ドラッグストアのマスク売り場で売り切れも。日本国内でも警戒感が高まっている(写真:アフロ)

新型コロナウイルスによる肺炎が中国から世界へと拡散し、日本でも感染者の数が増加している。ヒトからヒトへの感染が確認されたことから、「コロナパニック」というべき恐慌状態が起こりつつある。全国各地のドラッグストアやスーパーでは、マスクが売り切れたり、品薄状態になったりしており、不安や恐怖に煽られた人々の動揺が見て取れる。

そして、遂にと言うべきか。北海道札幌市の人気ラーメン店や神奈川県箱根町の駄菓子店などで、中国人の入店禁止を告知する貼り紙を掲示するような動きが見られ始めた。

日本にとどまらず世界的な傾向に

日本政府は、2月1日から新型コロナウイルスによる肺炎などの病気を「指定感染症」などとする政令を施行。

2週間以内に湖北省に滞在歴のある外国人や、湖北省で発行されたパスポートを持つ外国人の入国を拒否する措置も始めたが、こうした法制度などの合理的な根拠もなく中国人そのものを差別する動きは、「中国人=新型コロナウイルスの感染者」という国籍・民族と感染症が結び付いたイメージが独り歩きし、それが「具体的な行動」として出現したものだ。

しかも、これは日本だけにとどまらず世界的な傾向となっている。

ロイターは、カナダやタイなどで中国系住民に対する差別や偏見が助長される事態になっていると報道。「ベトナムのダナンでは『あなた方の国が病気を広めたので、われわれは中国からの客へのサービスを提供しない』と英語で張り紙したホテルまで出現し、その後当局から張り紙を撤去するよう命じられた」というエピソードなどを取り上げた(新型肺炎で世界に「反中感情」広がる、入店拒否やネット誹謗も/1月30日付)。

またフランスでは、中国人が街中やソーシャルメディア上で差別的な言葉を浴びせられたと訴える例が続出しているとAFPが報じている。アジア人街で予定されていた春節のパレードが延期されたことに絡み、「外国人嫌悪が入り交じった集団ヒステリーがあり、フランスのアジア系住民に対する差別発言に歯止めがきかなくなっている。まるでアジア系住民全員が保菌者のような言われ方で、近寄るなと言わんばかりだ」という在仏中国人協会の関係者のコメントを紹介した。

実際にアジア系のレジ係の女性が接客を拒否され、「母国に帰れ」と罵られた光景を見た人からの証言も得ているという(「まるでアジア系全員が保菌者扱い」新型肺炎人種差別相次ぐ、欧州/1月31日付)。つまり、このようなリアクションが世界各国において、中国人だけではなく「アジア系全体」へと波及し始めているのだ。

イタリアでは、有名な国立音楽学校が「東洋人の学生のレッスンを中止する」と発表。差別を懸念する声が上がった。もちろん、この「東洋人」には、中国人とともに韓国人、日本人も含まれている。かつて120年ほど前に「黄禍論」という白色人種による黄色人種に対する脅威論があったわけだが、それがさながら新型肺炎パニックというまったく別の装いで復活したような格好となっている。

なぜ国籍・民族と感染症を同一視する言動に及ぶのか。その深層にはどのような問題が潜んでいるのか。

「わたしたちはみな不安に襲われている」

社会学者のジグムント・バウマンは、今日のグローバル化が進んだ世界において、「わたしたちはみな不安に襲われている」と主張する。

流動的で予測できない世界、すなわち規制緩和が進み、弾力的(フレキシブル)で、競争的で、特有の不確実性をもつ世界に、わたしたちはみなどっぷり浸かっているが、その一方で、わたしたちの一人一人が、私的な問題として、個々の失敗の結果として、自身の臨機応変の才あるいは機敏さへ挑みかかるものとして、己の不安にさいなまれている。(ジグムント・バウマン『コミュニティ 安全と自由の戦場』奥井智之訳、筑摩書房)

加速度的に変化していくことが強いられる社会環境の下では、「自分の身体や精神」がほかのもの(消費財やコミュニティーなど)よりも「平均余命」があるものに感じられ、「身体の保全」に対する関心が高まると同時に、それらの脅威に対処することが「慰め」になるというのだ。巨大なシステムから生じる「不安の根源」はコントロールできないが、疑わしい「周囲の他者」はコントロールできると考えてしまうのである。

バウマンは、「ここで言う身体とは、そのあらゆる延長や前線の塹壕――家庭、財産、近隣など――を含んでいる」と述べ、「そのように広義の身体の保全に努めるにつけ、わたしたちは、周囲の他者、とりわけそのなかのよそ者、すなわち予想不可能な物事の運搬者にして具現者である人々に対して、ますます疑いの目を向けるようになる」という。

