【松木安太郎の転機】初めは揶揄されていたテレビの仕事
サッカー番組や情報番組のコメンテーターとして大人気の松木安太郎は、サッカーで数々の栄光を手にした。ラモス瑠偉など個性派の多かった読売クラブ(現東京ヴェルディ)でキャプテンを務め、日本代表にも選ばれた。監督になってもJリーグ初年度、翌年と最初から栄冠を手にし続けた。
いつでも華やかな松木だが、実は苦労人でもある。高校時代には中高一貫校からサッカーのために転校しなければいけなくなった。監督を辞め、始めたテレビの仕事は朝の情報番組のコメンテーター。非難も浴びつつ分野の違う世界に挑戦しなければならなかった。
松木の激動の人生の中には何度も転機が訪れ、松木は何度も気持ちを切り替えながら明るく乗り切ってきた。そんな松木だからこそ、転機を迎えようとしている人たちに贈れる言葉があった。
僕の転機って、いっぱいありましたよ。毎日の「天気」と同じぐらい「転機」があった(笑)。小学生でサッカーを始める前は、人形劇団「木馬座」にいたこともあります。
暁星中学に入学して読売クラブに入ったとき、友だちからは「なんでサッカーなんかやるんだ?」って言われてました。読売クラブの練習が忙しくなって暁星高校から堀越高等学校に転校しなきゃいけなくなったときは悩みましたよ。
当時の暁星の同級生からは、「サッカーなんかやってたって将来何にもならないんだから、そんなの辞めろよ」って言われましたよ。でもそう言ってた人たちが、Jリーグができたら、「お前、本当にサッカー続けててよかったな」って言ってたんですけどね。評価って後でいろいろ変わりますから。現役のとき、僕は「激しいプレー」って言われてたのが「人に強い」に変わったりしましたし。
読売クラブじゃ、選手のときはもちろん悩んだけど、キャプテンになった1983年も転機でしたね。「チームをまとめなきゃいけないのか?」と思ったけど、「別にキャプテンだからって何か変わるわけじゃないから、ただひたすら一生懸命やるしかない」って思い直してね。
選手からコーチになり、1993年にはヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の監督になってね。監督になってもね、難しさというのはありました。未熟さもあるし。ただ、そこでよかったのは若さっていうのがあって、と言うより若さしかないじゃないですか。その若さがいい意味でも悪い意味でも、自分を助けてくれたんですよ。
監督をやるとき、10人に相談したら10人とも「やめたら?」って言ってたんですよ。まぁたぶん、ベテランの人だったらあのときのヴェルディの監督は断ってたでしょうね。強かったから負けるとすぐ批判されてたしね。
今の世の中、ヨーロッパとか南米とか、アフリカとか、そういう垣根は全くない時代ですよね。僕が昔狙ったのは、ヨーロッパ型と南米型の融合で、南米のようなテクニックを持ってるちゃんと組織だったチームという形だったんですよ。まさに今、日本代表や世界中のチームが向かっているところじゃないですか。
ヴェルディの監督を辞めるっていう転機は自分で決めました。チーム内に僕のポストはそれなりに残ってたんですけど、僕の生き方として「トップまで行ったらその組織でやることはもうない。監督を退くときは辞めるときだ」と思ってましたからね。プロである以上は、そうあるべきだと思ってたから。
それが正しいか間違ってるかわからないですけど、僕の生き方はそれだなって思って。うちのオフクロは亡くなる前に、「お前はもうちょっと生き方考えれば楽に生きられるんだけどなぁ」って、冗談交じりで言ってました。
1回目のヴェルディの監督を辞めた後からテレビの仕事をやらせてもらうんですけど、あのときサッカー界はすごく冷たかったですね。「なんでお前、テレビの仕事をするんだ?」っていう時代ですからね。今とは全く違いますね。
