130年前から「名探偵といえばホームズ」と言われる本当の理由
※本稿は、北原尚彦『初歩からのシャーロック・ホームズ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
■シャーロック・ホームズとはそもそも誰か
シャーロック・ホームズという名前こそ有名だが、では彼が何者なのか、正確に知らない人もいるだろう。探偵の代名詞となっているので、探偵だということだけは知っているかもしれないが、ごく少数ながら実在の人物だと思っている人もいるだろう。
シャーロック・ホームズは、英国の作家アーサー・コナン・ドイルが小説の中で生み出したキャラクター、創作上の存在である。1887年発表の長篇『緋色の研究』で初登場し、最終的に長篇4冊、短篇集5冊(短篇56作)が書かれた。
最初に書かれたふたつの長篇『緋色の研究』と『四つの署名』はさほどの話題とならなかったが、〈ストランド・マガジン〉にて一話読みきりの連作短篇形式での連載が始まると、爆発的な大人気となった。この人気は、〈ストランド・マガジン〉の売上を伸ばす役割を、大いに果たしたのである。
■独立独歩の私立探偵
ホームズは警察や探偵社には所属しない、独立独歩の私立探偵である。依頼を受けて事件を調査する「諮問(しもん)探偵(コンサルティング・ディテクティヴ)」だ。住所はロンドンのベイカー街221B。シャーロック・ホームズのファンから、未だにこの住所宛てに手紙が送られてくるという。
ホームズの相棒は、医者のジョン・H・ワトスン博士。ホームズと行動を共にするだけでなく、記録係も務める。児童書などでは「助手」と訳している場合もあるが、対等な「パートナー」であり、日本語にするなら「相棒」である。
■世界中の言語に翻訳されて
コナン・ドイルは当初は医者をしながら執筆する兼業作家だったが、〈ストランド・マガジン〉での連載を始めてから専業作家となる。だがほかに書きたいものがあったため、短編「最後の事件」で一旦はホームズのシリーズを終結させた。しかし編集者や読者からの要望はいつまでも続き、結局はホームズを復活させ、最終的にコナン・ドイルはこの世を去る少し前までホームズを書き続けたのである。
コナン・ドイルの死後もシャーロック・ホームズの人気は衰えず、21世紀まで読み継がれてきた。日本語はもちろん、世界中のさまざまな言語にも翻訳された。ホームズのイメージは、探偵そのもののアイコンとして世の中に流布している。
シャーロック・ホームズは一般に広く知られているのみならず、深くマニアックに愛好し研究する人々をも生んでいる。そんなホームズ愛好家・ホームズ研究家は「シャーロッキアン」と呼ばれる。そして彼らは、コナン・ドイルの書いたホームズのシリーズ60作をキャノン(正典)と呼ぶ。
■人気の秘密はキャラクターの魅力
ではその人気の秘密とは何かというと――、シャーロック・ホームズのキャラクターの魅力にあると言っていいだろう。
世界初にして(当時は)唯一の「諮問探偵」。頭脳明晰で推理力に優れている。初めて会った人物でも、その職業や行動などをぴたりと言い当ててしまう。しかし冷血ということはなく、情に厚いところもある。相棒及び記録係は、医者のワトスン博士。
身長は6フィート(約183センチ)と高いが痩せているため、見た目だともっと高い印象がある。髪や眉毛は黒。目はグレイで眼光鋭く、鷲鼻(わしばな)。
化学実験を好み、部屋に器具を備えている。事件の捜査のためだけでなく、あくまで趣味のための実験も行った。
タバコ好きで、紙巻タバコなども吸ったが、特にパイプを愛用している。事件がなく暇になるとコカインの7パーセント溶液を注射して刺激を求めるという悪癖があった(当時は合法だった)。
酒はウィスキーのソーダ割りを好み、部屋にガソジーン(炭酸水製造器)が置いてあった(「ボヘミアの醜聞(スキャンダル)」「マザリンの宝石」)。「ヴェールの下宿人」では、モンラッシェ(白ワインの一種)を飲んでいる。また「最後の挨拶」では、ワトスンとともにトカイ・ワイン(ハンガリー産で甘くとろみのあるワイン)で祝杯を上げている。
■ワトスン博士作成の「ホームズの通信簿」
『緋色の研究』で、ワトスン博士が「シャーロック・ホームズの知識と能力」を一覧表にしており、これがホームズのことをよく表わしているので、引用しておこう。
2 哲学の知識――ゼロ。
3 天文学の知識――ゼロ。
4 政治学の知識――きわめて薄弱。
5 植物学の知識――さまざま。ベラドンナ、アヘン、その他有毒植物一般にはくわしいが、園芸についてはまったく無知。
6 地質学の知識――限られてはいるが、非常に実用的。一見しただけでただちに各種の土壌を識別できる。たとえば、散歩のあとズボンについた泥はねを見て、その色と粘度から、ロンドンのどの地区の土かを指摘したことがある。
7 化学の知識――深遠。
8 解剖学の知識――正確だが体系的ではない。
9 通俗文学の知識――幅広い。今世紀に起きたすべての凶悪犯罪事件に精通しているらしい。
10 ヴァイオリンの演奏に長(た)けている。
11 棒術、ボクシング、剣術の達人。
12 イギリスの法律に関する実用的な知識が豊富。
文学については、ホームズはシェイクスピアから何回か引用しているし、「ボスコム谷の謎」では事件現場へ向かう列車の中で『ポケット版 ペトラルカ詩集』を読んでいるので、知識が「ゼロ」というのは言いすぎだろう。まだ知り合って間もない時期だったので、ワトスンはホームズの文学に関する嗜(たしな)みに接する機会がなかったのかもしれない。
天文学についても同様で、「ギリシャ語通訳」においてホームズは「黄道の傾斜角度の変化」という高度な知識を披露している。
■女性の気持ちをつかむのは上手?
