Jリーガーも!「ソビエト連邦、伝説の選手」10名

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かつて存在したソビエト連邦。多くの地域がかつてはともに同じユニフォームを着て代表チームを形成していた。

今回はそのソビエト連邦の歴史から「最も伝説的なレジェンドプレーヤー10名」をお送りする。

レフ・ヤシン

クラブ:ディナモ・モスクワ

出身地:モスクワ(現ロシア)

パット・ジェニングス、ディノ・ゾフ、ジャンルイージ・ブッフォンらと共に、歴史上最高のゴールキーパーとして評価されるレフ・ヤシン。その名前はFIFAの年間最優秀GK賞にも残されている。

1950年代から70年代初頭にかけて、彼は4回のワールドカップでプレーし、キャリアのなかで150以上のペナルティキックを止めた。真っ黒のユニフォームと手足の長さから「黒蜘蛛」という愛称もつけられていた。

またサッカーの傍らでディナモ・モスクワのアイスホッケー部門でもキーパーを務め、ソビエトリーグで5回の優勝を遂げている。まさに最強の守護神であった。

オレグ・ブロヒン

クラブ:ディナモ・キエフなど

出身地:キエフ(現ウクライナ)

ソビエト連邦の代表選手として112capを獲得したブロヒン。簡単に言えば、彼はもっとも多くのキャップを手にし、最も多くのゴールを決めた選手だ。そして彼は現在ウクライナの首都であるキエフの出身だった。

600試合を越えるキャリアの中で250ゴールを決めた彼は「ウクライナの矢」と呼ばれ、1975年にはバロンドールも獲得。ディナモ・キエフではソビエトリーグで8回の優勝を果たすなど、まさに時代を彩ったストライカーだった。

引退後は指導者に転身し、ギリシャリーグのさまざまなクラブを率いたあとにウクライナ代表、FKモスクワ、ディナモ・キエフを指揮している。

リナト・ダサエフ

クラブ:スパルタク・モスクワ、セビージャなど

出身地:アストラハン(現ロシア)

ソビエト連邦の伝説的な守護神はレフ・ヤシンだけではない。かつて世界最優秀ゴールキーパーにも選ばれたことがあるリナト・ダサエフだ。1979年から1991年まで、ソビエト連邦崩壊までの間に代表を支えた大黒柱だ。

1988年のEUROでは準優勝に貢献。1982年、1986年、1990年とワールドカップにも3大会出場し、91capを獲得した。ソビエト連邦の歴史の中ではブロヒンに継ぐ2位の記録となっている。

ヴァレンティン・イワノフ

クラブ:トルペド・モスクワ

出身地:モスクワ(現ロシア)

ソビエト連邦史上最高の選手になる可能性があった伝説的なストライカー。1960年の欧州選手権、1962年のワールドカップの両大会に出場し、どちらにおいても得点王に輝いたという選手だ。

トルペド・モスクワでそのキャリアの全てを過ごした彼は、ソビエト連邦代表として59試合に出場して26ゴール。オレグ・ブロヒン、オレグ・プロタソフに継ぐ3位の記録を残している。

なお、息子のヴァレンティン(同名)はサッカー選手して活動したのちに審判へと転身し、国際主審として2006年のワールドカップを裁いている。

アナトリー・デミアネンコ

クラブ:ドニプロ、ディナモ・キエフなど

出身地:ドニエプロペトロフスク(現ウクライナ)

左サイドであれば守備的なポジションも攻撃的なポジションもこなすことができたデミアネンコ。現在は親露派に支配されているウクライナ・ドンバス地方のドニプロで生まれ、ディナモ・キエフで長く活躍した。

1982年、1986年、1990年とワールドカップは3大会出場。さらにEURO1988では準優勝に貢献。80capを獲得しており、ソビエト連邦の歴史上4番目に出場数が多い選手である。

引退後は指導者として活動しており、古巣ディナモ・キエフでコーチと監督を長く務めていた。息子はデスナ・チェルニヒウのFWデニス・デミアネンコ。

ウラジーミル・ベスソノフ

クラブ:ディナモ・キエフ、マッカビ・ハイファ

出身地:ハルキウ(現ウクライナ)

