爆笑問題・太田光が元SMAPの3人を映画に 垣間見える北野武監督作品との符合 - 松田健次

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※この記事は2018年04月10日にBLOGOSで公開されたものです

爆笑問題・太田光が元SMAPの3人を映画に撮った

元SMAPの3人、稲垣吾郎、草磲剛、香取慎吾が出演する映画「クソ野郎と美しき世界」が4月6日に公開。初日を鑑賞した。三人各々が主役の短編と各エピソードが集約されるエピローグという構成のオムニバス作品である。

映画全編に通底するコンセプトは「別離した大切な何かとの再会」か。SMAP解体を経た三人の現在の心象を、物語というフィルターを通してファンへ伝えたいというものだった。

とくには彼らのファンというわけではない自分の目当ては、太田光監督だった。太田が商業映画で監督を務めるのは、1991年「バカヤロー!4YOU!お前のことだよ/第1話 泊まったら最後」以来となる。当時の太田は20代半ば。脚本&プロデュースは森田芳光。主演は春風亭小朝。ストーリーは、奥まったペンションの理不尽なオーナー(小朝)により宿泊客の若者がさんざんな目に遭遇するというもの。短編4本から成るオムニバスの1本だった。

そして今回「クソ野郎と美しき世界」もまた、全体で短編4本から成る内の1本を太田が監督・脚本で担った。タイトルは「光へ、航(わた)る」。公式サイトで公表済みのテキストから内容を引けば、「失った息子の右腕を探す旅を続ける夫婦。2人が沖縄の海で出会ったのは・・・?」という話だ。

結論から言えばこの作品が「当たり」だった。

(公開中につき、ネタバレは極力避けるが)正直に粗さを感じるカットも少し目についたのは確かだが、それはそれとして、太田光ならではの時事ネタを背景にした幾つかの会話を主役の草磲剛と尾野真千子が重石をつけて我が台詞に昇華していたことに感心したし、緊張感を孕んだ磁力を有する幾つかのカットが目を惹きつけたし、「右手」「小指」「硬式球」というタテ糸が適所で仕掛け糸の役割を果たす脚本がきっちり機能していたし、シリアスとナンセンスを連ねて成立させる際の演出に繊細な抑制手腕を感じたし、他の監督には内緒だがこの作品だけ使用しているカメラが実は桁違いでハイクオリティなものだった・・・と太田が「爆笑問題カーボーイ」(TBSラジオ)で明かしたトークの真偽定かではないが、オムニバスの中でこの作品だけ映像の密度と深度が見違えて見えてしまったりもした。

主演の草磲剛は、どうしてかというほど身体が空虚で、その消身した容れ物にひとたらしの雫のように役柄を身に纏っていて、表面は薄く濡れているがその内側は影に覆われた空洞を感じさせ、そうして振る舞うクズなアウトサイダー役は強い磁力でスクリーンを統べていた。

尾野真千子は草磲と相対する熱量を担っていた。クライマックスの「右手」のシーンは、真正面から撮りきられていて清々しく、この数秒に今作の太田組の力が象徴されているように見えた。

という、太田光監督の「光へ、航る」だが、隅々に太田の匂いを漂わせており、それを深々と吸い込みつつも、観終えて同じ感触を抱いた誰かがそれなりにいるだろうと感じたことがある。それは幾つかの場面によぎる北野武監督作品との符合だ。モノトーンのジャケットに身を包んだ草磲が見せる脅しの場面、容赦の無い暴力は「その男、凶暴につき」を、背景が沖縄の砂浜へと移った際は「ソナチネ」を、キャッチボールは・・・etc。

だがそれは、太田作品を北野映画の型枠に押し込める話ではない。監督の力量が伴わなければ、符合も陳腐なトレースに流される。太田監督はむしろキタノとの符合を意識しながら映画を推し進めていたのではないか。

そしてもう一つ、観終えて同じ希望を抱いた誰かがそれなりにいるだろうと感じたのは、「次を観たい、今度は長編で」という思いだ。作品を重ねるその先に、「オオタ」がさらにまごうことなき「オオタ」になる作品を観てみたい。

