【岩本輝雄の転機】一度Jリーグを辞めた後、なぜ復活できたのか
今ではAKBファンとしての顔も有名になった岩本輝雄だが、かつては日本代表の10番を21歳で背負ったサッカーエリートだった。1991年、湘南ベルマーレの前身フジタでプレーを始めると、「ドーハの悲劇」後の日本代表の中核にも選ばれる。
ところが2000年、サッカー選手として脂が乗っている28歳のとき、岩本はシーズン途中で自らヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)を辞める。その年は無所属で過ごし、そのままサッカー界からいなくなる可能性があった。
しかし岩本は復活する。強烈なインパクト力を持つ左足はますます威力を増し、人々の記憶に残るプレーを量産し続けた。一番苦しかったときに誰が岩本を救ってくれたのか。そして奇跡の復活劇はどうなされたのか。
自分にとっての転機は、一度Jリーグを辞めた後ですね。
高校卒業した1991年、フジタ(現・湘南ベルマーレの前身)に入って、そのままいい感じで日本代表に入り、若いうちからバーンと上がっていったんですけど、正直に思ったことを言ってたら、問題みたいになったこともあって。
問題児と言われてたんですけど、そうじゃないんです。自分の素直な意見をちゃんと言ってただけなんですよ。いいと思ったらそう発言するし、人と違ってても意見は言うから。もちろん「これが正しいかどうかは分からないけど」って一言付け加えますけどね。日本の社会ってあんまり意見をはっきり言わないじゃないですか。
それにフジタに入ったときは、まだ自分がどういう選手かって探っている時期だったんで、いろいろ言われたとおりにやりましたよ。実質監督だったニカノールコーチからは、いきなりサイドバックをやるように言われたりしましたし。
ニカノールは僕を左で使うからって、元々左サイドバックだったナラ(名良橋晃)を右に回したんです。けれど、自分はそんなポジションなんてやったことなかった。みんなはニカノールが僕をサイドバックにすると言ったら笑ってました(笑)。
自分はニカノールにめちゃくちゃ怒られまくってましたよ。ひどいぐらい。しかも毎日(笑)。怒られるのいつも僕だけ。他の人、誰も怒られない。
まぁ今考えると、いろんな人たちから「テル(岩本輝雄)、守備に関してはサイドバックとして難しいじゃん」という声があったと思うんです。でもニカノールはマークが厳しいサイドハーフより、フリーでボールが受けられるサイドバックのほうが生きると思ったんでしょうね。そういうニカノールの考えが分かってたから、自分は怒られてもよかったんです。
フジタはJリーグに入るのが遅れたから、1991年から1993年まで、Jリーグを目指して日本フットボールリーグ(旧JFL)でプレーしてました。それで1993年にJFLで優勝して、1994年からはJリーグに上がるんです。
Jリーグに上がったばかりのファーストステージは、JFLのときと同じサイドバックでプレーしてたんですけど、ボコボコにされて12チーム中11位になった。それでセカンドステージからは自分が一列前に上がって公文(裕明)さんが左サイドバックに入って、バランスが取れてチームの調子がよくなったんです。セカンドステージの結果は2位でした。
あの当時のベルマーレのメンバーはすごかったですからね。信藤(健仁)さん、反町(康治)さん、ノブ(小島伸幸)さん、名塚(善寛)さん、野口(幸司)さん、田坂(和昭)さんとか、ナラ(名良橋晃)もいて、みんな代表か元代表だったし、黄金メンバーですよ。
その1994年にロベルト・ファルカン日本代表監督に選ばれて、10番をつけて試合に出たんです。あれ、事前に番号を確認できなかったし、自分は、本当は6番のままでよかったんですよ。10番はノボリ(澤登正朗)さんでいいと思ってたし。
今になっては、ファルカン監督が10番をくれて、ありがたいってのはあるんですけど、でも当時、22歳の自分にはちょっと重荷でしたね。10番の若手選手が出てきたってことで、期待がすごい大きくて、マスコミに祭り上げられて。いいときはいいんですけど、活躍できなかったら一気に落とされた。
やっぱり若すぎて、まだ実力が伴ってなかった。もうちょっとあと、24歳ぐらいのときに代表に入っていったらよかった。いきなりポンと選ばれたから。しかもあの当時って、リーグ戦だけでも44試合で、水曜、土曜って試合が続くし、その間に代表戦だし、体力的にも大変でした。
