刀を差すのは禁止!明治時代の「廃刀令」は効力を失わず、実は昭和時代まで続いていた
武士と聞いたら何を連想しますか?と聞けば、大抵の方が
「Oh,Japanase SAMURAI!BUSHIDO!HARAKIRI!KATANA(刀)!」
などと答えるかはともかく、武士にとって、刀は切っても切れないアイデンティティと言えるでしょう。
しかし明治維新がなって武士の世が終わりを告げると、次第に刀を廃止する廃刀議論が起こり、やがて「廃刀令(はいとうれい)」が発せられます。
当初はアイデンティティを奪われることに反発も起こったものの、巨頭・西郷隆盛(さいごう たかもり)が西南戦争に斃れた明治10年(1877年)以降は武力改革を唱える者も次第に減り、政治闘争の武器は刀から言論(自由民権運動)へ移行していくのでした。
しかし、誰も刀を差さなくなっても廃刀令そのものは効力を失わず、昭和時代まで続いていたと言うのです。
そこで今回は、廃刀が議論されてから完全に廃止されるまでの歴史を紹介したいと思います。
いきなり刀を取り上げるのは……
廃刀議論が起こったのは、戊辰戦争も終盤にさしかかった明治2年(1869年)。旧幕府勢力はわずかに抵抗を続けるのみで、降伏も時間の問題となっていた時期でした。
「もはや刀で戦う時代は終わった。かくなる上は一刻も早く帯刀の蛮風(ばんふう。野蛮な風習)を除かねば近代国家とは言えず、欧米列強に恥ずかしい」
森有礼。Wikipediaより
提唱したのは森有礼(もり ありのり)。急進的な西洋主義者として知られた森は、例えば「日本語を廃止して英語を公用語にするべき」など、日本文化を否定したために反感を買います。
今回の廃刀提議も「刀は武士の魂であり、むやみに奪ってはその精神が削がれ、今後西欧列強と渡り合っていけまい」などと反対意見が多かったため否決。いったんお預けとなりました。
……とは言うものの、ついに旧幕府勢力も降伏して国内に敵がいなくなると、政府当局としては「刀を帯びてウロウロしているのは、やはり治安維持の観点から好ましくない」と方針を転換。
とは言っても、いきなり刀を取り上げてしまっては反発も大きいでしょうから、まずは明治4年(1871年)8月9日、あえて「刀を差さなくてもいいよ」という法令を出します。
これがいわゆる脱刀令(だっとうれい。散髪脱刀令)、正式名称を「散髪制服略服脱刀随意ニ任セ礼服ノ節ハ帯刀セシム(太政官第399号)」と言います。
岩倉具視の散髪前(左)と散髪後。Wikipediaより
要するに「髪型を自由にして(髷を結わなくて≒散切りにしちゃっても)いいよ、刀も普段は差さなくていいよ、でも礼装の時だけはキチンと差してね」という内容で、あえて選択肢を示すことで、そっちを選びたい者たちを誘導したのでした。
確かに、刀って差しているとカッコいいのですが、いかんせん腰が重たいので嫌がる手合いや、どうせ抜くことなんてないのだから、とばかり見た目だけそれらしくした軽い竹光(たけみつ。模造刀)などで済ませていた者も少なくなかったようです。
ついに廃刀令を布告!士族らは反発するも……
「よしよし、脱刀令は順調に普及しているようだな……」
明治政府は明治9年(1876年)3月28日、いよいよ「原則的に、刀を差すのは禁止!」という廃刀令の布告に踏み切ったのでした。
この布告は題名がないため、便宜上「大礼服並軍人警察官吏等制服着用の外帯刀禁止の件(太政官第38号)」と呼ばれます。
山県有朋。Wikipediaより
「近代的な軍隊が創設され、全国あまねく警察制度が整備されたため、個人単位の護身は不要である。いつまでも武士気取りで刀なんて差していると気持ちも殺伐としてしまうため、今後は原則として帯刀を禁止すべし(大意)」
山県有朋(やまがた ありとも)の建議によって発せられた布告は「大礼服(最上級の礼服)を着用する時や、軍人や警察が職務に臨む時を除き、刀を差すことを禁じる」もので、脇差すらも認められませんでした。
「「「ふざけるな!」」」
士族たちはもちろんのこと、旅の護身や冠婚葬祭などの正装として脇差を差す習慣のあった庶民も廃刀令に反発。まだ時期尚早だったか?……と思った政府当局は、こんな抜け道を用意します。
「いや、あくまで禁じているのは帯刀であって、所持(持ち歩くこと)や所有(自分の財産として家などに置いておくこと)まで禁じてはおらぬ……」
つまり「腰に差すのはダメだけど、手に持ち歩いたり肩に担いだりするのはOK」ということで、それじゃ意味がないのでは?と思ってしまいますが、とにかく武士っぽくない状態を定着させられれば、その内みんな面倒になって持たなくなると読んだのでしょう。
そんな当局の読みは確かに当たり、最初の内は抗議の意味でやたらと刀を持ち歩く者が多かったそうですが、抜く訳でもなく片手がふさがってしまう刀は文字通り「無用の長物」であり、次第に廃れていったのでした。
エピローグ
そして巨星・西郷隆盛が西南戦争に斃れると、不平士族の闘争は自由民権運動へと姿を変え、その武器も刀から言論へと代わっていきます。
西郷隆盛の最期。月岡芳年「西郷隆盛切腹図」
明治時代も半ばに差しかかるころには刀を持ち歩く者などすっかり姿を消したものの、廃刀令そのものはまだ生きていました。
廃刀令に限らず、行政の発した法令や布告というものは、一度出たらきちんと「廃止する」と言わない(その旨の法令や布告を出さない)限りずっと有効なのです。
やがて明治・大正時代を過ぎて昭和に入り、大東亜戦争(太平洋戦争)に敗れた翌昭和21年(1946年)6月3日、占領軍は日本人の武装抵抗を阻止するため政府に「鉄砲等所持禁止令(勅令第300号)」を出させます。
これによって一般人が武器を所持することを禁じられたわけですが、言い換えるとそれまでは、刀を手に持って街を歩くことは法的にはOKだったことになります(明らかに不審なので。職務質問は受けそうですが)。
しかし実効性を失っても廃刀令はしばらくそのままにされ、昭和29年(1954年)7月1日に出された「内閣及び総理府関係法令の整理の関する法律(法律第203号)」によって、廃刀令は正式に廃止されたのでした。
終わりに
以上、廃刀令にまつわる歴史を紹介してきましたが、日本人は刀を廃したと言うより、闘争の武器を刀から言論へとレベルアップさせた「卒刀」とも言えるのではないでしょうか。
刀は心に差すべし(イメージ)
日本に武士はいなくなってもその精神は武士道として受け継がれ、刀は差さなくなっても天下に道義を訴える言論は、白刃以上に鋭くあることが求められ続けています。
※参考文献:
野口武彦『幕末明治 不平士族ものがたり』草思社、2013年6月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 第二部 愛国志士、決起ス』小学館、2015年12月