2011年の春、22歳だった斎藤佑樹はルーキーとして日本中の注目を集めていた。東日本大震災が起こって延期された開幕──3月27日の札幌ドームで、斎藤はプロ2度目の先発マウンドに上がった。と言っても、マリーンズとの実戦形式の合同練習だ。予定どおりならこの日は開幕3試合目のゲームが行なわれているはずだった。しかし、観客は誰もいない。コロナ禍の今となっては想像がつく光景ではあるが、当時としては異例の無観客試合──パーンとドームの屋根に響き渡る、心地よいミットの音が今でも耳に残っている。

 あれから10年の時が流れた。


右ヒジの靱帯断裂から再起を目指す日本ハム・斎藤佑樹

 2021年、ファイターズの開幕戦が仙台で行なわれた3月26日、32歳の斎藤は鎌ケ谷にいた。この日、2軍はジャイアンツ球場でイースタン・リーグの試合があって、鎌ケ谷にいたのは残留組の10人ほどの選手たち。ほとんどが試合に投げる予定のないピッチャーで、吉田輝星が来たるべき1軍登板の予定に備えて軽い調整を行なっていた。

 ほかにルーキーの五十幡亮汰、今川優馬、細川凌平の3人がゲームを外れて強化練習に励んでいる。リハビリ組はといえば、昨年8月、トミー・ジョン手術を受けた石川直也が我慢の時を過ごしていて、その中にリハビリの真っ最中の斎藤佑樹も......と思いきや、斎藤はそこにいなかった。

 立野和明とのキャッチボールを終えると、斎藤はブルペンへ向かう。そうか、2月半ばにキャンプで観た、あの負荷を抑え気味にしたピッチングをするのか......と思いきや、とんでもなかった。

 ブルペンの斎藤は真っすぐ、シュート、カットボール、スライダー、フォークボール......あらゆる球種を、力を込めて投げ込んでいるではないか。斎藤の右ヒジの靱帯は断裂していたはずなのに、かなりの強度で投げている。何かを試しているのか、時折シャドウ・ピッチングを合間に挟みながらの力投が続いた。そして投げ終えた斎藤は、こう言った。

「もう、ヒジの痛みはありません。キャンプを終えてこちら(鎌ケ谷)に戻ってきてから、すべての球種を投げています。今はヒジのことよりもむしろ、肩に負担をかけないような使い方を試しているんです。自分では力感みたいなものを感じられないフォームなんですけど、ラプソード(レーダーとカメラを組み合わせてデータを収集、分析する測定器)で測定するといい数字が出ているんですよね」

 たしかにブルペンでのピッチングを見ていると、力感なくスムーズなフォームからキレのあるボールを投げている。まだ130キロ台ではあるが、靱帯断裂の診断を受けてから半年でここまでのボールを投げられるのなら、回復は順調だと言っていい。

「違和感って言葉、不思議ですよね。結果的に何もなかったらそれは違和感じゃなくなるのに、ケガをしていたことがわかると、あとから『ああ、そういえば、違和感がありました』ってことになる。そうやって考えると、違和感は去年のキャンプが終わった頃にはありました。ヒジの張りが強かったし、その張りが抜けづらい感覚もありました。その時は歳のせいかな、と思っていたんですけど(苦笑)」

 思えば斎藤が「指にかかっているはずなのに思うようなボールがいかない」とこぼしていたことがあった。あれは昨年の夏のことだ。何度か検査をしても、異常は見つからなかったのだが、おそらくその時、すでに右ヒジの靱帯は切れかかっていたか断裂していたのだろう。靭帯の損傷、断裂はそれほど診断が難しいのだ。

 そして、決定的だったのは昨年の10月16日に斎藤を襲った"痛み"だった。

 ジャイアンツ球場で行なわれたイースタン・リーグの試合でリリーフの準備をしていた斎藤は、ブルペンで異変を感じる。

 右ヒジが痛い──。

 それまではヒジが張る、張りが抜けない、という感覚だった。しかしこの日は、ハッキリとした痛みを自覚させられたのだ。斎藤が振り返る。

「試合前のブルペンって、いつもは30球ぐらい投げれば暖まってきたなという感じになるのに、あの日はなかなかその感じにならなかった。結局、70球ぐらい投げたんです。それでもヒジが暖まらないままの感覚で試合に臨みました。チェンジアップに頼ればゴロを打たせられるし、それで何とかしなくちゃと思っていました」

 ヒジが痛むのに、マウンドでどうすればしのげるか、ということばかりを考えていたという斎藤は、それでも投げないほうがいいという感覚にはならなかった。あらためて、それはなぜなのかと訊くと「なぜなんでしょうね、何とかなると思ったんでしょう」と笑う。

 ヒジに張りがあっても、思い描くボールが投げられなくても、引き出しを開ければ何とかできると思ってしまう。良きにつけ悪しきにつけ、何事もポジティブに考える斎藤らしい発想ではある。もちろん年齢や立場から結果を求められている斎藤が、あの時期に「痛い」などと言い出しにくい状況にあったことも想像に難くない。