それからサッカー関係者の中に僕が10番ってことで、いろいろ言う人もいました。自分で言うのも何ですけど、僕は結構気を遣うんですよ。分かってくれる人は分かってくれるんだけど、でも、分かんない人はワガママに見えちゃうみたいで。
実はワガママじゃないんですよ。自分の意見を持ってるだけで。相手の意見もちゃんと聞きますし、そこはちゃんと気を遣うから。サッカーがうまいヤツって気を遣えますからね(笑)。
1998年にベルマーレから京都パープルサンガ(現・京都サンガ)に移籍するんですけど、その京都でのシーズンは自分にとっていいものだったんです。でも1999年に川崎フロンターレ、2000年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に移籍したときは、いろいろ問題がありました。
川崎Fのときは試合に出なくてもトレーニングでは楽しくやってたんで、それはまだよかったんです。ですけど、V川崎に移籍したら監督と合わなくて。それが嫌で、5月に「残りの年俸はもういらない」ってチームを辞めたんですよ。
そのあとって、6月ぐらいからブラジルに渡ってトレーニングしてました。ブラジルはシーズン前のキャンプ中で、すごい走ってました。これくらいやらなきゃいけないんだって、もう一回トレーニングし始めて。
それで日本に戻って、家の近くのグラウンドで毎日トレーニングしたんです。たぶん、生まれた中で一番フィジカルトレーニングをやったってぐらい走ったんですよ。
まだ28歳の、サッカー選手としてちょうどいいときでした。それで10月、当時J2にいたベガルタ仙台の清水秀彦監督にお願いして、仙台のトレーニングに参加させてもらったんです。清水監督は京都にいたときの監督で、そこで知ってたから。そうしたら仙台の紅白戦に出してもらえたんですよ。
練習試合やったら、それまでずっとフィジカルトレーニングやったことが生きて、しっかり動けたんです。技術的なものは落ちないから。自分を鍛えるのに試合ってをやらなくてもよかったんです。基本と脳とフィジカルだけやっていれば落ちなかった。そうしたら清水さんが「仙台に来ないか?」って言ってくれたんです。
その仙台に行って、清水さんに会ったっていうのが転機でしたね。清水さんがいなかったら、自分はたぶん難しかったと思うんで。
それまで「Jリーグに戻るとしてもJ2じゃなくてJ1だな」って思ってたんです。でも他にチームもないし、「やってみようかな」って。それに自分は清水さんのサッカーの戦術や、フィジカルトレーニングがきついってのは、京都時代に分かってたから。
でも、そこまでにしっかりやってたから、練習を楽に感じることができた。みんなヘロヘロになってるんだけど、自分だけもう少しってやってました。「お前やりすぎだ」って言われたけど、「いや、これじゃ足りないから」って。
清水さんが使っていた4-4-2のシステムもそうなんだけど、パートナーもよかったですね。FWのマルコスとは相性が抜群でした。自分が入った2001年は新しいメンバーも多かったし。今の仙台の渡邉晋監督とかもヴァンフォーレ甲府から入ってきたりとか。
あとは清水さんはサイドからの攻撃が好きなんで。だから財前宣之や山田隆裕とかがいたでしょ? そういうすべてがうまくいったんですよ。仙台は街もよかった。サポーターも熱かったし。
清水さんは上から「やれ!」ってことはしない人で、僕の良さやいいところ引き出そうって監督だったんで。あの人の人間のでかさというか、人の扱いの巧さというか。清水さんは他に実力があるけどクセもあるって選手もうまく使ってたし。今は監督やってないけど、それはちょっともったいないと思います。
それでその年、16試合で15アシストぐらいしたんですよ。そんときの相棒にヘディングが強い189センチのマルコスがいて。
今もそうなんだけど背の高い選手って、いいボールが入っちゃうと止められないんです。自分はボールの正確性に自信があったし、余計なことしないでアシストに徹しようと割り切って。だから左サイドからクロスを入れる練習ばっかりしてました。
それで2001年のキャンプのときにJ1のチームと練習試合をやったんだけど、強かったジュビロ磐田に0-1で負けた以外はJ1のチームに全勝したんですよ。韓国のチームと試合しても勝ったし。
