「休日」を続けすぎた人の心身に起こる意外な変化を実体験から語ります(写真:zon/PIXTA)

日々通勤・通学をする人にとって「連休」はうれしいもの。ただそれは、会社や学校での複雑な人間関係や、せわしない日常があるからこそ、次の休日が待ち遠しく、休日が何日でも続けばいいのに、と思うのかもしれません。

会社員であればGWの10日程度、学生ならば夏休みの40日程度が「連休」の相場。ところが、『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』の著者・上田啓太氏は、結果的に6年間、驚異の2000連休以上を過ごしました。

あまりに長い連休の間に、人間の感情や身体はどのように変化していくのか。想像を超える衝撃の展開が話題の同書より一部抜粋、再構成して4回連載でお届けします。第1回は1〜300連休の間に起きた心身の変化について生々しく綴ります。至福の日々は束の間、やがて不安に襲われはじめて……!?

仕事のない解放感を味わう

仕事を辞めた。素晴らしい解放感に包まれている。翌日の予定を考える必要がない。二度寝したければ二度寝する。夜更かししたければ夜更かしする。決まった時間に無理をして起きる必要がない。これこそが人間のあるべき姿だと感じる。

だいたい、アラームというものが昔から嫌いだった。何がピピピだ。無機質な音で偉そうに人間に指図してくる。小鳥の鳴き声で自然に目覚める。太陽の日ざしでふと目を覚ます。それこそが人間の理想的な日常なのだ。

今日は昼間からビールを飲んだ。こんなことまで、できてしまうのだ。太陽が出ているうちに酒を飲む。少しの罪悪感をおつまみにして、宴のような毎日を続けている。

これまではチェーン系のカフェで働いていた。週五日、電車に乗って通勤していた。そしてレジを打つ。ドリンクを作る。笑顔で人々に対応する。客に呼ばれれば駆けつける。思えば頑張っていたものだ。今は何もない。眠い目をこすって出勤する必要もなく、客に愛想笑いをする必要もなく、同僚と無理に話題を合わせる必要もなく、自由だけが用意されている。わずらわしい人間関係は消え去った。これを人はユートピアと言う。

だらだらと日々を過ごす

連休が続いている。すでに二ヶ月ほど過ぎている。とくに行動は変化していない。昼間からマンガを読み、音楽を聴き、ネットを見ている。好き放題やっている。はじめの興奮は薄れた。惰性の要素が大きくなってきた。予定がないことはもはや日常だ。まあ、予想できたことではある。自由とは退屈の別名でもあるのだし、大したことではないだろう。

生活リズムは乱れに乱れている。自分が何時に起きているのか、何時に寝ているのか、まったく分からない。アラームを設定するという発想は消えた。アラームに悪態を吐いていた意味も今ではよく分からない。小さな機械にすぎないじゃないか。

曜日感覚は消滅した。日付の感覚も薄れた。家からほとんど出ていない。ひきこもりだと言われても否定できない。食事の時間もむちゃくちゃだ。昼飯なのか、夕飯なのか、名のはっきりしない飯を食べている。

この生活になって、ネットを見る時間はますます増えた。油断するとネットを見て一日が終わる。逆に言えば、ネットがあるから膨大な暇を潰せているのかもしれない。日常的に無数のコンテンツが流れてくる。色々な人が色々なことを言っている。たくさんの揉め事も起きている。それを見ているとよく分からないうちに何時間も過ぎている。自分が何を見ていたのか、自分でもよく分からない。分からないままに一日が終わる。

インターネットに出会ったのは高校一年の夏だった。パソコンを買ってもらい、はじめてネットに接続した日のことをよく覚えている。すでに十年近くが過ぎている。ネットの恩恵を最大限に受けて生きてきた。高校生の頃にホームページを作ったことも大きかった。

日常的に文章を書いて公開する。徐々に読む人もあらわれた。ネット上の人間関係が生まれ、ネット上の人格とでも言うべきものも生じた。だからこそネットが生活に食い込んだとも言える。テクノロジーの変化にともない、ホームページはブログとなった。それでも変わらず書き続けた。ネットが日常にあることは当たり前になっている。脳がネット空間にワイアードされている感覚は明確にある。

この小部屋とパソコンさえあれば、延々と暇は潰せるんじゃないだろうか。ほとんど人と会わない今の暮らしは、とりあえず嫌いではない。

将来への不安を感じはじめる

連休が続いている。すでに四ヶ月ほど働いていない。さすがに不安を感じはじめた。

まったく社会と関わっていない。通勤先がない。通学先もない。何の労働もしていない。毎日ひたすら家にいる。コンビニやスーパーには行くが、それだけだ。アルコールは現実逃避の意味合いを持ちはじめている。昼間から酒を飲んでいても、心の底から快活に笑えない。これまでの人生は何だったんだろう。今後の人生はどうなるんだろう。過去と未来のはさみうちにあっている。