デミアネンコとならび、ソビエト連邦時代の伝説的なサイドバックとして知られているベスソノフ。奇しくも彼も現在はウクライナの東部地域となるハルキウで生まれ、ディナモ・キエフの主力選手として活躍した。

ワールドカップ3大会に出場し、EURO1988では準優勝。さらに1980年のオリンピックでは銅メダルを獲得し、1989年にはウクライナの新聞による最優秀選手賞にも選ばれている。

なお、妻のヴィクトリア・セルキフは新体操の世界王者で、娘のアンナ・ベスソノフも2004、2008年のオリンピックの新体操銅メダリストである。先日は銃を構えて家を守っている写真が娘によって投稿され、SNSで話題になった。

セルゲイ・アレイニコフ

クラブ:ディナモ・ミンスク、ユヴェントス、ガンバ大阪など

出身地:ミンスク(現ベラルーシ)

現在のベラルーシ首都にあたるミンスクで生まれ、守備的MFとして活躍したセルゲイ・アレイニコフ。ソビエト連邦代表として73試合に出場し、184年から1991年まで6ゴールを記録した。

さらに1992年には独立国家共同体(CIS)としても出場し、それ以降はベラルーシ代表としてもプレー。3つの代表ユニフォームを着て戦った珍しい選手になった。1993年には来日し、ガンバ大阪で3シーズンを過ごしている。

アルベルト・シェルテルニョフ

クラブ:CSKAモスクワ

出身地:モスクワ(現ロシア)

ソビエト連邦の歴史上で最も優れたディフェンダーとして知られているシェルテルニョフは、キャプテンとして長くチームを支えたレジェンドだ。試合数が今よりも少ない時代に90capを獲得しており、歴史上3番目の出場数を記録した。

3回のワールドカップと1回の欧州選手権にも出場。CSKAモスクワにキャリアの全てを捧げ、引退後も同クラブで指導者を務めた。ただアルコール中毒とうつ病によって健康を崩してしまい、1994年に53歳という若さで肝硬変のため命を落としている。

エドゥアルド・ストレルツォフ

クラブ:トルペド・モスクワ

出身地:モスクワ(現ロシア)

「ロシアのペレ」と呼ばれたストレルツォフは、ソビエト連邦が生み出した中で最も才能豊かなアーティストであった。16歳でプロデビューを果たし、1957年には20歳でバロンドール候補にもなった。バックヒールを得意としたテクニシャンだったという。

しかし1958年のワールドカップ前に女性をレイプしたとして告発され、12年の懲役刑を言い渡される。5年後に釈放されたあとはプロでのプレーが禁止されたために工場で働きながらアマチュアでサッカーを続け、その姿から彼を許すよう署名活動が行われたという。

その結果28歳でトルペド・モスクワへの復帰が認められ、再び代表選手として返り咲いた。ソビエト連邦でのプレーは38試合で25ゴールという成績である。

オレグ・プロタソフ

クラブ:ドニプロ、ディナモ・キエフ、オリンピアコス、ガンバ大阪など

出身地:ドニエプロペトロフスク(現ウクライナ)

ソビエト連邦の歴史上、彼よりもゴールを決めた選手はオレグ・ブロヒンしかいない。ウクライナの東部地区にあるドニエプロペトロフスクで生まれた彼は68試合に出場して29ゴール。2回のワールドカップに出場した。また、1994年にはウクライナの代表選手としても1試合だけプレーしている。

1984年には欧州ゴールデンブーツのランキングで2位になり、1987年にはソビエト連邦の年間最優秀選手になっている。1994年にはアレイニコフが所属していたガンバ大阪に加入し、Jリーグでも2年間プレーしていた。

引退後は指導者として活動し、古巣のオリンピアコスやドニプロの他、ディナモ・ミンスクやアストラ・ジュルジュなどさまざまなクラブを指揮している。