その練習試合のとき、一度自分がすごく早いクロスを入れて、「あ、こんなの間に合わない」と思ったらマルコスがヘディングしてポスト直撃したんです。それで「あ、これじゃん。これあれば勝てる」って思ったんです。
キャンプの最後にサンフレッチェ広島とやって、5-1かなんかで勝って、しかもほとんどセットプレーで「やっぱりこれだ」って。で、J2の開幕戦がアウェイの水戸ホーリーホック戦で、延長戦になっちゃったんだけど勝って。それから勢いに乗ってJ1に昇格したんです。
あのときは「岩本テル」っていうサッカー選手の土台がしっかりできてたし、活躍もできた。そんな時期に仙台に行ったこと、そしてそこで清水さんのチームでプレーできたこと。そこが自分の中ではサッカー界の中での転機だったと思いますね。(了)
岩本輝雄(いわもと・てるお)
1972年5月2日、神奈川県生まれ。左足から繰り出すボールは力強さもコントロールも抜群。だがたびたび負傷に悩まされ、一時は右足のくるぶしがテニスボール大に腫れ上がった状態が続いていた。しかしリハビリで回復し、今でもパンチ力のあるキックを見せている。引退後はベガルタ仙台の初代アンバサダーも務めた。
ところが2000年、サッカー選手として脂が乗っている28歳のとき、岩本はシーズン途中で自らヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)を辞める。その年は無所属で過ごし、そのままサッカー界からいなくなる可能性があった。
【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:徳丸篤史】
21歳で日本代表の10番を背負った苦難
自分にとっての転機は、一度Jリーグを辞めた後ですね。
高校卒業した1991年、フジタ(現・湘南ベルマーレの前身)に入って、そのままいい感じで日本代表に入り、若いうちからバーンと上がっていったんですけど、正直に思ったことを言ってたら、問題みたいになったこともあって。
問題児と言われてたんですけど、そうじゃないんです。自分の素直な意見をちゃんと言ってただけなんですよ。いいと思ったらそう発言するし、人と違ってても意見は言うから。もちろん「これが正しいかどうかは分からないけど」って一言付け加えますけどね。日本の社会ってあんまり意見をはっきり言わないじゃないですか。
それにフジタに入ったときは、まだ自分がどういう選手かって探っている時期だったんで、いろいろ言われたとおりにやりましたよ。実質監督だったニカノールコーチからは、いきなりサイドバックをやるように言われたりしましたし。
ニカノールは僕を左で使うからって、元々左サイドバックだったナラ(名良橋晃)を右に回したんです。けれど、自分はそんなポジションなんてやったことなかった。みんなはニカノールが僕をサイドバックにすると言ったら笑ってました(笑)。
自分はニカノールにめちゃくちゃ怒られまくってましたよ。ひどいぐらい。しかも毎日(笑)。怒られるのいつも僕だけ。他の人、誰も怒られない。
まぁ今考えると、いろんな人たちから「テル(岩本輝雄)、守備に関してはサイドバックとして難しいじゃん」という声があったと思うんです。でもニカノールはマークが厳しいサイドハーフより、フリーでボールが受けられるサイドバックのほうが生きると思ったんでしょうね。そういうニカノールの考えが分かってたから、自分は怒られてもよかったんです。
フジタはJリーグに入るのが遅れたから、1991年から1993年まで、Jリーグを目指して日本フットボールリーグ(旧JFL)でプレーしてました。それで1993年にJFLで優勝して、1994年からはJリーグに上がるんです。
Jリーグに上がったばかりのファーストステージは、JFLのときと同じサイドバックでプレーしてたんですけど、ボコボコにされて12チーム中11位になった。それでセカンドステージからは自分が一列前に上がって公文(裕明)さんが左サイドバックに入って、バランスが取れてチームの調子がよくなったんです。セカンドステージの結果は2位でした。
あの当時のベルマーレのメンバーはすごかったですからね。信藤(健仁)さん、反町(康治)さん、ノブ(小島伸幸)さん、名塚(善寛)さん、野口(幸司)さん、田坂(和昭)さんとか、ナラ(名良橋晃)もいて、みんな代表か元代表だったし、黄金メンバーですよ。
