今、何をしていますか?~忘れてはいけないあの日のこと - 西原健太郎

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※この記事は2018年02月28日にBLOGOSで公開されたものです


平昌五輪の興奮もひと段落した今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか?開催前の盛り上がりは今ひとつでしたが、終ってみると日本は、冬季五輪史上過去最多のメダル獲得数で、気がつくと日本中がお祭り騒ぎになりましたね。しかし、このブームもしばらくしたら、次のブームによって忘れ去って行くのでしょう。熱し易く冷めやすい…日本人はそんなお国柄なのだとおもいます。

しかし、忘れてはいけない事があります。まもなくやってくる3月11日。7年前の3月11日に起こった東日本大震災と、そこで得た教訓を、我々は忘れてはいけません。というわけで、今回はちょっと真面目に、あの時私が体験したラジオの話を書いてみようかと思います。

震災後の「助け合いの精神」は7年経った今でも忘れない

2011年3月11日金曜日。その日私は、浜松町の放送局でレギュラーのラジオ番組を収録していました。午後2時46分。大きな揺れが放送局を襲いました。放送局は、大きな揺れでも倒壊しないように、ビル全体がゆっくり大きく揺れて、地震のエネルギーを吸収する仕組みになっています。

地震発生時、ビルの揺れは凄まじく、10分くらいは揺れ続けていました。ビルのゆっくりとした揺れを感じながら、局内の人々は少しずつ入ってくる情報から、各地の被害の深刻さを把握して行きました(被害状況についてはここでは割愛します)。レギュラー番組の収録はその時点でストップし、その日はそのまま解散となりました。

しかし、外は騒然としていました。電車はストップし、帰宅するにもできない人々が通りに溢れている状態。その日私は夜の10時から生放送があったので、すぐには帰らず局内で待機していたのですが、やがてその生放送もキャンセル。帰宅もままならないということで、その日は朝まで局内にいることにしました。

すると夜11時ごろから、帰宅困難者となった声優さんやタレントさんが、徐々に放送局に集まり始めました。そして局側は放送局内のホールを解放し、帰宅困難者に食事や飲み物を提供し始めました。放送局として災害情報を発信しながら、一方で帰宅困難者に手を差し伸べるという姿に、当時私は感動したのを覚えています。困った時はお互い様。共に助け合って行こうという精神は、7年経った今でも忘れはいけないことだと思います。

ラジオの存在意義をもっとも強く発揮できた瞬間

放送局の番組編成は、地上波の番組は地震発生後長くの間特別編成になっていました。しかし、私が主に出入りしているA&Gゾーンのインターネットチャンネル『超!A&G+』では、翌週月曜から通常編成に戻っていました。また、通常編成といっても、放送される番組には一定のガイドラインがありました。それは「極力地震のことには触れない」という事で、いたずらにリスナーの不安を煽らないようにする為、各番組が自主規制という形で番組を制作していました。

収録番組はそれでも問題なかったのですが、問題になったのが生放送の番組です。生放送は、パーソナリティのトークが文字通り生で伝わるので、地震を受けてパーソナリティがどんな言葉を発するのか…パーソナリティにとてつもない負担がのしかかります。

通常編成に戻っても、生放送をやるのかやらないのかの判断は、それぞれの番組に委ねられました。パーソナリティの負担を考え、生放送をキャンセルする番組、生放送をやってはみたが、途中でパーソナリティが泣き出してしまう番組…月曜日から生放送の現場は騒然・混沌としていました。

ラジオパーソナリティ「声優・豊崎愛生」

そんな中、木曜日がやってきました。木曜日は私が担当する、『豊崎愛生のおかえりらじお』の放送日。番組はこの時点で、始まってからまだ1年も経っていないという状況でした。月曜日からここまで壮絶な生放送が続いていた『超!A&G+』の番組の中で、果たして無事に生放送が終えられるのか…。周りは一様に不安を抱いていました。私も不安がなかったかというと、豊崎さんに当日会うまでは、正直不安でした。

でも、当日現場に現れた豊崎さんはとても落ち着いていました。ラジオパーソナリティとして、今何をやらなくてはならないのか…ちゃんと分かっている目をしていました。音楽を多めにかけたりして、なるべくパーソナリティの負担を減らすという演出も想定していましたが、豊崎さんのその目を見て、私は覚悟を決めました。「みんな不安でいっぱいだからこそ、普段通りの放送をしましょう」。

その日のメールテーマは「今、何していますか?」。送られてきたメールに一通一通目を通し、リスナーに語りかける豊崎さん。そのトークは、地震の事には一切触れず、普段通りにリスナーに寄り添うトークでした。

日常が壊されてしまったから今だからこそ、いつもそこにある、安心できる番組を…。あの日の生放送は、「おかえりらじお」という番組が、その存在意義をもっとも強く発揮できた瞬間でした。そして私は、あの瞬間に感じた事を、一生忘れてはいけないと思っています。

3月11日。今年もあの日がやって来ます。今、あなたはどこで、何をしていますか?ラジオ業界の片隅から、今年もあの時を思い出します。