「卒業時点で492万円の借金」奨学金のせいで人生が狂った29歳の叫び
※本稿は増田明利『今日、借金を背負った』(彩図社)の一部を再編集したものです。
■「これなら問題なく返せると思っていました」
野坂敏和さん(仮名・29歳)
職業/会社員 収入/月収24万円(手取り20万円) 家賃/5万8000円
主な借金/第2種(利子あり)奨学金384万円(利子込みの返済額は432万円)
銀行カードローン30万円 他に大学在学中に運転免許ローン30万円、学生ローン30万円(既に完済)
借金の残高/奨学金200万円、銀行カードローン30万円
月々の返済額/奨学金1万8000円 銀行カードローン2万5000円+利子
「奨学金の返済がこれほどしんどいとは思っていませんでした。利子が付くとはいっても240回分割なら毎月の返済額は1万8000円ほど。これなら問題なく返せると思っていました」
口元をへの字にして溜息をついた野坂さん。現在は返済猶予を申請して認められたのできつい催促や取り立てはないが、銀行カードローンで作った借金も30万円残っているので生活は苦しいままだ。
「出身は新潟で、東京に来たのは大学進学のためです」
小中学校から成績は良く、高校は県立の進学校。都内の上位私大に難なく合格し、工学部で情報工学やシステム設計を学んだという経歴だ。
「実家は貧しくはなかったが裕福というわけでもありませんでした」
■仕送りは月3万円、奨学金は絶対に必要だった
野坂さんが大学受験した当時も実家は住宅ローンを抱えており、塾や予備校などに通うことはできなかったそうだ。だから東京の私大に通うためには奨学金は絶対に必要だった。授業料などは親が出してくれたが仕送りは3万円だけ。あとは奨学金とアルバイトが頼みの綱。アルバイトは飲食店と日雇い派遣を掛け持ちしていたという。
「奨学金は第2種で月8万円貸与してもらいました。今になって考えると借り過ぎだったと思う。返済についても甘く見ていましたね」
4年間の貸与総額は384万円。利子は年利にして1%と低いが返済総額は432万円にもなる。そもそも奨学金が実質的に借金だという自覚も足りなかった。
「卒業後に就職したのは大手電機メーカー傘下のソフトシステム開発設計会社です。見習いのプログラマーからスタートしました」
給料は基本給に固定残業代と若干の手当が付いて額面21万円、賞与も年に2回支給だから世間相場並み。先輩たちの話では勤続5年で年収が400〜420万円になるということだったので奨学金の返済は簡単だと思っていた。
■旅行のためにもお金を借り、卒業時点で借金総額492万円
「奨学金の返済は就職して7カ月目から始めました。月々の返済額は1万8000円です」
給料の手取りは18万円近くあったのでこれだけなら問題ないが、実は他にも借金があって、それも返済していたから余裕はなかった。
「ひとつは自動車教習所の運転免許ローンで30万円。学生ローンも2社で30万円ありまして」
学生ローンのひとつは就職活動の費用に充てるために借りたもの。スーツ、鞄、靴などの購入費に加え、名古屋や大阪が本拠地の会社への会社訪問や企業説明会、OB訪問のために必要だった。
「もうひとつは卒業間近に借りてしまったもので、卒業旅行と引っ越しに使ってしまいました。当時はお金がないから諦めるということはしたくなかった」
学生時代の体験は貴重だからと思っていたが、今になって考えると奨学金だけで384万円も借りているのに、さらに旅行で借金を重ねるのは浅はかでしかない。しかし、当時は考えが回らなかった。
「恥ずかしい話ですが、大学を卒業して今日から社会人スタートですという時点で自分は492万円の借金を背負っていたわけです。背筋が凍る金額ですよね」
運転免許ローンと学生ローンは利子がそれぞれ8%、15%と高い。2年24回で返す予定だったので毎月元本部分2万5000円と残高に連動する利子分を支払う。さらに奨学金の返済も始まったので毎月の返済総額は4万3000円以上だった。