その後1998年にはセレッソ大阪でも監督をするんですけど、セレッソもちょうど環境が変わるころでね。大阪でのオリンピック開催を目指して舞洲を整備していて、セレッソの練習場は仮のグラウンドで、風が強くて風呂もないようなところでやってましたからね。僕もそうだし、セレッソにとっても転機でしたね。
そんないろんな時代を過ごしましてね、今考えると、一番自分が悩んだり苦しんでるときが、実は僕の場合はすべてチャンスになったんです。そう僕は感じますね、今。転機(天気)が全部「ハレ」(晴れ)につながった。全部その転機が自分のチャンスを連れてきてくれてたんです。
キャプテンになったとき、すごく悩んだけど、そうしたらその年、読売クラブが日本サッカーリーグで初めて優勝したんですよ。ヴェルディの監督になった年も優勝できたし。
苦しいときでもやっぱりチャレンジしたからこそ、その答えが出るわけで。酸いも甘いもわかってる大人は、「そんな挑戦はしなくていいんじゃないの?」っていう方向で答えを出す人が多いんですけどね。でも僕は変なところ頑固だから、自分で決めたいっていうのがあって。それがいいに付け悪いに付け、自分の人生で転機になってるのかなって。
解説者になったのもチャンスがあったというか。NHKから声をかけてもらって、「NHKニュース おはよう日本」に出ることになったんです。そのときに思ったのは、選手が移籍したときと同じように自分も気を付けようって。
移籍したあとに前のチームのことを忘れられない選手は、大成しないんですよ。新しいチームでもう1回勝負しなきゃいけないんだから。違う場所に行ったんだから、「オレは昔ヴェルディにいた」と言っても鼻も引っかけられないですよ。そこでがんばんなきゃ。
テレビの世界でもテクニックがありますからね。僕はNHKで、最初のころはアナウンサーの山本浩さんにいっぱい勉強させてもらいました。いろいろ話も聞いたし。「おはよう日本」を最初にやり始めたころはプロデューサーが鍛えてくれたんです。
短い時間で視聴者にわかるように話さなきゃいけない。だから必要のないものをどんどん削っていかなきゃいけない。しかも台本があるわけじゃないんで、その場で考えなきゃいけない。そこからスタートしてますからね。
テレビの業界に入ったときに、お笑いだったり、いろんな人たちとお話しすると感心することがたくさんあったんです。見えないところでみなさん努力だったり、勉強されてるんですよ。画面ではそれが見えないだけでね。
学ぶのは選手のときと一緒でしたよ。選手のころ、一緒に仕事をした方々からいろんなものを吸収していくじゃないですか。たとえば先輩と飯食ったり飲んだりしてるときに、しばらく話をしているとサッカーの話題になったりするでしょう? プレーの話とか。
そこで1つか2つは、「ははぁ、こうやって考えてるのか」と参考になることがあるので。違う世界に行けばまた新しいものに対して「この人は何考えてるのかな?」って質問したりして教わることがあって。スポーツ界とは違う世界で勉強ができるというのは、すべてにおいて興味を掻き立ててくれましたね。
サッカーの現場も大変だし、僕は現場から離れる大変さもわかってるし。普通は現場から離れれば仕事はないですし、他の仕事をするというのは、それなりのリスクを抱えるわけですから。僕はそういうリスクも飲み込みながらやってきました。だからね、よく頑張ってますよ(笑)。
ただ、転機ってパワーいるんですよ。パワーがいるけど、そのパワーの源になる、新しいことへの興味深さってありますよ。そこで「楽しむ」というと言葉はきれいすぎるけど、何か興味を持っていけちゃう、「え、この人何考えてるんだろう?」とか、「どんなことやってるんだろう?」とか、そういうものが力になっていくと思うんですよね。
転機のときってうまくいかないことが多いですよね。挫けることはたくさんあって。でも僕の場合はどんな転機の前も、いろいろ挫けてたから。それはもう、免疫ができますよ。そういう意味じゃ、順風満帆に来た人とは違ってて。
