※この記事は2018年03月04日にBLOGOSで公開されたものです

小学館が刊行している「月刊コロコロコミック」の2018年3月号に、モンゴルの英雄であるチンギス・ハンの顔にチンチンの落書きをしたマンガが掲載された。これを元横綱の朝青龍がツイッター上で批判したことで、問題が拡散。モンゴル大使館が外務省に抗議、小学館はモンゴル大使館に謝罪をしたが、在日のモンゴル人たちが小学館に抗議デモを行ったり、また一部の書店が同書の取扱いを中止するなど、まだ問題は尾を引いているという。(*1)(*2)(*3)

批判すべき部分と、批判する必要のない部分が細かく分かれるので、最初にざっくりとまとめる。

まず、チンギス・ハンにチンチンの落書きをしたということで、朝青龍が怒ることは構わない。
またモンゴル大使館が批判を表明する。これも構わない。
在日モンゴル人らが小学館前でデモをする。デモは権利であるから構わない。
小学館が謝罪をする。弱腰の対応であるとは言えるが、これも小学館の判断としては尊重する。

一方で、モンゴル大使館が外務省に抗議をする。これは意味がわからない。国会での答弁などに差別的な発言があったならともかく、小学館は民間の会社であり、外務省は小学館の親会社でも何でもない。

また、外務省がその抗議を小学館に伝えたとすれば、これもどういうことなのだろうか。外務省が企業に抗議の取次をする必要があるのだろうか?

一部の書店がコロコロコミック3月号の発売を中止する。これは情けない。書店としての矜持は無いのかと問いたい。

駐日モンゴル大使館がFacebookに「これは単なる非道徳的な行為だけではなく、わいせつ物頒布、児童の権利の保護に関する日本の法律にも違反していると考えています」「この件に関して法律の下での適切な対応をしていただけることを期待しています」と書く。期待するのは勝手だが、写実的なわけでもないチンチンを描いて販売しただけで、わいせつ物頒布や児童の権利保護に関する法律に違反しているなどいう法的判断はありえない。これはきっちりと突っぱねるべきである。

さて、この件を一言で言うと「表現の自由」の話である。

日本には表現の自由がある。表現の自由があるからこそ、誰かの表現に対して不快を表明することも表現の自由として認められる。しかし一方でそれは法的な表現の差し止めの根拠にはならない。このラインは絶対に守られなければならない。

不快を許すか許さないかという点についても、コロコロコミックの読者やその編集部とモンゴルの人たちとは、価値観が異なるということでしかない。

ヒンズー教では牛は聖なる動物とされているし、イスラム教では豚肉は食べてはいけないとされているが、日本人の多くは食品として認識して、牛も豚も食べている。それをヒンズーやイスラムの人たちから批判されようが、その価値観をヒンズーでもなく、イスラムでもない人たちが内面化する必要は一切ない。

それと同じく、モンゴルの人たちにとってチンギス・ハンが英雄であろうと、コロコロの読者や編集部にとっては落書きのキャンバスでしかない。たったそれだけのことである。日本には信教の自由があるが、他者の宗教の教義を受け入れないこともまた、信教の自由の1つである。

念のために記しておくと、モンゴルに対する差別でもない。なぜなら問題になったマンガでは、他にも名前が出ているだけでも「アインシュタイン」「ナポレオン」「足利義満」「縄文式土器」という歴史上の人物(?)にも落書きをしているからだ。

このマンガ自体は、単に「教科書の顔に落書きをする」(マンガ上ではテストではあるが)という日本の子供が歩む体験をギャグマンガにしたに過ぎず、何かしらの政治的主張があるわけではない。

確かに「侮辱である」という考え方はできなくもない。

しかし落書きされた当人が侮辱であると考えるならともかく「あの人に対する侮辱は私が許さない」というのは、あまりに批判の根拠としてフリーハンドに過ぎないだろうか?

「天皇陛下にチンチンを落書きされれば、日本人だって怒るだろう!」と言われるかもしれないが、日本の法に不敬罪はないから、天皇陛下にチンチンを描いても、それは罰せられない。

ただし、天皇陛下自身が不快を表明したと判明すれば、それは謝罪をするべきであろう。しかしそれは天皇陛下だからとか、英雄だからという話ではなく、単に「当人に不快を与えたから」であり、法的な根拠があっての謝罪ではない。侮辱罪や名誉毀損罪というものもあるが、それもまた天皇陛下だからとか、英雄だからと特別扱いされず、すべての人が同じ権利を得ているのが、日本の法なのである。

自由とはことさら美しかったり素晴らしかったりするものではない。特に表現においては、いやらしいもの、汚らしいもの、気持ち悪いもの、そして侮辱的なものを守ることが、もっぱら表現の自由を守ることの意味となる。

「美しかったり立派な表現は自由だが、エログロナンセンスや差別的な表現は認めない」という考え方が徐々に支配的になりつつあるなかで、今回のように「強く抗議をすれば、表現は引っ込む」ようなことが続けば、表現の自由は自主規制の下で、有名無実と成り果てるだろう。

表現の自由とは他ならぬ人権の一部である。

ある人の人権とある人の人権。互いの価値観が異なればどこかで必ず「不快」は生まれてくる。それを調整する必要はあるが、それが一方的に「不快と思ったほうが、他人の人権を簡単に削り取っても良い」と考えてしまえば、人権はどんどん削れて小さくなってしまう。

不快を不快と受け付けつつも、反論するべきはちゃんと反論し、守るべき部分はしっかりと守る。それをやっていかなければ表現の自由という人権は守れないのである。

*1:モンゴルが外務省に抗議=不適切表現で小学館謝罪(時事通信 Yahoo!ニュース)https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180223-00000166-jij-pol
*2:「神様を侮辱された」在日モンゴル人が小学館に抗議 - 社会(日刊スポーツ)https://www.nikkansports.com/general/news/201802260000629.html
*3:コロコロ、複数の書店で販売停止 チンギス・ハン問題により(J-CASTニュース ライブドアニュース)http://news.livedoor.com/article/detail/14365965/