よそ者は危険の化身であり、したがって、わたしたちの生活につきまとう不安を代理的に表現しているのである。よそ者の存在は、奇妙に屈折したかたちで、わたしたちの慰めとなり、さらには安心をさえ与えてくれるようになる。つまりは四方に広がり、散らばって、正確に位置を示すことも名付けることも難しい恐怖が、いまや焦点を合わせることのできる、具体的な標的をもつことになる。危険がどこにあるかが分かっているので、もはや不運におとなしく甘んじる必要はない。やっとのことで、自分で打てる手が現れるのである。(『コミュニティ 安全と自由の戦場』)

バウマンは、「名付けることができない脅威について心配することは難しい」が、「その矛先を安全上の懸念に振り向けること」によって「ありありと目に見えるものになる」という。それが「よそ者の存在」である。

中国人が「危険の化身」となってしまった

このような心理的なメカニズムを今回の騒動に当てはめると、新型コロナウイルスという脅威があらゆるメディアを通じて喧伝された結果、「身体の保全」に関する極めて重大な事件と認識され、中国人が「危険の化身」として浮かび上がったといえる。

この場合、観光客として訪れている中国人と、現地で暮らしている中国人の差異は突如として消え失せ、その姿・言語・立ち振る舞いなどによって瞬時に境界線が引かれることとなる。それが日本においては、外国人のうちの「中国人」を差別する形で表れ、外国においては「中国人を含むアジア系全体」を差別する形で表れているのだ。

これは欧米において、わたしたちが考えているよりも「アジア系」が見た目で一括りされている事実とも符合する。前出の「アジア系住民全員が保菌者」として扱われる事態は、「正確に位置を示すことも名付けることも難しい恐怖」を、特定の集団からもたらされたものとして受け取ることを意味しているのだ。これは前述した通り究極的には誰もが「危険の化身」になりうる。

今後の進展の仕方によっては、同じ日本人同士でもこのような差別が行われる可能性があるだろう。中国では自国民から「武漢の住民や滞在者」を切り離し、後者を差別し始める風潮が表れたが、日本でも仮に集団感染が発生すれば、その町や村どころか、市や県の住民を丸ごとカテゴリー分けする事態が想定される。そうして差別的な対応が横行することだろう。

2011年の東日本大震災のときに原発事故により避難した福島県の住民が、避難先で「放射能」のスティグマ(烙印)を押されて差別されたことと同様である。すでにインターネット上では、政府が武漢からのチャーター便で邦人を帰国させることを決定した際、「帰国させるな」「武漢にいろ」などという批判が見られた。

デマやフェイクニュースなどとの化学反応が怖い

このような考え方がデマやフェイクニュースなどと化学反応を起こすと、入店禁止どころか暴力を扇動する最悪の事態を招きかねない。つい先日、私が訪れた居酒屋で50代くらいの会社員が「中国では2万人以上が新型肺炎で死んでいる」とまくし立て、「生物兵器の可能性が高い」と断言していた。

今後、加速度的に増える可能性はあるものの、実際にこの原稿を執筆している2月1日時点における死者は全世界でも300人を超えていない。こういった根拠のない噂で大騒ぎしている人々は少なくないと思われる。

複数の専門家や医師が「コロナパニック」について、冷静になるよう注意を呼びかけ、積極的な情報発信に乗り出している。テレビやネットを見ると、国内で感染者が増える新型肺炎の話題で持ちきりだ。中国内における新型コロナウイルスが原因とみられる肺炎の死者は、2002〜2003年に流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)での中国本土の死者349人を上回った。

ただ、そもそもこの時期のポピュラーな病気であるインフルエンザの流行においても死者は出ている。厚生労働省によれば直接的な要因のほかにも、例えば持病を患っていたり、体力が低下していたりなどの間接的な要因も含めてインフルエンザの流行によって生じた死亡を推計する「超過死亡概念」で考えると、インフルエンザによる年間死亡者数は、世界で約25万〜50万人、日本で約1万人と推計されている。


画像をクリックするとコロナウイルスに関連する記事の一覧にジャンプします

にもかかわらず、インフルエンザとなるとワクチンを打っていない人々は意外に多い。つまり、新型コロナウイルスによる新型肺炎については未知なる病気に対する警戒はわかるが、実際上のリスクに見合った怖がり方ではない一種の恐怖症(フォビア)に陥っているのだ。わたしたちは、そもそも多様な不安から逃れられない世界に生きていることを自覚したうえで、「特定の他者」をそれらの原因とみなす安易な解決法に流されない心構えが必要と言えるだろう。