生活費は家賃が6万4000円、水道光熱費が1万円。固定電話代込みの通信費が8000円。毎月8万円ほどが固定費として出ていく。これに借金の返済4万3000円が加わると12万5000円。
「残りの5万円ちょっとのうち食費が2万5000円。お小遣いを1万5000円とすると残るのは1万2、3000円だから余裕なんてありませんよ」
■借金のせいでガールフレンドとも破局
計画通りに2年後には運転免許ローンと学生ローンは完済、これで2つの借金は消えた。
「奨学金も滞ることなく返していました」
奨学金の返済はここまで19回分。他の借金が消えたので少しはゆとりのある暮らしをしたいところだが、借金がたくさん残っていると思うと気持ちは落ち着かなかった。
「できる限り早く残りを半分以下、可能なら3分の1ぐらいまで減らそうと思い、繰り上げに次ぐ繰り上げで返しまくっていましたね」
毎月の返済とは別に夏の賞与が出た翌月の7月、冬の賞与が出た翌月の1月にはそれぞれ6カ月分を繰り上げて返済。1年間に24回分を返済していた。
「賞与の手取りは25〜27万円ぐらいだったので手元には10万円ぐらいしか残りませんでした。これは分割して月々の生活費の足しにしていました。なので蓄えはあまり増えませんでした」
こうまでして返済を急いだのは、当時付き合っていたガールフレンドにいろいろ言われたから。
「それは借金でしょ、どうしてそんなに借りちゃったの、いつになったら返し終えるのって」
東京生まれの東京育ちで、付属高校から持ち上がりで入学したガールフレンドには、地方出身者が東京の私大に通うのがどれほど大変なことなのか分からなかった。
「親に半分くらい出してもらったらとか、祖父母に援助してもらえばなんて言いだして。親に余裕があれば最初から奨学金は受けなかったのに、そういう事情を理解できないんですよ。面倒くさくなってその人とは別れました」
■コツコツ進めた返済計画が体調不良で完全に狂った
その後も可能な限り繰り上げ返済をして17年8月迄に130回分を返済。「もう半分以上返した」と安堵したが、体調を壊して返済計画が狂ってしまった。
「年々残業が増えてゆき、月90〜100時間も時間外勤務するようになりました。どんなに時間外勤務しても固定残業代制だから毎月60〜70時間もタダ働き。成果主義も取り入れられたのでストレスも溜まって。これでは身体がおかしくなるのは当然ですよね」
身体の不調は耳鳴り、偏頭痛から始まって慢性的な下痢、睡眠障害も現れた。食欲も減退し朝は缶コーヒーだけ。昼も夜も以前の半分くらいの量を食べるのがやっとになってしまった。
「騙し騙しで2カ月間我慢したのですが、ある日を境に出社することができなくなりまして。朝起き出して布団から出たのはいいものの洗面台の前で身体が硬直してしまいました」
その日は扁桃腺を腫らして熱が出たと嘘をついて病欠。ところが翌日も出勤しようとすると動悸がして冷汗が出てきた。
「ああ、やっちゃったなと思った。体調がおかしくなってからネットや図書館にある家庭の医学みたいなもので調べていたんです。自分の症状は心身症とかうつ病に似ていたのでヤバイなと心配していた。その通りになってしまった」
■うつ病治療中、会社から圧を感じて自主退職
住んでいる地域で一番大きな総合病院へ行き、最初は心療内科で受診。その後、精神神経科の医師に診てもらうと軽度のうつ病と診断された。過労が主たる原因だろうということだった。
「やっぱりという感じでしたね。原因が分かってすっきりした。なってしまったものはしょうがないですから」
会社には診断書を提出して休職することになったが、上司の苦々しそうな顔つきは今でも忘れられない。
「ほとんど有給休暇が未消化だったので丸1カ月間は金銭的な問題はありませんでした」
治療に専念したものの、さしたる効果はなく休職2カ月目に突入。
