『漫画家、映画を語る』の素晴らしさ - 吉川圭三
※この記事は2015年06月01日にBLOGOSで公開されたものです
人生は短い。読む本や映画は限られる。したがって、映画や本に対して見る目のある、友人・知人が近くに居ることは僥倖である。ある日、映画研究家・編集者の岸川靖さんが私のオフィスに立ち寄ってくれた。岸川氏はアニメージュの頃から徳間書店に出入りし、ジブリ関係の書籍の編集に関係するほかSF・特撮・怪獣ものからシャーロック・ホームズ映画まで古今東西の漫画・小説・映画に詳しい博覧強記知識を持つ友人である。世界中の映画人とも米国のSF映画コンベンションなどで知り合い広いネットワークを持つ。その日、岸川氏が薦めてくれたのが「漫画家、映画を語る」(フィルムアート社)である。今までありそうでなかった本だ。読後、クリエーティヴ面で色々な示唆を与えてくれるユニークな本だった。活躍中の漫画家が「ビジュアル面で」「構図の面で」「レイアウトの面で」「企画の面で」「キャラクター作り」の面でいかに映画というものを研究し、インスピレーションを与えられているかが詳細に読みやすく書かれている。
松本零士(「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」)の冒頭の壮大な映画体験物語。
上條淳士氏(「TO-Y」「SEX」)は「真夜中のカウボーイ」「スケアクロウ」「イージーライダー」などのアメリカン・ニューシネマと後期の市川昆の「金田一シリーズ」の映像構成に絶大な影響を受け。
楠本まき氏(「KISSxxxx」「赤白つるばみ」)はタルコフスキーの「サクリファイス」やブニュエルやグリーナウェイの欧州芸術派映画に影響を受けつつも、「グラン・トリノ」のクリント・イーストウッドが本当は一番好きというあたりが面白い。
浅田弘幸氏(「I‘II」「テガミバチ」)は大林宣彦の「尾道三部作」「時をかける少女」に耽溺するも、小津安二郎の研究も怠らない。
五十嵐大介氏(「海獣の子供」「リトル・フォレスト」)はテレビドラマの「ムー一族」、スピルバーグ「E.T.」、ホラー「リング」、押井守作品、若手漫画家の登竜門の宮崎駿監督「風の谷のナウシカ」の絵コンテ集を研究し尽くす。
松本次郎氏(「フリージア」「女子攻兵」)は『人が一杯死ぬ映画』が好きでスピルバーグの「プライベート・ライアン」と岡本喜八監督の「日本で一番長い日」などだが、宮崎駿氏の「ナウシカ」絵コンテ集第三集の戦闘描写に衝撃を受けているが、「2001年宇宙の旅」と「ブレードランナー」などSFからスプラッター映画までと幅広い。
竹富健治氏(「鈴木先生」)はイタリアン・ホラーの名作「サスペリア2」を穴があく程見て分析して見せる。
山本美希氏(「ハウアーユウ?」)はカウボーイの同性愛物語「ブローバック・マウンテン」を筆頭にあげ、ジョン・カサヴェテスの「グロリア」の様な強い女を描きたいと言い、一方、森田芳光監督の「家族ゲーム」や相米慎二「お引っ越し」に影響を受ける。
諌山創氏(「進撃の巨人」)はとにかく『でかいものが好き』で「モスラ」の巨体「インデペンスデイ」の巨大宇宙船が好き、「新世紀エヴァンゲリオン」にも影響を受け、今も多忙な中、映画に入れ込み、近作のF1レース「ラッシュ/プライドと友情」映画にぶっ飛んだが、何といっても南アに突然巨大UFOが来る「第9地区」は近年の傑作だと語る。
「創作は記憶だ。」と言うくらいで個人的体験・読書体験・映画観賞体験・音楽体験等が自分が創作する時に生きてくると言うが、現代第一線の漫画家たちが、このような豊穣な映像的体験を持っているとは知らなかった。
この本を編集した島田一志氏は漫画編集者・ライターだがこの本の中盤にこんな文章を寄せている。漫画原作の映画について鋭く書いた一文である。
「『のだめカンタービレ』『NANA』『ALWAYS・三丁目の夕日』『宇宙兄弟』『ハチミツとクローバー』「テルマエ・ロマエ」・・・もちろんここ数年、漫画が原作の実写映画が何かと話題になっていることは知っていた。90年代以降そうした作品が徐々に増え始め、ゼロ年代に入ってからその数が爆発的に増加したことも。でも一つのシネコンで同時期にかかっているのが、ほとんどぜんぶ漫画原作の実写映画って、ちょっと異常じゃないか。」