それはまるで、たけし(ツービート)に衝撃を受けて憧れてかぶれた80年代の無数の若者達の中から太田光(爆笑問題)が現れ、あの笑いの(漫才の)スタイルに感化された第一歩から、歩を止めることなく未踏峰を登り続け、彼(彼ら)だけの登頂旗を立てた今があるように。

近くても遠くてもいい、太田がいずれ長編を撮った際は、それを題材に、たけしと太田(と水道橋博士)で放談する姿を見てみたい。そう願うのは、昨年秋に実現した三者による下記のような「!!!」という時間にまた出逢えたらと、勝手に妄想しているせいだ。

それは、北野映画「アウトレイジ 最終章」のプロモーションを兼ねて、たけしが10月2日(月)~6(金)までの5日間、テレ東の午前7時半から8時までの30分枠に生放送で出演した(うち水曜は欠勤)特番の4日目のことだ。

< 2017年10月5日放送「おはよう、たけしですみません。」(テレビ東京)>

(その日の夜、2017年のノーベル文学賞が発表されるという前フリあって。※ちなみに受賞は日系イギリス人作家カズオ・イシグロだった)

博士「ノーベル文学賞だったら村上春樹、今日も夜ですか、また話題になる」

太田「ハルキストが集まる」

たけし「だから、三宅裕司が行けばいいんだよな」

博士「三宅裕司、顔が似てるだけです。だけどノーベル文学賞はボブディランが獲ったじゃないですか。ということは、たけしさんもいけるんじゃないですか?」

太田「いける、『浅草キッド』(注:1988年刊 太田出版 たけしの浅草修行時代を綴ったエッセイ)でいきますか」

博士「(本を手にとって)いや、『アナログ』(2017年9月 新潮社 著・ビートたけし)がね」

太田「アナログがね」

たけし「これ、今の時代にけっこうあれだよ、アナログっていうのはデジタルに対して今の時代にこれだって、けっこうメッセージ強いんだよ」

太田「そうですね、デジタルの時代にね」

博士「これを英訳して、しかも向こうのゴーストライターに頼んで」

太田「わりと簡単な日本語ですから」

博士「簡単な日本語でそう、もっとよりよく書いてもらって」
たけしにとって「アナログ」という小説が思い深い作品であることは、それまで各所での発言で伝わっていた。その入れ込みようのひとつに「又吉直樹が芥川賞を獲ったなら俺だって」という、お笑い界の殿上人としての強靭な負けん気が目についていた。

しかし、映画界では世界的な評価がある表現者だとしても、小説での評価は何ら定まっていない。「火花」への対抗心がどこまで本意なのか伺い知れぬ中、たけしの鼻息を態よく受けながら、太田と博士はたけしをいじり始めた。

太田は直接的に、博士は婉曲的に、けっこう失礼な物言いを挟みこんでくる。太田と博士、それまで反目しあっていた二人が、眼前のモンスターを狩るという目的で手を組み、互いのスペックを供しあうかのように、スリリングないじりがさらにエスカレートしていく。