それ以外の特徴を、ピックアップしてみよう。
推理の邪魔になるからと、恋愛は避けるようにしている。しかし女性の気持ちを掴(つか)むことに関しては長けている。悪漢の屋敷に関する情報を入手するため、鉛管工に変装して短期間でメイドと婚約までしたことがある。
事件を引き受けている際には「食事をすると脳の働きが悪くなるから」と食事をおろそかにする。考え事をしたり依頼人の話を聞いたりする際には、両手の指先を山型に突き合わせる癖がある。
正典に記述はないが、誕生日は1月6日であるとするシャーロッキアンの説がほぼ定着している。複数の著作や論文を書いており、「人生の書」「各種煙草の灰の識別について」などがある。
■お国のために働いたことも
ボクシングなどのほかに、日本の「バリツ」という格闘技を身につけている。このバリツが何であるかは「ジュウジュツ(柔術)」であるとか、「ブジュツ(武術)」であるとか諸説あったが、日本の格闘技とステッキ術を融合させた護身術「バーティツ」であるとする説が現在では有力である。
田舎の大地主の家系であり、祖母はフランスの画家ヴェルネの妹。家族に関しては、マイクロフトという兄がいることだけははっきりしている。
大学には行っているが、どこの大学かは不明。在学中に、学友の実家で事件を解決し、職業探偵の道へ進むことを勧められた。ワトスンとベイカー街で共同生活を始める前は、モンタギュー街(大英博物館の東)で探偵の仕事をしていた(『初歩からのシャーロック・ホームズ』巻末の「ホームズが生きたヴィクトリア時代のロンドン地図」を参考にしていただきたい)。
「ノルウェー人探検家シーゲルソン」「バジル船長」などと変名を使ったことがある。探偵業から引退した後は、サセックスの丘陵(きゅうりょう)で隠遁(いんとん)生活を送り、養蜂をして蜜蜂の研究をしつつ、探偵術に関する執筆もしていた。さらにその後、政府の要請により、お国のために働いたことがある。
■世界のどこかで未だに生きている?
死亡については不明。シャーロッキアンは「〈タイムズ〉に死亡記事が載っていないのだから、未だに生きているのだ」と言う。
インヴァネス(ケープ付きコート)を着ているイメージが強いが、原作では地方へ行くときに「旅行用のマント」に身を包んでいたと書かれているだけで、「インヴァネスを着ている」という記述はない。ロンドンの街中ではフロックコート姿が多い。
帽子も同様で、ホームズの帽子というとディアストーカー(鹿撃ち帽)のイメージがあるが、これも原作の本文中では地方行きの際に「耳覆い付きの旅行帽」をかぶったという記述があるだけ。インヴァネスもディアストーカーもイラストで描かれ、それが舞台や映画で強調された末、ホームズのイメージとして定着した。
ホームズ以前にもオーギュスト・デュパン(エドガー・アラン・ポー作)や名探偵ルコック(エミール・ガボリオ作)のように小説中の探偵は存在したけれども、名前だけでなくイメージも含めて、名探偵の代表と言えばシャーロック・ホームズなのである。
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北原 尚彦(きたはら・なおひこ)
作家、ホームズ研究家
1962年生まれ。青山学院大学理工学部物理学科卒。作家、翻訳家、ホームズ研究家。日本推理作家協会会員。日本古典SF研究会会長。1990年『ホームズ君は恋探偵』(北原なおみ名義)で小説家デビュー。小説『シャーロック・ホームズの蒐集』と研究書『シャーロック・ホームズ語辞典』で日本推理作家協会賞候補。ほか小説『ジョン、全裸連盟へ行く』『ホームズ連盟の事件簿』等、研究書『シャーロック・ホームズ秘宝の研究』等、訳書キム・ニューマン『モリアーティ秘録(上・下)』等。ドラマ『ミス・シャーロック』等の監修を務める。
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(作家、ホームズ研究家 北原 尚彦)