 斎藤がジャイアンツ球場のマウンドへ上がったのは6回裏だった。やはりボールがとんでもないところへ抜けたり、ワンバウンドしたりとこの日の斎藤のピッチングは荒れに荒れた。

 先頭の八百板卓丸に初球、いきなりスライダーがワンバウンド。3球目のストレートをライトへ弾き返され、これがフェンス直撃のスリーベースヒットになる。続く加藤脩平にチェンジアップを続けるも、結局は甘いストレートをライト前へタイムリーを許して、1失点。イスラエル・モタにレフト線へツーベース、湯浅大にデッドボールを与えて満塁とされ、ワンアウトから戸根千明に犠牲フライ、陽岱鋼にレフトフェンスを直撃されてさらに2点を失う。

 戸根にも陽にも、フォークを叩きつけたワンバウンドのボールがあった。斎藤はこの回を投げ切ることなく、交代を告げられる。まさに悪夢の20球だった。

「誰に投げたとか、まったく覚えていないんです。ワンバンのボールを投げてしまったことは覚えていて......ああ、そういえばダイさん(陽岱鋼)がいましたね。試合前に話したんですけど、対戦していたんですか。そこは記憶にないんですよ。バッターと戦う前に自分と戦っていたからなのかな。ヒジが痛い、ボールがいかない、どうしようと、もうパニックです。

 それでもなぜか、(ヒジが)壊れる怖さはありませんでした。今日、このゲームをどうやって凌ごうかと、そればかりを考えていました。これまでにもヒジが痛い、肩が痛い、腰が痛いと、慢性的な痛みを抱えながら投げたことは何度もありましたし、とにかくアウトを一つ取るにはどうしたらいいんだと、ピッチングの組み立てのことを必死で考えていたような気がします」

 試合を終えて失意の斎藤は、ふたたび病院に行くべきかどうか、迷っていた。

 翌朝、斎藤を衝撃が襲う。

 右ヒジが痛くて、歯を磨くのもシャンプーをするのも辛いのだ。ある角度にヒジを持っていくと激痛が襲う。今までの張りが抜けない感覚とは明らかに違っていた。

 これはおかしい。

 悩んでいる場合ではないと覚悟した斎藤はドクターの診察を受けることにした。するとそこで、最悪の事態が待ち受けていた。

 右ヒジの靱帯が断裂している──。

その診断を聞いた瞬間、斎藤の脳裏を"覚悟"がよぎる。

「ああ、ここまでか、と思いました。野球、やめなきゃいけないのかな、と......」

 斎藤は瞬時にいくつもの選択肢を思い浮かべた。もし野球をやめるとしたらどうするのか、続けるとしたらどうすればいいのか。そして、ドクターにこう問いかけた。

「先生に『どうしたらいいですか』と訊いたんです。そうしたら、いくつかの選択肢を出してくれました。トミー・ジョン手術もありましたし、今回の新しい治療法もあったんです」

◆「壊れちゃうんじゃないか」。日本ハム・栗山英樹監督が何度も見た清宮幸太郎の涙>>

 切れている靱帯を再建するにはトミー・ジョン手術しかない。しかし、この手術をすると1年以上のリハビリが必要になる。今の斎藤にそれだけの時間的猶予はない。ならば手術をせずに靱帯を再建する方法はないものか......じつはそんな模索が医学の世界でも始まっていた。

 斎藤が行なったのはPRP療法だと言われているが、それは正確ではない。PRPとは血液中の多血小板血漿のことで、傷んだ組織を元通りに治そうとする自己治癒能力を高める働きをしてくれる。

 過去、ヒジ痛に悩まされた田中将大や山口鉄也がトミー・ジョン手術をせず、PRPによる保存療法でヒジの靱帯損傷からの復帰を果たしてきた。斎藤も自身の血液からPRPを採取、それを注射したのだが、今回の治療のメインはPRP療法にはなく、もっと根本的な靱帯の治癒メカニズムを生物学的に呼び覚ますところにあるのだという。

 まずは自己治癒能力を邪魔しないための患部の固定、そして成長ホルモンを分泌させるための効果的な睡眠、さらには靭帯の再生に必要な材料であるコラーゲンを再合成するための必要な材料(アミノ酸、鉄、ビタミンC、亜鉛などの栄養分)の補給──そこにプラスアルファ、成長因子としてのPRPを注入する。


キャンプでも精力的に投げ込みを行なっていた斎藤佑樹

 つまりPRP療法の効果を増強するために、複数の治療を並立して施すというのが、今回、斎藤が受けた新しい治療法だ。◯◯式といった名前はまだなく、エビデンスも十分ではない。このプログラムで靱帯断裂から復帰を目指したプロ野球選手は過去にいない。しかし、斎藤はだからこそこの治療法を選んだ。結果はどうあれ、このプロセスが次の世代に役立つと考えたからだ。