「これで給与収入はなくなりましたね。健保組合から傷病手当が支給されたけど日給の3分の2なので1カ月当たりにすると14万円ほどだった」
家賃と他の固定費を払い、医療費も出すと手元に残るのは2万円もない状態。
「こんなんじゃ奨学金の返済なんてできるわけない。機構に返済猶予を申請し返済を待ってもらえるよう手続きをしました」
会社なんて冷たいもので休職3カ月目が終わる頃になると「いつまで休むんだ」「人手が足りなくて大変なんだよ。早く出てきてもらわないと困る」などと言ってくる。
「裏を返せば、早いとこ自発的に退職しろということなんですよ。退職すれば欠員が生じるので別の人を補充できるわけだから」
もう嫌気が差して退職。病気治療中の無職ということになった。
「退職金はちゃんと出ましたよ、30万円ぐらいだったかな」
■回復はしていないがバイトをしないと飢え死にする
雇用保険の失業手当も受給できるのだが、辞める前の2カ月は休職していたので給与収入はゼロ。それが響いて基本日額は4700円程度。
「その上、自己都合での退職なので失業手当が出るのは90日後からなんです。振り込まれた退職金と500円玉貯金で細々と生きていました」
体調や精神状態は少し良くなってきたが、まったく眠れない日があったり、人混みの中にいると無性にイライラすることもあったので更に2カ月間静養した。
「働かなきゃマズい、とりあえずアルバイトでもするかという気になったのは会社を辞めて半年経った頃ですね。完全に回復したわけじゃないけど、このままでは飢え死にすると思ったので」
オフィス専門の引っ越し業者が作業員募集の広告を出していたのを見つけ、面接に行ったらその場で採用してくれたそうだ。
「金曜日の夜から土曜日の朝、土曜日の夜から日曜日の朝までは完全な引っ越し作業。日給は1万円だった。平日の3日は事務所内のレイアウト変更に伴うオフィス家具などの移設作業で夜6時から10時までの4時間勤務です。こっちの時給は1200円だった」
このアルバイトで月収14万円は確保できた。身体を使う仕事なので疲れたが、それでよく眠れたので御の字だった。
■怪我をして収入が完全に途絶えた
「翌月からは失業手当が出るようになったのでこのアルバイトはすぐにやめました。だけど失業手当は1カ月間(28日)で13万円。東京の生活保護費と同じくらいでしょ。本当はいけないのですが生活が成り立たないのでハローワークには内緒でアルバイトをやっていました。アパート近くのクリーニング屋さんで洗濯物の受け渡しを」
夕方3時間だけで火木土の週3日。時給1000円だったがこのアルバイト代が月3万6000円。これで何とか生活していけた。
「次の職探しもボチボチ始めまして。自分ができることと言ったらコンピュータ関係だけ。ハローワークには求人が多数あったけど下請け、下請けの下請けみたいなところばかりでブラック度も高そうでしたね」
何社かは面接したが半年以上のブランクを問題視されて不採用。ハローワークの指導員からは営業職や販売職も勧められたが接客業は嫌だったし、自分には向いているとも思わなかった。
「どうしようかなあと迷っているところで、間の悪いことに今度は足の骨にヒビを入れる怪我をしてしまいまして」
雨の日にアパートの階段を小走りに上がろうとしたときに雨水で滑って転倒。左足のくるぶしにヒビが入る怪我を負ってしまった。
「ギプスで固められて松葉杖です。全治4〜6週間という診断ではハローワークに通うのも就職情報会社が主催する企業説明会や合同面接会などに参加するのも無理。完治するまでアパートの自室で養生するしかありませんでした」
治療費は郵便局の簡易保険に入っていたので補償されたが失業手当は90日で終了。クリーニング屋さんのアルバイトも辞めざるを得なかったので収入が完全に途絶えた。
■とうとう食い扶持まで借金に
このピンチをしのぐために手を出したのが銀行カードローンだった。
