権力者のセクハラは個人の問題じゃないって、皆さん知っているでしょう? - 赤木智弘
※この記事は2018年04月23日にBLOGOSで公開されたものです
財務省福田次官がセクハラ疑惑で辞任した問題。
当の本人が悪いという意見はもちろんだが、取材した女性記者のハニートラップだとか、テレビ朝日が悪いとか、まぁ各自が自分たちの政治的な思惑で言いたい放題言っているようで。(*1)
特に、マスコミを叩きたい人たちに人気なのは「公権力のトップの方の番記者に女性記者が多い。すなわち女を利用してネタを取ら せようとしているのだろう。だからマスコミは酷い」という論じ方である。
女性の活躍の必要性が言われる日本社会において女性が権力者と親しいのは悪いことではないが、これが女性性を利用した何かであれば確かに問題であろう。
だが、それってそういう話ではないのを、我々、それなりに年齢重ねた大人は知っているはずなのである。
そして、今回のセクハラ問題は、そうした「権力者の近くに女性を寄せる社会のシステム」という問題点を無視したまま進んでいる。
僕は疑問に思うのである。
「いやいや、あなたたち、知っているでしょう?」と。
「なんで権力を持った男性のところに若い女性が集まるか、会社が若い女性を行かせるか。それをあなたたちは知っているでしょう?」と。
「美人局とか、女を利用してネタを取ってこいとか、そんなぶっ飛んだ話じゃなくて、あなたの周り、もしくはあなた自身もそうやって結婚しているでしょう?」と。
あなたたちが知っていながら口にせず、無視しているのは、会社が権力ある男性のところに女性を送り込むのは「そこでいい結婚相手を探せ」という「温情」だという事実だ。
つまり、権力ある男性の周りには若い権力ある男性予備軍が集まるわけだから、そこからいい男を見つけてこいというのが「会社の温情というシステム」としてあるわけだ。
一番わかり易いのが「野球のリポートに女子アナを送り込むマスメディア」で、女子アナがよくプロ野球選手と結婚するのは、そうやって会社が女性を程よく権力上位の男性と出会わせる、お膳立てをしているからである。
それは一般企業でも同じで、出向などの会社間での社員の行き来が、社内恋愛というリスクを背負わない出会いを生み出すためのシステムとして、日本社会を裏支えしているのである。またまだ田舎の方では「女性社員は男性社員のお嫁さん候補」という会社もあると聞く。こうした会社間のやり取りの中で生まれる社会人の自由恋愛は、会社間の相互やり取りの上で、ある程度似通った階層同志の男女が出会うようにできているのである。
そのようにして日本社会では「出会い」のシステムをお見合いや両親の人脈という縁故から、自由恋愛という名前で知られる会社間の縁故に移行させたのである。
そうした中で本来であれば「若い女性社員に周囲の若い権力候補男性」を紹介することが求められているのだが、その権力男性自身が若い女性をつまみ食いしてしまったり、逆に若い女性社員が権力男性の権力の強さに魅力を感じてしまうと、セクハラやら不倫やらという問題が発生する。だがそれは結婚という社会的システムを保持するために「大人の火遊び」というやつとしてシステム全体の批判を避けられてきたのである。
それは今回も同じである。セクハラだなんだと個人の問題として語られるが、それは一方で「仕事を通して知り合った同志が恋愛に至る」というある種「自立した男女による自由恋愛」という幻想を生み出すためのシステム自体が包有する必然的なエラーである。
今回の福田次官も、あの年齢でああいうしょうもないセクハラをしていたということは、ああした発言で何人か上手いことつまんでいたのだろう。そしてそれは彼の周りの同程度の権力者たちも同じであったはずだ。温情システム上、権力を持つ強者男性がそれを利用して女性をつまんでしまうという問題を無視して、これを今回も個人やある会社固有の問題として矮小化することで無視しようというのである。
本来であれば、こうした女性を男性の結婚相手候補としてたらい回すようなシステムこそ、フェミニズムは批判しなければならないはずだが、残念ながら現行の強者男性に気に入られ、権力を得ることを正当としたフェミニズムにおいては、このようなシステムそのものに対する批判は成立しない。「システムの意図を正しく理解しない、空気を読めないセクハラ男が悪いのだ」という個人批判しか出てこない。
フェミニズムにとってはむしろ女性の上方婚志向を支える温情システムは好ましいものであると捉えているのだろう。
すなわちセクハラ問題とは「権力のあり方そのものの問題」である。
権力を一握りの人間が握り、そこに若い女性や男性を集めるシステムがあり、権力者がカネも握っている以上、そこでセクハラや不倫といった問題が発生する。
ついでに言えば女性の魅力は若さやスタイルだが、男性の魅力は権力そのものである。権力に人が惹きつけられる限り、いくら個別の問題を批判しても、何ら問題は解決しない。
そしてまたそこでセクハラなどの問題が起きなかったにしても、そうした「権力者の近くで仕事をしたい」ということも欲望である。女性もまた自らの権力を自分の魅力として捉えるのである。
このような「仕事を通した権力への渇望」こそどうにかするべきなのだが、誰もそれを口にしないのが、日本社会の陥っている袋小路であると、僕は考えている。
*1:福田次官セクハラ更迭 なぜかテレ朝の女性記者が叩かれる日本(文春オンライン)http://bunshun.jp/articles/-/7134