(姫田 小夏:ジャーナリスト)

 今どきの中国人は「ウィーチャット(WeChat)」(中国名は「微信」)がないと生きてはいけない。中国では、今やありとあらゆるサービスをこのプラットフォームが提供する。名刺交換も、ウィーチャットのID交換にとって代わられるほどである。

 ウィーチャットとは中国IT企業大手のテンセントが提供するSNSアプリだ。アクティブユーザーは全世界で毎月10億人に上る(『2018ウィーチャット年度データ報告』)。

 ウィーチャットは、LINE(ライン)のようなチャット機能とFB(フェイスブック)のような情報発信機能を備えている。毎日450億の情報発信が行われるというチャット機能の拡散力はすさまじい。中国では、「反日ムードが友好ムードに一転したのも、このウィーチャットの力ではないか」と受け止める人もいる。

 ウィーチャットユーザーは自分のアカウントと銀行口座を紐づけることで、キャッシュレス決済も行える。テンセントが提供する「ウィーチャット支払(ウィーチャットペイ)」機能は、アリババの「支付宝(アリペイ)」とともに中国キャッシュレス決済の二大双璧を成している。

コンビニでの支払いもウィーチャットで(上海のコンビニで筆者撮影)


 もともとウィーチャットのサービスは1999年に「QQ」というチャット機能から始まった。当初はユーザーは匿名だったが、今では実名登録制となっている。住所、氏名、身分証の番号、会社名、仕事内容、銀行口座番号など、さまざまな個人情報を入力することで、初めて多種多様なサービスを享受することができる。

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ウィーチャットをやらない老人は「切り捨て」

 上海では今、このウィーチャットアカウントを持っていないとパスポート申請もできない。上海在住の日本人女性・畠田瑞穂さん(仮名)は最近こんな光景を目撃した。

「その日、中国人の夫のパスポートを更新するために公安局の出入国管理事務所を訪れました。中に入ると、突然『老人は海外へ行くなというのか! 俺はスマホも持っていないし、ウィーチャットも知らないんだ!』という怒鳴り声を耳にしました。見ると、おじいさんが事務所の担当者と喧嘩していたんです。担当者は『家族か友人を呼んで出直して来い』と冷たく言い放って、相手にしない様子でした」

 畠田さんによると「そもそもパスポート更新を申請するとき、番号札を取るところから『ウィーチャット』がないとダメ」なのだという。現在、多くの企業や地方自治体が、ウィーチャットのアプリ上でサービスを提供している。上海市も、公安局がパスポート申請の際の予約や整理番号の配布に、ウィーチャットのアプリを利用しているのだ。畠田さんは「スマホを持たない人を誘導する係員がいるにはいるんですが、待っていても誰も来てくれません。態度も悪いので“IT弱者”はみんな困っていました」と言う。もはや中国は、ウィーチャットがないと、公的機関が交付する文書ですら手に入れられないという状況なのだ。

 筆者は、政府系企業に勤務し、ITソリューションに詳しい張帆さん(仮名)に、この状況をどう思うか意見を尋ねてみた。すると返ってきたのは、「高齢者を気にしていたら中国は発展しませんよ」というシビアなコメントだった。「人口の2割を切り捨てるのが中国のやり方です」と実にあっけらかんと言い放つ。スマホを使えない人のことなんて、かまっていられないというわけだ。

公安が即座にやって来て拘束された

 だが、強い抵抗感を抱いているのが在外の華人・華僑たちだ。

 日本での生活が20年になる林麗麗さん(仮名、女性)は、すでに持っているウィーチャットのアカウントを作り直そうとした。クラウドサービスなどウィーチャットの新しい機能を使えるようにするためだ。しかし、あまりにも「個人情報」入力の要求が多いので途中で断念した。「便利になるのはわかっていますが、やっぱり怖くなりました」と言う。

 林さんは、「ウィーチャットを使って本音を発信すると、とんでもないことが起こる」とも指摘する。中国に在住する親戚の男性が、ある騒動に巻き込まれたというのだ。

「彼の住んでいる住宅の隣接地でマンションの建設が進められています。その開発事業者についてウィーチャット上でちょっと文句を言ったら、すぐに、彼の自宅に公安が飛んできたんです。そして、彼に向って『余計なことを言うな』と凄んだそうです。ウィーチャット上の情報発信は公安から見張られているんです。その話を聞いて、思わず背筋が寒くなりました」

 上海出身で日本在住の男性、王威さん(仮名)もこう語る。

「私のような海外での生活が長い中国人は、中国企業が提供する配車サービスやキャッシュレスサービスを中国で利用することができません。これらのサービスは基本的に、中国在住者および中国に銀行口座がある人を対象にしているためです。最近は状況が変わって外国人でも利用できるようになったようですが、私は手続きを進めていません。これ以上深く中国とは関わりたくないからです」

検閲は国境を超える

 中国政府がネット上の情報発信を厳しく監視していることは周知の事実だ。

 アメリカに本部を置く人権擁護国際NGO団体「フリーダム・ハウス」によれば、「習近平」「共産党」「天安門事件」「人権」などが“特定キーワード”として監視されているという。2013年の時点では、200万人を超える監視従事者がいる(『新京報』)とされていたが、2017年にサイバーセキュリティを強化するための法律「インターネット安全法」が制定され、さらに監視が厳しくなった。

 近年は市民のたわいのないチャットでさえも監視されるようになった。山東省では、若い女性が「疫病が発生したようだから豚肉や鶏肉を食べないようにしなければ」という内容をウィーチャットに書き込んだだけで、6〜7人の公安局員が自宅に踏み込んできた。友人同士の会話だったが、「デマを流した」という罪を着せられ、当局に連行された。一部始終がスマホで撮影されており(その女性が自分から仕掛けて隠し撮りさせた可能性もある)、その映像が香港メディアのサイトに掲載されている。筆者も見たのだが、さすがにゾッとした。

 拘束には至らないもののアカウントを凍結されるケースもある。「甥がウィーチャットのアカウントを凍結された」と話すのは、上海の大手商社(中国企業)に勤務する李小建さん(仮名)さんだ。「友人とのチャットで、彼はうっかり“特定のキーワード”を使ってしまったんです。案の定、即刻ウィーチャットのアカウントが使えなくなってしまいました。気の毒だったのはその先で、ウィーチャットペイにプールしているお金も動かせなくなってしまったのです」

 中国政府による監視は今や国境を越える。筆者は、中国以外の国でも使えるグローバル版のウィーチャットを使って、上海在住の日本人とメッセージをやり取りしているが、「中国の政治の話だけは送らないで下さいね」とクギをさされた。中国系アメリカ人がウィーチャットを使って「香港デモを支持する言論」を発信したところ、中国政府の検閲によってアカウントが停止されたケースもある。

中国は「地球上で最も不自由な国の1つ」

 中国では、友人と連絡をとるにも、支払いをするにも、デリバリーを頼むにも、何をするにもウィーチャットを使えば素早くできる。多くの市民はこれこそが「生活水準の向上」だと受け止めている。

 それに対して李さんは、「ウィーチャットがなければすべてが立ち行かなくなります。中国で生活するには、この状況を受け入れるしかないのです」という。

 フリーダム・ハウスは、中国は「地球上で最も不自由な国の1つだ」としている。その自由度は100点満点でわずか11点である(2019年、日本は96点)。しかし、中国の人々は「便利だ、便利だ」と言いながら、監視社会という大きな鳥かごの中に知らず知らずのうちに取り込まれている。人としての尊厳があるのかという思考の余地すら与えられないまま。

筆者:姫田 小夏