いろいろ転機があったおかげで、また違う世界を見てたから、いつも新しい環境の中で、「何かしなきゃいけない」ってやってたのがよかったと思いますね。せっかくいい湯加減になってきたお風呂から外に出ちゃってたなっていう思いは、良しあしはさておき、あるんですけどね。
自分なりに生きて勝負してきましたからね。そこはプライドがあったんでしょうね。転機でそういう考え方を持ってるから、チャンスだったり「ハレ」にできたのかなって思いますけどね。
転機はチャンスだと思ったほうがいいけど、そのときは苦しいとか、うまくいかないっていうことのほうが先だから、なかなかわからない。でも、多かれ少なかれ自分と似たような経験をした人から見ると、そこはチャンスだから「苦しくても頑張ってみな」って。
続けたほうがいいか、続けても出口がないんじゃないかって思うことはたくさんありますよ。僕も迷ったし、過去には本当にこの仕事を続けていいのかって思ったことはあるんです。あとで考えると迷ったことも苦しんだことも大事だったし。ただやっぱり、やっててよかった、続けててよかったって、そこは今振り返ってみると思うんですよ。
苦しくても「これがチャンスだ」って思ったら、少し気が楽になるんじゃないかな。壁を崩すときって、僕はどっかに穴があるんじゃないかと思ってるから。時間はかかるかもしれないけど、右に行って左に行って、ダメだったら上や下に行きますよ。そういう勇気と力を持つためには、興味深さしかないよね。そこで自分が楽しむというか喜ぶというか。
あと、ほどよく悩んでる人たちと自分の気持ちを共有できるといいですよね。逃げるんじゃなくて。「オレ今、ホント苦しい」って話せる友人がいたらいいんじゃないかな。
僕は苦しいと思ってても言えないタイプだったんだけど、それがどこかで変わったんですよ。あるとき急に言えるようになった。それは自分を楽にさせる一つの方法、コツかもしれないなって。親だったり、友達だったり、そう何人も必要ないけど、腹割って話せるやつがね、大事だよね。
あとは僕のことをダメだなって思って正直に言ってくれる人も必要ですよ。ただ僕の場合は、そんな言葉に対抗していくからね。「ナニクソ!」って思って。弱ってるときに言われると傷に塩を塗り込まれている感じがするけど、それも何回かやってると強くなるんだよね。
やっぱり挫折感はあったほうがいいと思いますよ。どんな仕事をしても。挫折感のないヤツは多分無理だよな。挫折感は大いに持っていいと思うな。挫折しちゃダメだけど。挫折感って自分のどんな場面にもあったし、それが免疫に変わるんですよ。
ただ挫折感を持ったら、しばらく思いっきりその仕事から遠ざかったりするのもいいし、いろんなことをしていいと思う。合法的な部分であればね(笑)。
自分の中でしか解決できないことって多いから、自分が心地よくて頑張れる言葉を探したり、考え方を探すのもいいと思いますよ。「こうしなきゃいけない」っていうんじゃなくて、どっかで逃げ道を探しながらやっていくのが人間にとって大事なのかなって。自分をわかってもらえる世界もなきゃダメですよ。
そういう逃げ道をなくすのが、昭和の人たちのいけないとこかな(笑)。「こうであっちゃいけない、こうしなきゃいけない」という考えが人を苦しめてたというか。それがなさ過ぎてもよくないけどね。今はなさすぎの部分もあるよね。自分を律する部分は必要ですよ。
今の人は僕たちのときと違って、自分の中で籠もっちゃうことが多い感じがしますね。だって僕たちは籠もれなかったもん。どっかでバレちゃって。そのバレちゃうというか、他人にわかられちゃうというところが大事かもしれないし。だから今の人たちはもっと苦しむかもしれないね。
でも、今の時代は意固地にならなきゃ、転機も見つかりやすいだろうと思いますよ。グローバルなところまでちょっと視野を広げれば、すごく楽になれる答えってたくさんある。転機はチャンスになるって、忘れちゃダメだと思いますね。(了)
松木安太郎(まつき・やすたろう)
