今から5年前、廃墟マニアの私のもとを思わぬ人物が訪ねてきた。宮城県から新幹線を乗り継ぎ、私の住む岐阜県までやって来てくれたのは後藤孝幸さん。“廃墟遊園地”として、一部界隈で有名な「化女沼レジャーランド」の所有者だ。

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 かつては東北を代表する総合レジャー施設だった「化女沼レジャーランド」は、バブル崩壊後に経営が急激に悪化し、2001年に閉園。放置された遊具は錆びつき、朽ちていった。遊園地という、誰もが笑顔になるはずの空間から人が消え、時間の経過とともに全てが寂れていく光景は、ホテルや工場の廃墟よりも心に迫ってくるものがある。


「化女沼レジャーランド」に残された観覧車

廃墟遊園地を売ってほしい!?

 そんな“廃墟遊園地”の所有者が、私に会うためはるばるやって来てくれたのだ。だが、挨拶もそこそこに後藤さんが切り出した要件は、全く予想もしていない話だった。「私ももう85歳だから、(廃墟遊園地を)手放そうと思いましてね。買ってくれる人を、ぜひ鹿取さんに見つけてほしいと思って来たんですよ」

 そう言って後藤さんは、「化女沼レジャーランドの概要」と書かれた冊子を取り出し、私に手渡した。敷地面積は4万5000坪、温泉の源泉もついている。希望価格は5億円――。断っておくが、私は不動産業者ではない。化学系企業のサラリーマンだ。後藤さんが廃墟遊園地の所有者で、私は一人の廃墟マニア、という関係に過ぎない。

「できればまた遊園地にしたいんです」

 そもそも私が初めて後藤さんと会ったのは、その“思わぬ訪問”の数年前のことだった。2001年の閉園から何年か経つと、「宮城県に廃墟遊園地がある」との噂が廃墟マニアの間で広まり、私もいつか行ってみたいと思っていた。そんな矢先、廃墟マニアに密着するドキュメンタリー番組の取材を受けた私は、その一環で化女沼レジャーランドを訪問し、後藤さんと出会ったのだ。

 そこで後藤さんから聞いた話は、どれも衝撃的だった。銀行を駆け回って開業資金を調達した話や、アメリカやヨーロッパに渡って遊具を買い付けてきた話、有名歌手のコンサートの裏話など、どの話題にも興味が尽きなかった。そして私は、閉園してもなお、遊具をそのまま残しているのはなぜかと、後藤さんに尋ねてみた。

「ここには、遊んだ人の思い出と、私の夢がギッシリ詰まってるんですよ。そのシンボルである遊具は、どうしても撤去できなかった。できればまた遊園地にしたいんです。それが無理でも、みんなが笑顔になる場所にしたい」

かつては道路が渋滞するほど人気だった

 かつて戦争で焼け野原となった仙北平野を見た後藤さんは、人々に希望を与える娯楽施設を作ろうと、一人で立ち上がった。自治体や大企業に頼ることなく、資金集めから遊具の調達まで一人でこなし、1979年、ついに開園にこぎつけた。渡り鳥の飛来地として知られる化女沼の畔に立地することから、後藤さんは「化女沼保養ランド」と命名した(後に化女沼レジャーランドに改名)。敷地内には遊園地のほか、ゴルフ場やホテル、コンサート場なども併設された。

 週末になると周辺道路は渋滞し、観覧車やゴーカートに親子連れが列をなした。屋外コンサート場では数千人の観客が熱狂した。意外と好評だったのが“そうめん流し”だ。従来の“流しそうめん”とは異なり、円卓の丸い水槽の中をそうめんがグルグルと回る。1000人を収容できる日本最大級のそうめん流しは、遠足の定番スポットにもなった。人々に希望を与える娯楽施設を作りたいという後藤さんの夢は、現実のものとなったのだ。

 しかし、その夢も長くは続かなかった。月日が経つと目新しさが失われ、客足は徐々に遠のいていった。駅からも高速道路のICからも遠いという、アクセスの悪さも災いした。1990年代後半には、1日の入場者数が1ケタという状況に陥り、遂には2001年10月、資金繰りの悪化から閉園してしまった。

温泉を掘り当て、アクセスの悪さも解消されたが……

 観覧車やメリーゴーランドなどの遊具は、中古でも買い手がつく。しかし、いつかまたここを笑顔であふれる場所にしたいという強い意志で、後藤さんは売らなかった。その夢の実現に向けて、後藤さんは閉園後に温泉を掘削し、2003年、見事に掘り当てている。2004年には、化女沼レジャーランドの目と鼻の先にある東北自動車道長者原サービスエリアにスマートICが設置され、高速道路から1分で来られるようにもなった。再興の機運は着実に高まっているように思えたが、しかし……

