伝説になった「十代の教祖」「時代の寵児」尾崎豊 - 渡邉裕二
※この記事は2017年04月22日にBLOGOSで公開されたものです
"十代の教祖""時代の寵児"と言われたシンガーソング・ライターの尾崎豊の急逝は一般紙まで大きく取り上げるなど社会現象になった。1992年4月25日のことだった。
早朝、東京・足立区の民家の軒先の隅に泥酔し全裸姿のままでうずくまっているところを発見され救急搬送されたのが始まりだった。警察から連絡を受けた繁美夫人も駆けつけたというが検査の結果、命には別状のないことが分かり、夫人に付き添われて一旦は自宅マンションに帰ったという。ところが、それから2時間経った時に突然に苦しみ出したため、再び救急車で文京区の日本医科大学病院に運ばれた。しかし、すでに尾崎さんの呼吸は停止していた。
「それでも懸命な治療がほどこされた」(音楽関係者)と言う。が、午後12時6分に死亡が確認された。
死因は肺に水がたまったための呼吸困難による衰弱死--肺水腫と診断された。
もちろん死因については疑問視する声もあった。
「アルコールと薬物によるショック死では…」。
しかし「薬物に関しては当然、警察も調べている。医師による診断書も出ている以上、単なる噂話でしかない」(芸能関係者)。
4月30日。降りしきる雨の中、文京区の護国寺で「告別式」がしめやかに営まれた。
会場内では尾崎のヒット曲「I LOVE YOU」が流された。雨は、いつの間にか涙雨に変わっていた。会場には全国から約4万人のファンが駆けつけ焼香をした。
尾崎は80年代が生んだスーパースターだった。
満たされなかった高校生活、そして大人社会への反発や心情を歌に託していた。彼の独特なスタイルは10代後半の世代から支持を得てカリスマ的な存在となった。
尾崎豊を見出したのは当時、CBS・ソニー常務取締役(現ソニーミュージック・エンタテインメント)だった稲垣博司である。
82年10月。青山学院高校在学中に"新人アーティストの登竜門"として知られていたCBS・ソニーの「SDオーディション」に参加した。尾崎はオリジナル曲で「ダンスホール」という作品を歌った。高校を中退してしまった女性を題材にした作品で「俺は彼女に何もしてやれない」というものだった。
ちなみに、このオーディションは、渡辺プロダクションのマネジャーからCBS・ソニーに引き抜かれて入社した稲垣が、渡辺プロ時代のスカウト・システムを導入したもので、「SD事業部」として同社をアーティスト発掘で業界トップに押し上げてきた。尾崎以外にもX(X JAPAN)、ユニコーン、村下孝蔵、松田聖子、大江千里、渡辺美里、聖飢魔II…など多くのアーティストを輩出してきた。
稲垣はSD事業部長を務め、その後、ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役副社長となり、その実力からワーナーミュージック・ジャパン会長やエイベックス・グループ・ホールディングスの特別顧問などを歴任した。
そういった多くの新人アーティストを見出してきた稲垣だっただけに、その目は的確だった。
「こいつはモノになる」
稲垣は尾崎を初めて見た瞬間、そう確信したという。
「彼の音楽は実に新鮮だった。爽やかなシンガー・ソングライターというのが第一印象だった」。
オーディションには辻仁成の"エコーズ"も参加していて評価が高かった。が、稲垣だけは、やや違っていた。稲垣は、尾崎のデビュー向けて早速、態勢を考えた。
「若手だったけど、浜田省吾の元でディレクターとして鍛えられていた須藤(晃)に制作を担当させ、マネジメントはコンサートなどのノウハウを持っていた福田(信)君にやらせた。尾崎はライブを中心とした活動で大きく育てたいと思っていたんです」。
福田は、稲垣からHOUND DOGを任されマザー・エンタープライズというプロダクションを立ち上げていた。尾崎のデモテープ「ダンスホール」は須藤から聴かされたという。
「詞が素晴らしかった。場面設定に長けているというか、十代で、こんな詞が書けるのかと驚いた」。
稲垣の意向から尾崎は福田と須藤の元で本格的な音楽活動をスタート。
83年12月1日。シングル「15の夜」とアルバム「17歳の地図」が発売した。
現実は「期待されてのデビュー」とは言えなかった。アルバムの初回出荷枚数は僅か1300枚。しかも「レコード店にも置いてなく倉庫に山積みにされていた」と福田は苦笑いする。
だが、福田は諦めなかった。
「尾崎には新しい価値観を持ったロックアーティストに育てたかった」。
その思いは稲垣も同じだった。
「当時、ウチの会社は設立されて10年以上が経っていたんだけど、いわゆる(世の中から)リスペクトされるようなアーティストがいなかった。もちろんアイドルを含め沢山の歌手が頑張ってくれて売上も利益もナンバーワンのレコード会社にはなっていたんですけどね、でも、何か足りない…。それは東芝EMIのユーミン(松任谷由実)やビクターのサザンオールスターズのようなアーティストが、ウチにはいなかったんです。それが悔しくてね…、何とかしたいと思い続けていた。それも自前の…。ユーミンやサザンは本当に時代を超えたアーティストでしたからね、そう思っていた時に現れたのが尾崎だったんです。この男だったら、ユーミンやサザンに次ぐ存在になるんじゃないかって」。
カンは見事に当たった。
「改めて思うのは、尾崎豊という男は、確かに詞の世界もあっただろうけど、ルックスとボーカルと言う部分も大きかった。ただ、今、改めて最大の成功は何だったかと問われたら、須藤晃というプロデューサーがいて、それにジャケットなどを手がけてきたデザイナーの田島照久、そして、彼の映像を撮り続けてきた佐藤輝。その全てがパーフェクトだったってことです。と言うより、尾崎という1人の天才が、彼らの才能を最大限に引っ張り出していった。その全てが掛け算になって現れたのだと思う」。
福田はそう振り返った。
そんな尾崎にも浮いた話もあった。
91年1月。雑誌の対談で知り合った女優の斉藤由貴との"不倫騒動"が起こった。
「頻繁にデートを重ねていた」(雑誌記者)
斎藤のデビュー曲は「卒業」だった。85年の発売当時、尾崎も同タイトルの作品を発売するという"偶然"もあったが…。
斎藤は尾崎との交際を問われ「同志の関係」と言う"名言"を残した。
お互い才能を認め合い、励まし合う間柄だったのかもしれない…。
そんな尾崎も亡くなってから間もなく25年の歳月が過ぎようとしている。
尾崎が眠る埼玉・所沢の狭山湖畔霊園、そしてモニュメントのある東京・渋谷駅近くの渋谷クロスタワー(当時は東邦生命ビル)。現在でも命日にはファンが全国津々浦々から集まり黙とうを捧げているという。
尾崎はリスペクトされると同時に「伝説」になった。