太田光・水道橋博士のスリリングな「たけしいじり」

< 同上より >

博士「(ノーベル賞を)欲しがったほうがいいんじゃないですかね」

太田「アナログで」

博士「これもう、直木賞無理ですから」

太田「アハハハハハハ」

たけし「なんてこと言うんだバカヤロウ」

太田「いろんな忖度ありますからね」

博士「考査はしてますけど」

たけし「じゃあノーベル賞目指そうか」

博士「目指しましょうよ。見出しになりますよ、たけしついにノーベル賞」

たけし「ノーベル賞って言ってたらノーベル賞失敗でモンド賞ってなったらやだよ俺は。モンドセレクション毎年銅メダルってやだよ。あれ誰が決めたモンドセレクション」

博士「モンドセレクションね、全部ついてますよね金賞銀賞って」

太田「これ(アナログ)が獲ったら村上春樹は悔しい」

博士「悔しいでしょうね、何のためにずーっと書いてきたか」

たけし「だいたいあいつの本なんてたいしたこと書いてないよ。僕はなぜ走るのか、とか、走ることによってとか、黄色の横のこの色はなんて何言ってやんだバカヤロウ」

博士「ホントその通りですよ。(太田に)大江健三郎(※1994年 ノーベル文学賞を受賞)も好きじゃないんですよ」

太田「大江健三郎」

たけし「大江さんは好きなんだよ。でも読んでわかんないんだよ難しくて」

博士「あれ、読んでてもわかんねえだろって」

太田「ああ、なるほどね」

博士「『万延元年のフットボール』(1967年 講談社 著・大江健三郎)って、あれわかんねえよって」

太田「ああ、でも『見るまえに跳べ』(1958年 新潮社 著・大江健三郎)とかけっこう」

たけし「だけど日本文学のたとえば芥川賞でも、三島由紀夫さんでもそうだけど、文体がキレイじゃない。あれをどうやって英語に直すんだと思うんだよ。フランス、外国語には」 

博士「そうですよね、翻訳ってそこで」

たけし「だってわびさびなんてのは訳せなくて、そのまま使ってるだろ。そうすると日本文学の日本人の言葉の、奥ゆかしさとかいろんな意味を含めたやつが外国語に肩代わりできないから、その言葉であるわけで、日本語ってのはそういうとこあるじゃない」

太田「このアナログはけっこうわびさびもクソもないから、けっこう英語に(訳しやすい)」

博士「クソもない!失礼なこと言うなおまえ!」

太田「アハハハハハハ」

たけし「なんだよアナログのわびさびもクソもねえってのは」 

太田「けっこうでも小学生の作文みたいな文章じゃないですか」

たけし「バカヤロウ」

太田「アハハハハハハ」

博士「おまえホメてねんだよ!」

提供ナレーション <この番組はご覧のスポンサー(P&G)の提供でお送りします>

たけし「ホメろよバカヤロウ、これ売れてんだから。これ読んで喜んでるやつは小学生以下ってことになっちゃうじゃないか」

太田「アハハハハハハ」

博士「純なね」

太田「それでノーベル賞を辞退してほしいですね。(授賞式に)来ないっていう」

たけし「そこなんだよやりたいのは」

太田「でしょ」

たけし「ノーベル賞辞退!」
このやりとり、5日間あった「おはよう、たけしですみません。」で最も好きな場面だ。たけしを持ち上げては落とし、落としては持ち上げる。こんなにもいじっていいのかとハラハラしっ放しだった。

博士はプロレス的な寸止めで場を回しているのに対し、太田は真っ向からシュートを仕掛ける。「小学生の作文みたいな文章」だなんて、たけし本人を前にそんなえげつない酷評を口にするとは。笑っていいのかよくないのか、とにかく笑うしかないじゃないか。

確かに太田は「マボロシの鳥」「文明の子」と自身も小説を上梓しており、読書家として内外の文学に敬意を抱く横顔が伝わっているが、あまりに容赦のない物言いに「アウトレイジ最終章」のスピンオフが勃発する緊迫を一瞬覚えた。

だが、この太田による不敬な揶揄を「バカヤロウ」のひと言でいなし、次の笑いを求めにいくたけしの度量・・・、なんだかもう、やっぱり誰も敵わないじゃないか。

それにしても、どうして太田はたけしにそこまで言ってしまえるのだろうか。それを思うにこの場面、水道橋博士はたけしを愛し過ぎているから寸止めで、太田光はたけしを好き過ぎるから寸止めず、なのかと浅い考察が限界で、その先はわからない。

というあれこれが頭にめぐった春、もう一度繰り返しになるが、近くても遠くてもいい、太田がいずれ長編を撮った際は、それを題材に、たけしと太田(と水道橋博士)で放談する姿をテレ東朝の生放送で見てみたい。