ウクライナ、最も偉大で有名な8名の選手たち
EURO2020の準々決勝でイングランドと対戦することになったウクライナ。絶対的なタレントはいないものの、なんとかここまで勝ち上がってきた。
今回はそのウクライナの歴史上で最もよく知られているという8名の選手を『thefamouspeople』から取り上げてみた。
オレグ・ブロヒン
元祖「ウクライナの矢」と言われた伝説的ストライカー。母親は100m走競技のソビエト連邦記録保持者であり、生まれながらのスピードを武器に得点を量産した。
ソビエトリーグ時代のディナモ・キエフで長く活躍し、4年連続の得点に輝くなど別格の存在だった。1975年にはバロンドールを獲得しており、欧州でも屈指の点取り屋として評価されている。引退後は国会議員やウクライナ代表監督を務め、古巣ディナモ・キエフも指揮した。
アンドリー・ヴォロニン
リヴァプールでもプレーしたことで知られている献身的ストライカーだ。10代の間にボルシア・メンヒェングラートバッハへと移籍し、ドイツ・ブンデスリーガで台頭した。トップに昇格後マインツ05、ケルン、そしてレヴァークーゼンと渡り歩き、評価を高めていった。
ウクライナ代表では2002年のルーマニア戦でデビュー。当時はシェフチェンコ&レブロフの2トップに入り込めなかったが、その後中盤も前線もこなせる器用さを武器に出場を重ね、75試合に出場した。
セルゲイ・レブロフ
シャフタール・ドネツクでデビューしてすぐにゴールを量産し、その後ディナモ・キエフへとステップを進めたレブロフ。そこでアンドリー・シェフチェンコとの黄金コンビで欧州屈指のカウンターシステムを作り上げた。
その後移籍したイングランドのトッテナムではあまり活躍できなかったものの、長くウクライナ代表のストライカーとして盟友シェフチェンコとともに起用され、75試合で15ゴールを決めた。
アンドリー・ヤルモレンコ
まだ31歳の現役選手であるが、もちろんヤルモレンコの実績はこれまでのウクライナ人選手のトップ10に入るものだ。ディナモ・キエフで長く活躍し、代表でも中心的な存在になった。
2017-18シーズンにボルシア・ドルトムントへと移籍してからはなかなかクラブレベルでのインパクトがないものの、ウクライナ代表では依然として見事なプレーを見せている。まさに「点が取れるウイング」のプロトタイプで、代表98試合42ゴールを記録している。
ドミトロ・チグリンスキー
バルセロナで失敗したことばかりが取り沙汰されるチグリンスキー。ただもちろんそれだけで語られるにはもったいないほどの選手である。シャフタール・ドネツクの最終ラインで台頭した時、そのタレント性は非常に高く評価された。
ただ残念ながら怪我に悩まされた選手でもあり、ウクライナ代表でも出場数は29試合のみ。もし彼が継続的にプレーできるフィジカルがあれば、バルセロナでも成功を収められたかもしれない。
アナトリー・ティモシュク
ウクライナの歴史上最も偉大な司令塔だ。1998年から所属したシャフタール・ドネツクで大ブレイクし、その後ロシアの強豪ゼニト・サンクトペテルブルクへと移籍。さらにそこからバイエルン・ミュンヘンに引き抜かれるなど、一時は世界トップレベルの選手として評価された。
ウクライナ代表での出場数は、2000年から2016年の長いキャリアでなんと144試合に達した。これは同国の歴史上最も多い記録である。
イェフゲン・コノプリャンカ
ヤルモレンコとともに31歳を迎えたコノプリャンカ。現在のウクライナ代表のアタッカーといえばこの二人しか思いつかないサッカーファンも多いかもしれない。それほどの実績を持っている選手である。
ドニプロの下部組織からプロに昇格し、2015年までレギュラーとしてプレー。それからセビージャとシャルケ04でプレーし、2019年には帰国してシャフタール・ドネツクに所属した。ウクライナ代表では85試合21ゴールを記録している。
アンドリー・シェフチェンコ
もちろん「二代目ウクライナの矢」シェフチェンコが入らないわけがない。同国の歴史上最も偉大な選手であるだけでなく、セリエAの歴史上でも、サッカーの歴史上でも、屈指のストライカーとして語り継がれる存在である。
ディナモ・キエフでレブロフとともに強烈な攻撃コンビを構築してブレイクすると、その後ACミランへと移籍。黄金期のイタリアでゴールを量産し、2004年にはバロンドールに輝くなどキャリアの頂点を極めた。ウクライナ代表での記録は111試合48ゴール。