島田氏の「漫画家が映画を凄く研究している」と言う本の中にこの文章が、突然出てくるのだが、漫画も映画も愛すると察せられる島田氏の指摘する通り、漫画の実写化で溢れる日本映画界は世界的に見てもどこか異常だ。島田氏はこう続けている。
「さて、現在ではヒット作・話題作となった漫画はたいてい実写映画として作られるようになっているが、そもそもなぜその種の作品が現在日本映画の主流になっているのか、考えてみたい。まずは多くの人が語っているように、映画不況のいま、ヒットしている原作物の企画のほうが通りやすいということがあるだろう。(中略)ただ、これは漫画だけでなく小説やノンフィクションのヒット作も含まれる。ではなぜそのなかでも特に漫画の実写化が多いのか。その答えは大塚英志をはじめとする何人かの評論家がすでに語っている様に、いまの日本の漫画のネームやコマ割りが、エイゼンシュテイン(ソビエト連邦で活躍した映画初期の世界的監督・映像理論家)のモンタージュ理論を踏まえて作られているからではないだろうか。つまり日本の漫画とは、少々乱暴な言い方をすれば「本の形に綴じられた絵コンテ」だといってもいい。」
なるほど漫画が絵コンテであるとすれば、映像化可能かどうか判断しやすいし、会議などで企画検討しやすいはずだ。島田氏のこの一文を読んで映画ファンである私は複雑な気持ちになった。それは「日本映画が類型化していないか?」ということだ。日本映画が次のような工程で作られているとしたらどうだろう。
「古今東西の映画・小説を研究している漫画家が原作漫画を書く」→「映画制作会社・テレビ局・映画会社が漫画を見て色々論議する」→「製作が決定し、腕の立つスタッフと集客の見込めるキャスティングで作品を制作する。」→「テレビなどマルチコンタクト手段で大規模宣伝で資金回収を目指す。」
これは、まるで、オートメーション工場の製造過程の様にも見える。
ただ、わたしは極論、この方法でも「素晴らしい映画」が見れれはよいと思う。でも漫画原作が横溢する映画界もちょっといびつだし、脚本家発、監督発、プロデューサー発の作品をもっと見てみたいと思う。・・・・そのためには前出の漫画家に匹敵する位、「古今東西の映画や小説」を脚本家・監督・プロデューサーが研究していなければならない。
乱暴だがもう一つこんなことも言えないだろうか?漫画原作映画が乱立すると 「大人の鑑賞に堪える映画」が減らないかということである。漫画雑誌はターゲットを主に青少年に置いている。すると、映画化された作品も青少年向けということになる。青少年向けでももちろん質の高いモノはある。だがそればかりだと、大人達が「最近映画館に行っていない。」と呟くことにならないか。
1999年秋のロンドン。夕暮れ時の週末。街を歩いていた時のことだ。ふと気付くとコートを着た洒落た紳士淑女が長い列を作っている。良く見るとそこは、映画劇場の前でスタンリー・キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」が公開中だった。裕福な夫婦のすれ違いとミステリアスな一夜を描いた映画だが、地元の人に聞くとヨーロッパでは、ロンドン・パリ・ミラノ・ベルリンで大ヒットているという。これは「純粋に大人の為の上質な映画」であった。
かつては、「大人の観賞に耐える作品を大人の世界をちょっと覗くため」映画館に中学生や高校生が押し掛けたものだった。小林信彦氏「かつて映画は一つの教養だった。」と言っていた。英国のレン・デイトン原作のスパイ小説の映画化「裏切りのサーカス」等小さな映画館で最終回で見るのも良いモノである。
頭を使わないと見れないし、ちょっとでも見逃すとストーリーを追えないし、演技はしぶいが派手ではないし・・・でもドッシリした観賞感が待っている。
日本映画ももっとバリエーションを持ってほしい。観客側からの意見だが。
冒頭の漫画家の話が何か日本映画に対する苦言の様になってしまいました。
でも日本の漫画家のクオリティが揃っているのは事実な様だ。(了)