努力という言葉に見る日本の落日 - 赤木智弘
※この記事は2015年05月03日にBLOGOSで公開されたものです
とある高学歴芸能人夫婦の奥さんの方が、「私達夫婦は、親の用意してきた道を歩んできたのではなく、学歴をつかみとってきたという誇りがある。努力の証明書として学歴がある」という発言をしたという。(*1)バラエティー番組のことなので、その芸能人があえて悪役を演じた可能性もあるが、その発言が本音であると仮定すれば、ハッキリ言って、現実を知らない傲慢な発言と言えよう。
学歴というのは、ほぼ親が子供にかけた教育費の額で決まってくる。親の年収と子供の学力には、ハッキリとした因果関係があることが分かっている。(*2)
また、環境要因も重要である。子供を勉強させるには、親が勉強している姿勢を見せれば、子供は自ずとマネをするようになる。また、一流大学や、そこに行くためのレベルの高い進学校が近くにあるような環境で生活をすると、周囲に合わせるように、子供が自ずと意識するようになってくる。
子供の学力は子供の意志に関係なく、子供の親が子供に対してしっかりと金を使い、勉強に没頭するような環境を用意できるかどうかで決まってくる。学歴というのは親が用意した道に他ならず、本人の努力すら親が用意したものなのである。
つまり、学歴を自慢していいのは子供までであり、大人にとっては単なる過去の栄光にすぎない。それを自慢したりひけらかしたりするのは、現在の自分には「何もない」と言っているようなものだ。
日本では「努力」という言葉は、極めて保守的に使われている。
それは努力という言葉が「努力をする」という、現在進行形や、未来へ向けた行為を指すのではなく「努力をした」という過去を指す言葉でしかないからだ。そしてそれは今現在豊かだったり幸せな人に対してのみ使われる。そんな現状肯定の言葉でしか無い。
つまり報われている人は「努力をした人」であり、報われていない人は「努力をしていない人、努力が足りない人」としてしか扱われない。「努力をしても報われない」となどという人は、日本社会では存在しないことにされてしまっている。これはちょっとしたディストピアだ。
本来「努力」という言葉は、成人が現状を変化させるための行為や思考を指すべき言葉であるはずだ。「努力」は過去ではなく、未来の理想を語るときに使われる言葉であるはずだ。
しかし、残念ながら今の日本社会では、本来の努力を口にすればルサンチマンと嘲り笑われ「お前のみすぼらしい現実を受け入れるためにこそ努力をしろ」などと言い返されてしまう。そしてそうした保守的な言論に多くの「いいね!」が付いてしまう。
「努力」が抑圧の言葉、他者を貶める言葉として使われる限り、日本の落日はまだまだ終わらないだろう。
*1:「学歴は努力の証明書」で福田萌が炎上 ネットは「安っぽい自慢」「親のおかげと気づけ」と批判(ニコニコニュース)
*2:親の年収多いほど高い学力 文科省、初の全国調査(朝日新聞デジタル)