 そうやって治療によって靭帯の再生を活性化させながら、リハビリに関しては、ある程度の修復が認められた時点で出力を上げずにヒジへ負荷をかけるメニューを組んで、靱帯のさらなる再生を促す。

 キャンプで100キロの球速から始めた200球のピッチングにはそういう意図があり、そこには投げる刺激によって靱帯の再生を促すと同時に、これまでのフォームを見直して理想のイメージに近づけようという狙いも含まれていた。腕の振りではなく体幹の回旋で球速を上げるために、力感なく投げることを意識する......それでいて、140キロを投げられる。この流れが、今の斎藤が描く復帰までの道筋だ。

「この新しい治療法で、2カ月で治ったアマチュア選手もいると聞きました。どんなにかかっても6カ月で靭帯はくっついてくれるというので、だったらその方法でやってみようと思ったんです。トミー・ジョン手術を受けてしまえば投げるまでに1年以上もかかりますし、それならもう野球は続けられない。この方法にかけるしかありませんでした」

 いざ、進む方向を決めた斎藤はどこまでも前向きだ。こういう時、斎藤は考えることはあってもくよくよと思い悩むことはない。迷うことはあっても、決して投げ出さない。まして靱帯が切れているからと、自暴自棄になったり......?

「自暴自棄? ないない(笑)」

── ショックを受けて、しばらく何も考えられないとか......。

「そんなの、あるわけないじゃないですか」

── お酒を呑んで荒れるとか......。

「まったくないですね。だって、意味ない時間ですもん」

 そうだった。

 斎藤はそういうタイプなのだ。だから今も前向きに、楽しそうに日々のピッチングに励んでいる。フォームをスマホで撮影して、チェックして、いろんな人の話に耳を傾け、どこかに正解はないかと探すのが楽しくて仕方がないといった空気を醸し出すのである。斎藤が続けた。

「これ、人間の悪い部分でもあると思うんですけど、僕もヒジの靱帯が切れていたことを自分の中で言い訳にしたところはあったと思います。思うようなボールが投げられなかったのは力のせいでも歳のせいでもなく、ヒジの靱帯が切れていたせいだったのかと......じゃあ、結果が悪くてもしょうがないよねって、そう思いたかったんでしょうね。でも、だからこそヒジが治ればいいボールを投げられるはずだって考えることができたんです」

 10年のプロ生活を終えたところで、手にした勝ち星は15。ここ3年は勝てていない。昨年は一度も一軍に上がれなかった。10年前のはちきれんばかりの期待に応えたとは言い難いし、斎藤自身も苦しくなかったはずはない。思うに任せない現実に対して、葛藤も悔しさも、やるせなさもあったはずだ。それでも、そういうネガティブな気持ちを心の中で消化して、ポジティブなエネルギーに変換する能力を彼は携えている。

 野球をやりたい気持ちを変わらずに持っていて、そんな斎藤への期待をファイターズは持ち続けている。だから契約を交わしているわけで、その判断が彼の高校、大学、プロに入ってからの特別な存在感を勘案してのことだったとしても、それが球団の編成方針ならばその結論に個人的な賛否こそあれ、是非はない。

 にもかかわらず、ネット上では「クビにしろ」だの「代わりにクビにされた若い選手が気の毒だ」だのといった見当外れなバッシングが飛び交う。まして「入団時に長期契約を交わした」とか「球団からは解雇しないという密約がある」などと、あろうはずがないことを囁かれて揶揄される筋合いはないだろう。しかしながら不思議なのは、そうした心ない声が増すほどに、斎藤からは野球が楽しいという空気が伝わってくることだ。プロ野球選手として崖っぷちに立たされているはずなのに、いったいなぜなのだろう。

「なぜなんでしょうね(笑)。野球だけは味方でいてくれるからなのかな。今の僕は、自分にできることをやるしかないんです。周りがどう思うのかとか、自分にコントロールできないことを考えても意味がない。自分なりに納得できることを、ブレずに続けていくしかないんです」

 11年目、一度も登板がなければ12年目はやってこないかもしれない。そんなことは斎藤が誰よりもわかっている。果たして、斎藤の復帰はいつになるのだろうか──。

「あの時までがリハビリで、今はもうリハビリは終わったとか、わかりやすく分けられるものじゃない。『ストリートファイター』のゲージみたいな感じなんですよ(笑)。満タンになったから実戦というわけじゃないし、減ってても実戦はできる。間違いなく言えるのは、試合で投げるのにそんなに時間はかからない、ということです。早ければ......」

 夏......かと思いきや、斎藤は笑った。

「そんなにかからないって言ってるじゃないですか」

 もちろん投げられるようになるのと、バッターを抑えられるのとは、別の話。投げて、抑えて、勝ててこその復帰である。それが2軍で叶って、ほどなく1軍で実現するのを、斎藤佑樹を応援し続けるファンは待ち望んでいる。今年のうちに、そんな日がやってくることを──。