1957年11月28日、東京都生まれ。小学校から中学校まではGKとしてプレーしていたが、高校1年生でDFにコンバートされると翌年にはトップチーム入り。その後、日本代表の左サイドバックとして活躍した。監督としても指揮した4年間で2回の優勝を果たしている。
いつでも華やかな松木だが、実は苦労人でもある。高校時代には中高一貫校からサッカーのために転校しなければいけなくなった。監督を辞め、始めたテレビの仕事は朝の情報番組のコメンテーター。非難も浴びつつ分野の違う世界に挑戦しなければならなかった。
【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平】
みんなから「やめたら?」と言われた監督業
僕の転機って、いっぱいありましたよ。毎日の「天気」と同じぐらい「転機」があった(笑)。小学生でサッカーを始める前は、人形劇団「木馬座」にいたこともあります。
暁星中学に入学して読売クラブに入ったとき、友だちからは「なんでサッカーなんかやるんだ?」って言われてました。読売クラブの練習が忙しくなって暁星高校から堀越高等学校に転校しなきゃいけなくなったときは悩みましたよ。
当時の暁星の同級生からは、「サッカーなんかやってたって将来何にもならないんだから、そんなの辞めろよ」って言われましたよ。でもそう言ってた人たちが、Jリーグができたら、「お前、本当にサッカー続けててよかったな」って言ってたんですけどね。評価って後でいろいろ変わりますから。現役のとき、僕は「激しいプレー」って言われてたのが「人に強い」に変わったりしましたし。
読売クラブじゃ、選手のときはもちろん悩んだけど、キャプテンになった1983年も転機でしたね。「チームをまとめなきゃいけないのか?」と思ったけど、「別にキャプテンだからって何か変わるわけじゃないから、ただひたすら一生懸命やるしかない」って思い直してね。
選手からコーチになり、1993年にはヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)の監督になってね。監督になってもね、難しさというのはありました。未熟さもあるし。ただ、そこでよかったのは若さっていうのがあって、と言うより若さしかないじゃないですか。その若さがいい意味でも悪い意味でも、自分を助けてくれたんですよ。
監督をやるとき、10人に相談したら10人とも「やめたら?」って言ってたんですよ。まぁたぶん、ベテランの人だったらあのときのヴェルディの監督は断ってたでしょうね。強かったから負けるとすぐ批判されてたしね。
今の世の中、ヨーロッパとか南米とか、アフリカとか、そういう垣根は全くない時代ですよね。僕が昔狙ったのは、ヨーロッパ型と南米型の融合で、南米のようなテクニックを持ってるちゃんと組織だったチームという形だったんですよ。まさに今、日本代表や世界中のチームが向かっているところじゃないですか。
ヴェルディの監督を辞めるっていう転機は自分で決めました。チーム内に僕のポストはそれなりに残ってたんですけど、僕の生き方として「トップまで行ったらその組織でやることはもうない。監督を退くときは辞めるときだ」と思ってましたからね。プロである以上は、そうあるべきだと思ってたから。
それが正しいか間違ってるかわからないですけど、僕の生き方はそれだなって思って。うちのオフクロは亡くなる前に、「お前はもうちょっと生き方考えれば楽に生きられるんだけどなぁ」って、冗談交じりで言ってました。
1回目のヴェルディの監督を辞めた後からテレビの仕事をやらせてもらうんですけど、あのときサッカー界はすごく冷たかったですね。「なんでお前、テレビの仕事をするんだ?」っていう時代ですからね。今とは全く違いますね。
その後1998年にはセレッソ大阪でも監督をするんですけど、セレッソもちょうど環境が変わるころでね。大阪でのオリンピック開催を目指して舞洲を整備していて、セレッソの練習場は仮のグラウンドで、風が強くて風呂もないようなところでやってましたからね。僕もそうだし、セレッソにとっても転機でしたね。
大成しない選手が忘れられないこととは