「私があと10歳若ければね。もう一度借金してやりたいんだけど、でももう歳だから。土地は売りたいけど、切り売りはしない。夢も一緒に引き継いでくれる人が現れるまで、遊具は絶対に残しておきますよ」

 この話を聞いて、私は心が震えた。そして、それから数年が過ぎた2015年、今度は後藤さんが私を訪ねてきて、化女沼レジャーランドを売ってほしいと頼んできたのだ。

 それなりに切羽詰った状況が背景にあると想像できたが、どう考えても無茶な話だ。不動産業とは無縁のサラリーマンに、温泉が付いた4万5000坪の土地など売れるはずがない。しかし、後藤さんには並々ならない御恩があった。後藤さんは、遊具がボロボロになっている姿は残念だけど、それを見て楽しんでくれる人がいるのならそれも嬉しいと言い、廃墟マニアである私をあたたかく歓迎してくれたのだ。

 そんな後藤さんに何か恩返しがしたいと、私も前々から思っていた。廃墟を売るのはあまりに荷が重いが、廃墟マニアなりに本気でやれることはないかと考えてみた。そして、ひとまず「廃墟遊園地の所有者に頼まれて、廃墟マニアが購入者を探している」とSNSで発信すると、これが瞬く間に拡散された。

企業や地方自治体から問い合わせが殺到!

 翌日にはテレビ局や新聞社から問い合わせが殺到し、私は対応に追われた。テレビで放送されると、それを見た人たちからの問い合わせも相次いだ。化女沼レジャーランドの知名度は上がり、いつしか“廃墟マニアの聖地”とまで呼ばれるようになった。

 土地に興味を持った不動産会社など10社から問い合わせも入り、地方自治体からは東京オリンピックの選手村にできないか、という相談も寄せられた。関心の高い企業とは、直接会って話をすることもあった。

「廃墟を見学したい」との声

 全国紙に私個人の携帯番号が掲載されたこともあって、非常に多くの電話がかかってきた。特に多かったのは、廃墟を見学させてほしいという、個人の方からの要望だった。通常であればお断りするのだが、見てみたいという気持ちは痛いほど分かる。それに、廃墟の売却やそれに伴う電話対応も、あくまでも趣味として行っている。ならば同じく趣味の範疇で、そうした声にも応えようと思った。

廃墟遊園地に子供の歓声が響いた

 そして、後藤さんの了解を得て見学会を開くと、全国から100人以上が集まった。廃墟の駐車場は、車でいっぱいになった。入場口には行列ができ、その中には親子連れの姿もあった。廃墟の遊具で遊ぶ親子は、とても楽しそうだ。化女沼レジャーランドに、再び子供の歓声が響いた。まるで現役の遊園地に戻ったような光景を、私は感慨深く眺めていた。隣にいる後藤さんも、とても嬉しそうな表情だった。

「自分が子供の頃、親に連れてきてもらいました。自分に子供ができたら、連れてくるのが夢だったけど、もう無理だと思ってました。廃墟とはいえ、実現できてとても嬉しい」

 こうした来場者の声を聞くと、これまでの労力が報われたような思いがした。後藤さんが尽力して遊園地を作り上げた時の気持ちが、ほんの少し分かった気がした。

錆びついた遊具は、今もそのまま……

 しかし、肝心の売却の話は進まなかった。問い合わせのあった企業は、いずれも連絡が途絶えた。廃墟を喜ぶのはマニアだけで、一般的には“ただのゴミ”というのが現実だ。残された建物や遊具を片付けるだけでも、莫大な費用がかかる。単純に土地を買ってビジネスを始めるには、割に合わないのだ。

 ならば、聖地とまでいわれた廃墟をそのまま活用しようと、廃墟のテーマパークにするべくクラウドファンディングを立ち上げる人も現れたが、これもすぐに頓挫してしまった。

 その後、数年間にわたって見学会を何度か開催したが、廃墟が売れることはなかった。そして2018年、化女沼レジャーランドの所有権は、ついに後藤さんの手から離れてしまった。今なおアドバイザーとして関わり続けている後藤さんは、今年で90歳。錆びついた遊具は、今もそのまま残っている。いつか、化女沼レジャーランドが多くの人の笑顔であふれる場所に再生されることを、私は願ってやまない。

撮影=鹿取茂雄

(鹿取 茂雄)