震災は「過去」のものだが、その影響は「現在進行形」―震災遺児、孤児の気持ちは今? - 渋井哲也
※この記事は2018年04月03日にBLOGOSで公開されたものです
東日本大震災により、多くの子どもたちが親を失った。厚生労働省によると、震災で両親ともになくした18歳未満の子ども「震災孤児」は244人、両親のどちらかを亡くした子ども「震災遺児」は1538人だった。
一方、「あしなが育英会」が当面の生活費を支援した震災孤児・遺児(18歳以上を含む)は2083人。このうち、その後に就職や結婚した人を除外し、今でも手紙を出すなどして交流をしているのは約1600人いる。当時、母親のお腹にいた子どもは20人弱。この世代が今年4月、小学校1年生になる。
震災孤児の多くは親族里親、つまり、祖父母ら直系の親族に子どもの養育が委託されている。ただ、親族の元での生活が合わない場合は、通常の里親制度を利用するか、児童養護施設で生活する。震災から7年経つと、震災遺児の親が再婚するなど、家族関係に変化も起きている。
仙台市、石巻市、陸前高田市で震災遺児や孤児の交流の場「レインボーハウス」を建設し、支援活動をしている「あしなが育英会東北事務所」の西田正弘事務所長に話を聞いた。
親の再婚や新たなきょうだいをどう受け入れるか
ーー東日本大震災で遺児や孤児になった子どもたちを取材したことがあります。厚生労働省は震災から二週間後に「震災により親を亡くした子どもへの対応について(※PDF)」という通知を出しています。ところで、関わっている子どもたちの中で、どんな子どもたちが多いのでしょうか。心的外傷後ストレス障害(PTSD)など精神的な影響について、西田さんはどのように見ていますか?
西田:東日本大震災の震災孤児・遺児の数は、阪神淡路大震災による震災孤児(68人)と震災遺児(505人)の3倍です。「レインボーハウス」に来ているのは、父親を亡くした子どもが5割、母親を亡くした子どもが4割、両方を亡くした子どもが1割ほどです。
宮城県では仙台市と石巻市、岩手県では陸前高田市。その3カ所に、あしなが育英会が運営する震災遺児・孤児の交流施設「レインボーハウス」があります。子どもたちの精神的なバランスは揺らいでいます。たとえば、母親をなくすと、女の子が生き方のモデルがない状態になってしまいます。父子家庭だと、女性特有の成長の変化をなかなかキャッチできないし、相談できないと言われています。
また、母親が亡くなると、実父が新しい母親と再婚することがあります。そのとき、子どもは亡くなった母親に対してどう思うのでしょうか。新しい母親との関係をうまく作っていけるのかも課題です。特に女の子で、中高生の場合、亡くなった母親や再婚について、父親がどう語り、子どもたちがどう受け止めているかで変わってきます。
同様に父親が亡くなったケースでは、新しい父親ができる場合もあります。遺されたのが男の子の場合、新しい親との関係を親子としてみるのか、新しい夫婦を男女関係としてみるのか、このあたりが難しいですね。
「レインボーハウス」には新しいお母さんが迎えにくる場合があります。こうした家族の場合、亡くなったお母さんに対する子どもの気持ちを吐き出す場を大事にしていると思います。新しいお母さんができると、子どもは「あの人」と呼んだりします。それが、うまく関係を作れてない場合なのか、それともほかの子どもたちに気をつかっているのかは確認できていません。しかし、亡くなった親への喪の作業と、新しい親との関係性を作っていく作業をしています。
「日常」に戻ったからこそ起きる問題も
ーー震災から7年経てば、遺された親が再婚して、家族が変化することもあり得ますね。
西田:再婚した後に、母親と新しい父親との間に弟や妹ができましたという家族がありました。姉として弟や妹を面倒を見ることになりますが、母親は新しい子どもたちに時間が取られることで、姉へのケアが行き届きません。今後、思春期になったときに、その子の自尊感情がどうなっていくのか心配です。不安の感情が高まるかもしれません。
家族が変化するのは仕方がありません。ただ、家族の中で、子どもたちにとっての居場所を築けるのか、安心感を持てるかは課題となります。周囲からは「新しいお父さんができてよかったね」「お母さんができてよかったね」と言われることになりますが、子どもたちには様々な課題が生じます。どんな風に折り合いをつけていけるのでしょうか。
再婚することは親にはよいことですが、親たちが子どもの繊細な気持ちを理解できるのか。子どもに対して「いろんな気持ちがあっていい」と認めることがキーポイントになる気がします。また、家族が変化していくときに、通っている学校の先生もどんな配慮ができるのか。注意・関心を持つことが大切になります。
ーー遺された側の親としても困難さがあると思われますが....