そんないろんな時代を過ごしましてね、今考えると、一番自分が悩んだり苦しんでるときが、実は僕の場合はすべてチャンスになったんです。そう僕は感じますね、今。転機(天気)が全部「ハレ」(晴れ)につながった。全部その転機が自分のチャンスを連れてきてくれてたんです。
キャプテンになったとき、すごく悩んだけど、そうしたらその年、読売クラブが日本サッカーリーグで初めて優勝したんですよ。ヴェルディの監督になった年も優勝できたし。
苦しいときでもやっぱりチャレンジしたからこそ、その答えが出るわけで。酸いも甘いもわかってる大人は、「そんな挑戦はしなくていいんじゃないの?」っていう方向で答えを出す人が多いんですけどね。でも僕は変なところ頑固だから、自分で決めたいっていうのがあって。それがいいに付け悪いに付け、自分の人生で転機になってるのかなって。
解説者になったのもチャンスがあったというか。NHKから声をかけてもらって、「NHKニュース おはよう日本」に出ることになったんです。そのときに思ったのは、選手が移籍したときと同じように自分も気を付けようって。
移籍したあとに前のチームのことを忘れられない選手は、大成しないんですよ。新しいチームでもう1回勝負しなきゃいけないんだから。違う場所に行ったんだから、「オレは昔ヴェルディにいた」と言っても鼻も引っかけられないですよ。そこでがんばんなきゃ。
テレビの世界でもテクニックがありますからね。僕はNHKで、最初のころはアナウンサーの山本浩さんにいっぱい勉強させてもらいました。いろいろ話も聞いたし。「おはよう日本」を最初にやり始めたころはプロデューサーが鍛えてくれたんです。
短い時間で視聴者にわかるように話さなきゃいけない。だから必要のないものをどんどん削っていかなきゃいけない。しかも台本があるわけじゃないんで、その場で考えなきゃいけない。そこからスタートしてますからね。
テレビの業界に入ったときに、お笑いだったり、いろんな人たちとお話しすると感心することがたくさんあったんです。見えないところでみなさん努力だったり、勉強されてるんですよ。画面ではそれが見えないだけでね。
学ぶのは選手のときと一緒でしたよ。選手のころ、一緒に仕事をした方々からいろんなものを吸収していくじゃないですか。たとえば先輩と飯食ったり飲んだりしてるときに、しばらく話をしているとサッカーの話題になったりするでしょう? プレーの話とか。
そこで1つか2つは、「ははぁ、こうやって考えてるのか」と参考になることがあるので。違う世界に行けばまた新しいものに対して「この人は何考えてるのかな?」って質問したりして教わることがあって。スポーツ界とは違う世界で勉強ができるというのは、すべてにおいて興味を掻き立ててくれましたね。
サッカーの現場も大変だし、僕は現場から離れる大変さもわかってるし。普通は現場から離れれば仕事はないですし、他の仕事をするというのは、それなりのリスクを抱えるわけですから。僕はそういうリスクも飲み込みながらやってきました。だからね、よく頑張ってますよ(笑)。
どんな仕事にも挫折感はあったほうがいい
ただ、転機ってパワーいるんですよ。パワーがいるけど、そのパワーの源になる、新しいことへの興味深さってありますよ。そこで「楽しむ」というと言葉はきれいすぎるけど、何か興味を持っていけちゃう、「え、この人何考えてるんだろう?」とか、「どんなことやってるんだろう?」とか、そういうものが力になっていくと思うんですよね。
転機のときってうまくいかないことが多いですよね。挫けることはたくさんあって。でも僕の場合はどんな転機の前も、いろいろ挫けてたから。それはもう、免疫ができますよ。そういう意味じゃ、順風満帆に来た人とは違ってて。
いろいろ転機があったおかげで、また違う世界を見てたから、いつも新しい環境の中で、「何かしなきゃいけない」ってやってたのがよかったと思いますね。せっかくいい湯加減になってきたお風呂から外に出ちゃってたなっていう思いは、良しあしはさておき、あるんですけどね。
