日本と海外の外国語教育にはどのような違いがあるのでしょうか?(写真:kikuo/PIXTA)

このコラムにはコメント欄が付いていて、毎回読ませてもらっています。貴重なご意見ありがとうございます。その中で、たびたび指摘があるのが、日本の英語教育制度についてです。そこで今回はいつもとは少しコラムのテーマを変えて日本と海外の外国語教育の違いについて、私の意見も述べながら書いてみたいと思います。

私の祖国カナダでは、公用語が英語とフランス語です。まず、公用語が複数あると聞くと、日本の方には特殊なように聞こえるかと思いますが、世界の多くの国は複数の公用語を使っています。例えばスイスでは4つ、インドでは州の公用語も含めるとなんと22の公用語があります。こうした複数の公用語を持つ国では、当然子供のころから複数の言語に触れて育ちます。

「イマージョン教育」でフランス語を習得

カナダの場合、すべての地域で製品のラベルや標識、ウェブサイトも英語フランス語併記が原則です。私が大学のときに住んでいたカナダのトロント(オンタリオ州)をはじめ大体の地域は英語圏で、住民は基本的に英語を使います。小学校2年生からフランス語の授業が義務づけられており、ほとんどはある程度のフランス語の読み書き、会話が問題なくできます。

一方ケベック州だけはこの逆で、市民は基本的にフランス語を話し、2年生から英語の授業が義務化されており、日常に困らない程度の英語を身に付けています。

カナダでわれわれが受けてきたフランス語の授業は、文法という概念を教えることはほとんどなく、「イマージョン」といわれる方法で語学以外のすべての授業がフランス語で行われ、外国語の洪水の中で自然にコミュニケーションが取れるレベルになります。

日本でも来年から小学校で英語の授業が義務化されます。実は私はIT業界の仕事をする前、香川県で文科省の国際交流員の仕事をしていました。そのとき地方都市での英語学習の実態を見てきた経験からみて、英語教育について2つの課題を感じています。

1つは英語ネイティブの「ALT(Assistant Language Teacher)」の偏在です。私が勤務していた地域では、1人のALTが20校もの学校を巡回しなければならず、ネイティブな先生の英語に触れられる機会は月に1回という学校もありました。こうなるとカナダの例のようにイマージョンというレベルの授業には程遠く、授業の進め方には相当な工夫が必要でしょう。

もう1つはまさにその授業の進め方です。私が教育の仕事に関わっていたのは10年以上前なので、その頃よりは会話重視の授業に変わってきているようですが、どうしても暗記と文法主体の英語学習に偏りがちです。

英語授業の本来の目的はコミュニケーションがとれるようになることです。文法は不要とは思いませんが、現在平均的な日本人が持っている非常に高い英文法の知識までは必要ないかと思います。英語学習において「知識を得ること」「間違えることはよくないこと」という感覚は他の教科以上に排除すべきです。

語学は音楽やスポーツと同じ

例えば体育の授業でサッカーのパスができない子がいた場合、どう教えるでしょうか。何度も失敗して、そこから感覚を徐々に身に付けてできるようになります。「パスの方法をカードに書いて丸暗記しよう」「パスの練習は恥ずかしい」というアプローチでは、上達は期待できないはずです。

英語は学問でなくコミュニケーションなので、スポーツ、あるいは音楽と同じように感覚として身に付けるべきなのですが、それだけの経験を積む機会が作れないということが課題なのだと思います。

こうした課題は指摘されて久しいと思いますが、結局のところ教育にかける予算やリソースが追いついていないという問題が立ちはだかります。とくに私が勤務していたような地方都市になればそれは深刻です。しかもこの問題は英語だけではありません。やや脱線しますが、2020年から小学校で義務化されるプログラミング教育も、同じような課題を抱えています。

この2つがいかにつながっているのか説明します。

東洋経済オンラインをお読みになっているビジネスパーソンならご存じの通り、現在あらゆるものがインターネットにつながってインテリジェントになる、インテリジェント・トランスフォーメーションの節目にわれわれは立っているといえます。AIによって仕事がなくなるという人もいますが、一方でデータサイエンティストのような仕事が世界的に花形の職業となる可能性もあり、子どもの頃から英語とともにプログラミングを学習させることは、これからの時代にあったすばらしい政策といえます。

しかも、プログラミング授業ではパソコンやタブレットが使われます。このITデバイスをうまく英語教育にも使えばこれぞまさに一石二鳥(ちなみにこの四字熟語はもともと英語です)で、ネイティブな先生と1日1時間ビデオチャットで(あるいはVRならさらにすばらしいかもしれません)英語を話す経験ができれば、先に指摘したコミュニケーションの機会は飛躍的に増える可能性があります。

ところが現実には、プログラミング教育に必要なパソコンすら満足に学校で用意できないという課題があります。つい最近、文科省がまとめた資料によると、プログラミング授業の導入状況について、大規模な自治体ではすでに約7割が授業を実施しているにもかかわらず、小規模な自治体では30%を少し上回っただけということで、自治体の格差が懸念されています。

本来地域に関係なく、個人の才能を世界につなげるはずのITが、逆に格差を生むようなことになってはいけないと、大いに懸念を持っています。この問題は行政だけに任せず、われわれIT業界に取り組んでいかなければならないと考えています。

母国語の違いがハンデになる可能性も

と、たまにはIT企業の経営者らしいことを言ってみました(笑)。語学とテクノロジーについてもう1つ、経営的な視点のお話をします。

私の知る限りニュートン物理学というものは世界のどこにいっても同じ実験結果を示し、母国語がなんであれ数学をかじった人であればフェルマーの最終定理が究極の難問であることはわかります。

STEM(Science、Technology、Engineering、Mathematics)の素養は国境や言語に関係なく公平に評価されるスキルなのです。だからこそ、世界に出ていくためのハンデはコミュニケーションにあることは明白で、私の会社でもとくに技術職には語学の習得を頑張ってもらい、いつでも世界デビューしてもらえるよう応援しています。

このことを、視点を変えて捉えると日本など非英語圏には、母国語の違いがハンデとなって世界に出てきていない優れた人材が多数眠っているということにもなります。昨今グローバル企業がダイバーシティーを進めているのも、人材の多様性にあるこうした可能性に注目しているためです。

今回は、私自身が教育というものをライフワークとして捉えているので、つい熱が入ってしまいました。AIなどの発展で、これから物事の基準が大きく変わっていくことは間違いなく、英語のスキルが不要になる時代が訪れるかもしれません。しかし、その時代に求められる教育について議論することは意味のあることです。そして、日本で本当によい英語教育が行われるかどうかの節目のタイミングは今なのです。