もちろん連休は過去に体験済みだ。学生の頃は週末の休みがうれしかった。ゴールデンウィークによろこんだし、夏休みや冬休みには大よろこびだ。しかし、これだけ何の予定もない生活はさすがにはじめてだ。学生時代の連休がうれしかったのは、そこに終わりがあったからなのか。

強いて言えば、大学時代はそれほど授業に出ておらず、現在の生活に似ていたが、それでもテスト期間は気合いを入れたし、週二日ほどバイトもしていた。何より当時の自分には大学生という身分があり、その先に人生の道が続いていることが前提だった。今はちがう。何の道すじもない。今後どうなるのか、まったく分からない。

さすがに仕事をはじめなくてはいけない。バイトを探すべきだ。やる気が起きない。仕事を探すことが異様におっくうになっている。数ヶ月前までは毎日のように職場に行って人に会っていた。信じられない。当時の自分を超人のように感じる。本当に自分は週五で働いていたのか?

少ない貯金は徐々に削られていく。

どうも知らない人間に会うことのハードルが上がっている。四ヶ月ほど同居人・杉松としか会話していないからだろうか。人付き合いの感覚を忘れはじめた。ネットばかり見ている悪影響もありそうだ。ネットの揉め事を夜どおし意味もなく眺める。鬱々として人間のことが嫌いになってくる。余計に一人で部屋にいたくなる。

少し怠惰になりすぎていたかもしれない。

今日、久しぶりに一時間ほど歩いた。汗だくになって気持ちがよかった。自分に身体があることを思い出した気がした。

日常に運動習慣を組み込んだほうがいいかもしれない。深刻な運動不足になっていた。現在の生活ではコンビニやスーパーに行くだけで生活が完結してしまう。運動は大事だ。汗だくで実感した。この爽快感を忘れていた。どうも自分は運動が不足しやすい。マンガ、音楽、ゲームにパソコン。行動パターンは室内でできることに極端に偏っている。これはよくない。自分のような人間に勤務先がなくなると、ここまで外に出なくなり、ここまで運動をしなくなるものなのか。

カフェの仕事は生活費を稼ぐことが目的だった。しかし運動不足の解消にもなっていたのだ。トレイを持って店内を歩き回る。厨房でサンドイッチを作る。客が来るたびに大きな声で「いらっしゃいませ」と言う。ハードな肉体労働とはとても言えなかったが、あれもまた運動だったのだ。トレイは軽量のダンベルだ。あいさつは喉の筋トレだ。そんなことを言われれば当時の自分はギャグだと思っただろうが、今は実感をこめて真顔で言える。運動不足の人間には、カフェの仕事さえ筋トレになるのだ。今日から毎日運動しよう。

昔を思い出して鬱になる

物置に住みついて十ヶ月が過ぎた。連休が続いているのだろうか。よく分からない。

とりあえず意識はぼんやりとしたままだ。鬱々としている。 

結局、運動もしていない。決意は数日で途絶えた。だいたいが夕方に起きて早朝に眠ることも多く運動をする気分にもなってこない。

最近、やたらと昔のことを思い出す。過去のさまざまな記憶の断片が脈絡なく飛び出してくる。そのたびに感情が揺れ動く。日常から刺激が消えたからだろうか。脳が無理やりに刺激を作り出そうとしているのだろうか。どうでもいいことを次々と思い出す。

思い出したくない。過去なんてどれも終わったことだ。現在には存在していない。思い出す必要がない。しかし記憶は噴出する。大量の疑問も噴出する。

これまでの自分の人生は何だったのか? 自分は何のために生きていたのか? 自分に夢や目標はあったのか? それは本当に自分の夢だったのか? 自分は今後どうすればいいのか?


人生についてまじめに考えてこなかったことのツケが、まとめて回ってきている。今後どうすればいいのか分からない。世界のマニュアルが欲しい。

自分には、意志というものが欠けている気がする。

自分の中に、強い拒絶の感覚がある。世間を拒絶しているのか、人間を拒絶しているのか、この世界自体が嫌なのか。そのあたりが自分でも分からない。世間の価値観を拒絶しているならば、それに反抗し、自分の信じる価値観を強く主張することもできそうな気がする。そうした方向にも進まない。世間に反抗するほどの強固な自我もない。

思えば、何の芯もない人生だった。

私は、今の自分をなんとかしたいと思う。しかし、どうすればいいのかが分からない。

第2回:「2000連休を過ごした男に見えた生活リズムの真実」(5月5日配信)に続く

(上田 啓太 : ライター)