「前の会社の給料を振り込んでいたのがY銀行でして。本当に少ないのですが20万円の定期預金もあった。だから貸してくれたんでしょうね」
限度額50万円で金利は14%。
「早い話、20万円の定期預金が担保ということだと思います」
消費者金融にはフリーターやパートの方も歓迎とか、初めての方は30日間利息ゼロというところもあったが、商店街の一角や駅ビルにある無人契約機の前に座るのは抵抗があった。
「消費者金融と格好つけてもサラ金でしょ。やっぱり危ない、怖いというイメージもあるし。サラ金より銀行の方が安心という思いもありましたね。所詮は同じ金貸しなんだけど」
借りたのは15万円を2回で合計30万円。生活費のためだ。
「とうとう食い扶持まで借金かと落ち込みましたよ。何か堕ちるところまで堕ちたというか、惨めなものですよ」
新しい仕事が見つかったのは18年の8月。多少のブラック加減は仕方ないと割り切って何とか採用してもらったのがWeb制作を請け負っている零細企業。
「水商売とか風俗関係のホームページやネット専用の広告を作っているところです。キャバクラ、フィリピンパブ、ガールズバー、パチンコ屋、居酒屋、派遣型風俗業の広告や求人案内を作っています。世の中にはいろいろな商売があると思う」
心配していたブラック度はそれほど高くはない。サービス残業は月20時間近くあるが土日、祝日は完全に休めるのでマシな方だと思う。
「給料は24万円、手取り20万円ぐらいですね。賞与ありとなっていたけど寸志程度らしいので想定年収は300万円に届くか微妙なところだけど贅沢を言っている場合ではありません。とにかく働いて稼いで借金を返さないと」
■借金しているという事実は精神的負担が大きい
40歳になるまで奨学金の返済に追われるのは辛いので収入が増えれば2、3カ月分でも繰り上げて返済するつもりだが、ちゃんと完済できるだろうかという不安もある。
「借りるときは返済のことまでよく考えていなかった。月1万8000円なら余裕で返せるとたかをくくっていたけどこんなに重たいとはね」
毎月1万8000円を貯金して20年で432万円積み立てるのと、432万円の借金を毎月1万8000円ずつ20年かけて返すのはまったく別の話。自分はこんなに借金を抱えているという精神的な負荷が大きい。
「今になって強く思うのは無理して東京の私大に入る必要はなかったんじゃないのかということです。学力的には地元か隣接する地域の国公立大学は合格圏でしたしね」
東京の有名私大を卒業すれば将来の選択肢は選り取り見取りと思っていたが、実際はそれほどでもなかった。地元の国公立大学に入学していれば入学金を含めた4年間の学費は150万円近く安上がりだった。実家から通学していれば生活費も不要だった。
「地方でもアルバイトのあてはいくつかあったから奨学金は必要なかったと思う。そしたらこんなに苦しまずに済んだと思います」
2歳下の弟は地元の国立大学を卒業して地元の企業に就職。来年初めに結婚するという報告があったが、野坂さんは結婚なんて考えられる状況ではない。正直なところ失敗したと思っている。
4年間借金して何を学んだのか、何をしてきたのか。ただ、苦しんだだけではないかと考えると落ち込む。
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増田 明利(ますだ・あきとし)
ライター
1961年生まれ。都立中野工業高校卒業。ルポライターとして取材活動を続けながら、現在は不動産管理会社に勤務。2003年よりホームレス支援者、NPO関係者との交流を持ち、長引く不況の現実や深刻な格差社会の現状を知り、声なき彼らの代弁者たらんと取材活動を行う。著書に『今日、ホームレスになった』(彩図社)など多数。
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(ライター 増田 明利)