自分なりに生きて勝負してきましたからね。そこはプライドがあったんでしょうね。転機でそういう考え方を持ってるから、チャンスだったり「ハレ」にできたのかなって思いますけどね。
転機はチャンスだと思ったほうがいいけど、そのときは苦しいとか、うまくいかないっていうことのほうが先だから、なかなかわからない。でも、多かれ少なかれ自分と似たような経験をした人から見ると、そこはチャンスだから「苦しくても頑張ってみな」って。
続けたほうがいいか、続けても出口がないんじゃないかって思うことはたくさんありますよ。僕も迷ったし、過去には本当にこの仕事を続けていいのかって思ったことはあるんです。あとで考えると迷ったことも苦しんだことも大事だったし。ただやっぱり、やっててよかった、続けててよかったって、そこは今振り返ってみると思うんですよ。
苦しくても「これがチャンスだ」って思ったら、少し気が楽になるんじゃないかな。壁を崩すときって、僕はどっかに穴があるんじゃないかと思ってるから。時間はかかるかもしれないけど、右に行って左に行って、ダメだったら上や下に行きますよ。そういう勇気と力を持つためには、興味深さしかないよね。そこで自分が楽しむというか喜ぶというか。
あと、ほどよく悩んでる人たちと自分の気持ちを共有できるといいですよね。逃げるんじゃなくて。「オレ今、ホント苦しい」って話せる友人がいたらいいんじゃないかな。
僕は苦しいと思ってても言えないタイプだったんだけど、それがどこかで変わったんですよ。あるとき急に言えるようになった。それは自分を楽にさせる一つの方法、コツかもしれないなって。親だったり、友達だったり、そう何人も必要ないけど、腹割って話せるやつがね、大事だよね。
あとは僕のことをダメだなって思って正直に言ってくれる人も必要ですよ。ただ僕の場合は、そんな言葉に対抗していくからね。「ナニクソ!」って思って。弱ってるときに言われると傷に塩を塗り込まれている感じがするけど、それも何回かやってると強くなるんだよね。
やっぱり挫折感はあったほうがいいと思いますよ。どんな仕事をしても。挫折感のないヤツは多分無理だよな。挫折感は大いに持っていいと思うな。挫折しちゃダメだけど。挫折感って自分のどんな場面にもあったし、それが免疫に変わるんですよ。
ただ挫折感を持ったら、しばらく思いっきりその仕事から遠ざかったりするのもいいし、いろんなことをしていいと思う。合法的な部分であればね(笑)。
自分の中でしか解決できないことって多いから、自分が心地よくて頑張れる言葉を探したり、考え方を探すのもいいと思いますよ。「こうしなきゃいけない」っていうんじゃなくて、どっかで逃げ道を探しながらやっていくのが人間にとって大事なのかなって。自分をわかってもらえる世界もなきゃダメですよ。
そういう逃げ道をなくすのが、昭和の人たちのいけないとこかな(笑)。「こうであっちゃいけない、こうしなきゃいけない」という考えが人を苦しめてたというか。それがなさ過ぎてもよくないけどね。今はなさすぎの部分もあるよね。自分を律する部分は必要ですよ。
今の人は僕たちのときと違って、自分の中で籠もっちゃうことが多い感じがしますね。だって僕たちは籠もれなかったもん。どっかでバレちゃって。そのバレちゃうというか、他人にわかられちゃうというところが大事かもしれないし。だから今の人たちはもっと苦しむかもしれないね。
でも、今の時代は意固地にならなきゃ、転機も見つかりやすいだろうと思いますよ。グローバルなところまでちょっと視野を広げれば、すごく楽になれる答えってたくさんある。転機はチャンスになるって、忘れちゃダメだと思いますね。(了)
松木安太郎(まつき・やすたろう)
1957年11月28日、東京都生まれ。小学校から中学校まではGKとしてプレーしていたが、高校1年生でDFにコンバートされると翌年にはトップチーム入り。その後、日本代表の左サイドバックとして活躍した。監督としても指揮した4年間で2回の優勝を果たしている。