔のない選択であるのかは誰一人わからない。別の道を歩んでいればと思うこともあるが、別の道を歩んだ結果を知ることもまたできない。真っ暗な道を手探りで歩いているようなものだ。そんなときに「正しさ」をつかみたい誘惑に私たちはとらわれる。明確で白黒ハッキリした説明に惹かれる。

瓜生崇『なぜ人はカルトに惹かれるのか――脱会支援の現場から』(法蔵館)

しかし人生で起こることはだいたい複雑に絡み合っていて、こうすれば必ずこうなる、という解決策が存在することは稀である。

その時々で必死に考えて試行錯誤しつつ、三歩進んで二歩戻るような歩みでしか現実は生きられない。しかし、複雑なものを複雑なままに受け入れることほど苦しいことはない。真面目な人ほど一度しかない人生に間違いのない真理や正義を見つけて、全力でそれに向かって進みたいという衝動を抑えることができない。

カルトは多くの場合、あなたが生きているのはこのためだ、という明確な答えを与える。

あなたの人生はこういう意味があるのだ、あなたの今まで生きてきたのはこの教えに遇うためだったのだ、そして、今後はここに向かって歩んだらいいのだ、と。こうした疑問に答えを与えることで、その疑問に向き合う苦しみや迷いを消し去ってくれる。「もう迷わなくていい」のだ。これを私は「真理への依存」とか「正しさへの依存」と名付けている。

しかし見かけ上消し去っているだけであって、解決しているわけではない。

「カルトの提供する答え」という目隠しをさせられているだけである。なので脱会して信者が元信者となり、いわば目隠しを外されたときに、何一つ問題が解決してないことに気づいて、深刻な空虚感や虚脱感に苦しむケースは多いのだ。

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瓜生 崇(うりゅう・たかし)
真宗大谷派玄照寺住職
1974年東京生まれ。滋賀県在住。電気通信大学在学中の1993年に浄土真宗親鸞会に入会。1998年より同会の専従の講師として布教やインターネット対策にかかわり、2005年に脱会。その後はエンジニアとして働く傍ら、自身の体験を元に講演活動や大学でのカルト対策、脱会者へのサポートを通じてカルト問題に携わる。2009年より2012年まで大阪大学大学院医学系研究科招聘教員。2010年よりJSCPR理事。2011年より真宗大谷派玄照寺住職、真宗大谷派青少幼年センター研究員。大阪大学本部教育室招聘教員。インターネットで浄土真宗の法話の情報を共有できる「浄土真宗の法話案内」を主催。電子書籍の仏教書出版「響流書房」代表。
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(真宗大谷派玄照寺住職 瓜生 崇)