西田:東日本大震災の発生日は3月11日ですが、(震災関連死を含めると)亡くなった日が違う場合があります。また、いまだに発見されずに行方不明の場合もあります。探してきて、何日目かに捜索を諦めたという場合もあります。大人たちは、生活のために諦めなければならないときがあります。亡くなった場合はお墓を作らなければならないし、遺産相続の手続きもあったります。そういうものに忙殺されてきました。
そうした状態から今は落ち着いてきています。なかには、義理の両親との関係を続けるのかどうかを考える時期に来ているご家庭もあります。そこで、たとえば、もう関わらないということを選んだとします。親族の縁を切る「姻族関係終了届」を出すことを考えている人もいます。しかし、義理の親からすれば、孫なので応援したい。また、老後の面倒を見てくれるかどうかで取り合いになる場合もあります。シビアな現実が突きつけられて、親からはすれば煩わしいことがあります。
ーー日常に戻っているからこそ、難しい問題もありそうです。
西田:「レインボーハウス」に来ている人たちはまだはけ口がありますが、震災後7年、親たちはずっとエネルギーを使って子育てをしてきました。そのため、疲労感がたまったり、ガス欠になっている人も多いのです。
例えば、親が行方不明の家族がいます。子どもは気持ちの踏ん切りをつけたいと思っているのですが、親の方が「うちのかあちゃんはまだなんだよね」と言っています。ただ、同じように思わないといけないということもありません。ずれたとしても、いいとか悪いとかではないので、僕らは受け止め、支えます。無理にズレを強調はしません。
東日本大震災では多くの人が突然亡くなってしまいました。遺族側に「ちゃんとお別れしてない」という意識があるケースも多い。心残りだし、「あのとき、こうしていれば」と考えたりもするでしょう。もちろん、親やきょうだいという関係性や、亡くなった人への愛情の度合いによってもかなり違いますよね。
亡くなることのストーリーは人によって違いますが、震災の場合は、突然です。例えば、地震が起きてから津波が来るまでの間に連絡を取り合っていた夫婦がいます。津波で夫が亡くなったのですが、妻はそのとき、「逃げて」と言えませんでした。その間のコミュニケーションを振り返って、いまだに自分を責めています。地震と津波の間。あの時間の関わりが影響しているのでしょうね。そして「夫が亡くなったのは私のせいだ」と思っています。阪神大震災のときでも、5年、10年経ったとき、「私のせいだと思っていた」という人が出て来ました。ただ、それを言うだけの体力がつかないと、なかなか言えません。
亡くなった家族の話題に触れないと、氷が固まったまま溶けない
ーー亡くなった家族のことについて、どのくらいの子どもたちが話をしているのでしょうか。話を聞いてみたいと思った場合、どのように対処したほうがいいのでしょうか。
西田:2013年の「あしなが」の調査(※PDF)ですが、「しょっちゅう話す」は15%。「ときどき話す」が48.3%。「あまり話さない」は28.5%。「まったく話さない」は5.6%でした。どういう言葉にしていいのかわからないということなのかと思っています。親がどんな風に触れているのかで子どもが影響します。大人が避けていれば、子どもも話しません。我慢している場合もあります。
「レインボーハウス」では、子どもたちは、いろんな気持ちをしゃべっていいとなっています。もちろん、無理強いはしていません。トーキングタイムがありますが、言いたくないときはパスできます。季節の話題では、亡くなった親について話をすることがあります。例えば、七夕に「亡くなった親に伝えたいことは?」とか、8月には「お墓参りしたの?」と聞いたりしています。
今年の3月4日には「東北・神戸交流会」を行いました。トークテーマは「もし死んじゃった人がいたらどうしたい?」でした。ただ、小学生の2、3年の場合、そもそも親にかかわる記憶がありません。今頃になって、「いたんだけど死んじゃった」と言われたりする。「優しかった」と周囲の人が言っていたが、「本当に優しかったのかな?」と彼らは思っています。実感がないのです。子どもは生き様を教えてもらうことで、亡くなった親のイメージを作っていきます。それは小さい子たちの課題です。
成長していくと、「なんで死んじゃったの?」と子どもが聞くことがありますが、それは知りたいタイミングということです。一方で、準備ができていないときは触れられたくありません。拒否する場合もあります。家族から、亡くなった親について聞かされている情報量が少ないかもしれませんね。
亡くなった家族の話題に触れないことで、氷が固まったまま溶けないように、時間が止まってしまっている遺児、孤児もいます。今後の人生の中で話題に触れざるを得なくなったときに、どう口にしていいのかわからない場面があるでしょう。
また、遺児や孤児が「親が亡くなったのは自分のせい」と思っている場合もあります。あるいは「自分だけ幸せになっていのか」と思っているケースもある。そうなれば、今後の人生に自分でブレーキをかけてしまう可能性があります。「この先、自分らしい人生を送ることはいいことなのか?」と考えたりするのです。
例えば、結婚をするときに、お互いを大事に思い合う関係の中でどのように振る舞うのか。あるいは、結婚して子どもができたときに、その子どもに聞かれることもあるでしょう。どんな場面でどんな影響があるのかはわかりませんが、親がいない分、存在感は大きくなるでしょう。常に蓋をしていると、重しがなくなったときに開いてしまいます。
東日本大震災だけでなく、いろんな災害のニュースを見て、妄想を膨らませて、それに振り回されることもあるでしょう。だからこそ、教えてもらうことでスッキリすることがあります。話をするときは、聞く準備ができているかを確認しつつ、子どもに対して敬意を持ちながら話してほしいですね。
そのとき、例えて言うならば、ボールを素手で受け止められるのか、グローブが必要なのかを見極めることも大切です。一つひとつ確認していくことで、「あなたのことを大事に思っている」というメッセージを伝えるのです。どうしても、大人は伝える内容だけに注目してしまいます。やりとりを続ける関係を築くことが大事です。伝え方によっては継続性が壊れてしまいます。「自分が生きていてもいいんだ」という感覚を感じさせることが必要です。
「いつまで泣いているの?」と言われてしまう
ーー遺児や孤児の中には、被災地から離れて住んでいるケースもあると思います。そうした場合は震災の話題はあまり出ず、忘れられている感覚があったりするのではないでしょうか?
西田:被災地から離れて東京などに就職する人もいるでしょう。月命日とか3月11日のときに、亡き親を思っていると、「震災から7年経っているのに、まだそんな気持ちなの?」と言われることもあるでしょう。それを「そういう気持ちなんだね」と受け止めてくれるところがあればいいですね。
阪神大震災のとき、大学生で母親を亡くした女性がいました。働くようになり、結婚して、子どもが生まれました。1月17日になるたびにどうしても泣いてしまっていました。それを見た夫が「いつまで泣いているの?」と言ったそうです。それで「わかってもらえない」と気持ちのズレを感じ、離婚してしまいました。ただ、ある意味では、理解できない人と一緒にいるよりも離婚の方が新しい人生を歩めるかもしれません。
阪神大震災のときもまだ影響があるように、東日本大震災でもいろんなものが出てきます。震災は「過去」のものですが、その影響は「現在進行形」なのです。いろんな感情が豊かになるにつれて、亡くなった人への感情は変化していきます。喪失感を味わいながら成長していくのです。
ーー支援は続けられるのでしょうか。
西田:神戸の「レインボーハウス」では20年が経ちましたが、今でもOBやOG同士でつながり、支え合っています。(結婚などで)パートナーが見つかったときくらいまでが支援の区切りでしょうか。現在、東北では仙台、石巻、陸前高田の三カ所に「レインボーハウス」がありますが、少なくとも仙台はセンター的な役割がありますので、20年は続けたい。
あれだけの被災があったので、何らかの影響がないわけではありません。その場の問題、育つ環境がどれだけ整っているのかで違ってきています。親御さんの状況も変化しています。被災地ほど目を向けないといけない子どもたちがいるのです。
ここ1、2年で、大学生世代の若者たちが集まり始めています。卒業後、一人暮らしになったときの孤立感があり、支援の対象を社会人まで広げることにしました。「あしなが」では震災津波遺児大学生、社会人のための「にじcafe」も開催しています。
仙台で支援している中で、震災後に生まれた子どもの中にも不安定な子どもがいることもわかっています。若い親の世代が落ち着いていないということもありますし、仕事や生活環境の影響もあるでしょう。そのため、2月には、一般社団法人「東日本大震災子ども・若者支援センター」ができました。
「何かあったら、あそこに電話すればいい」と考えたり、連絡場所の一つとして位置付けられるようになってほしいです。神戸でも卒業生同士が繋がりをもっています。成人になったら、また別の課題が生じます。里親が亡くなるなど、お別れも経験します。それにより、若者たちの基盤が弱くなることがあります。ただ、どこかで誰かと繋がっていると感じたり、支えるグループが地域にあることが大切です。