その1994年にロベルト・ファルカン日本代表監督に選ばれて、10番をつけて試合に出たんです。あれ、事前に番号を確認できなかったし、自分は、本当は6番のままでよかったんですよ。10番はノボリ(澤登正朗)さんでいいと思ってたし。
今になっては、ファルカン監督が10番をくれて、ありがたいってのはあるんですけど、でも当時、22歳の自分にはちょっと重荷でしたね。10番の若手選手が出てきたってことで、期待がすごい大きくて、マスコミに祭り上げられて。いいときはいいんですけど、活躍できなかったら一気に落とされた。
やっぱり若すぎて、まだ実力が伴ってなかった。もうちょっとあと、24歳ぐらいのときに代表に入っていったらよかった。いきなりポンと選ばれたから。しかもあの当時って、リーグ戦だけでも44試合で、水曜、土曜って試合が続くし、その間に代表戦だし、体力的にも大変でした。
それからサッカー関係者の中に僕が10番ってことで、いろいろ言う人もいました。自分で言うのも何ですけど、僕は結構気を遣うんですよ。分かってくれる人は分かってくれるんだけど、でも、分かんない人はワガママに見えちゃうみたいで。
実はワガママじゃないんですよ。自分の意見を持ってるだけで。相手の意見もちゃんと聞きますし、そこはちゃんと気を遣うから。サッカーがうまいヤツって気を遣えますからね(笑)。
かつての監督を頼って紅白戦に出場
1998年にベルマーレから京都パープルサンガ(現・京都サンガ)に移籍するんですけど、その京都でのシーズンは自分にとっていいものだったんです。でも1999年に川崎フロンターレ、2000年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に移籍したときは、いろいろ問題がありました。
川崎Fのときは試合に出なくてもトレーニングでは楽しくやってたんで、それはまだよかったんです。ですけど、V川崎に移籍したら監督と合わなくて。それが嫌で、5月に「残りの年俸はもういらない」ってチームを辞めたんですよ。
そのあとって、6月ぐらいからブラジルに渡ってトレーニングしてました。ブラジルはシーズン前のキャンプ中で、すごい走ってました。これくらいやらなきゃいけないんだって、もう一回トレーニングし始めて。
それで日本に戻って、家の近くのグラウンドで毎日トレーニングしたんです。たぶん、生まれた中で一番フィジカルトレーニングをやったってぐらい走ったんですよ。
まだ28歳の、サッカー選手としてちょうどいいときでした。それで10月、当時J2にいたベガルタ仙台の清水秀彦監督にお願いして、仙台のトレーニングに参加させてもらったんです。清水監督は京都にいたときの監督で、そこで知ってたから。そうしたら仙台の紅白戦に出してもらえたんですよ。
練習試合やったら、それまでずっとフィジカルトレーニングやったことが生きて、しっかり動けたんです。技術的なものは落ちないから。自分を鍛えるのに試合ってをやらなくてもよかったんです。基本と脳とフィジカルだけやっていれば落ちなかった。そうしたら清水さんが「仙台に来ないか?」って言ってくれたんです。
その仙台に行って、清水さんに会ったっていうのが転機でしたね。清水さんがいなかったら、自分はたぶん難しかったと思うんで。
それまで「Jリーグに戻るとしてもJ2じゃなくてJ1だな」って思ってたんです。でも他にチームもないし、「やってみようかな」って。それに自分は清水さんのサッカーの戦術や、フィジカルトレーニングがきついってのは、京都時代に分かってたから。
でも、そこまでにしっかりやってたから、練習を楽に感じることができた。みんなヘロヘロになってるんだけど、自分だけもう少しってやってました。「お前やりすぎだ」って言われたけど、「いや、これじゃ足りないから」って。
清水さんが使っていた4-4-2のシステムもそうなんだけど、パートナーもよかったですね。FWのマルコスとは相性が抜群でした。自分が入った2001年は新しいメンバーも多かったし。今の仙台の渡邉晋監督とかもヴァンフォーレ甲府から入ってきたりとか。
あとは清水さんはサイドからの攻撃が好きなんで。だから財前宣之や山田隆裕とかがいたでしょ? そういうすべてがうまくいったんですよ。仙台は街もよかった。サポーターも熱かったし。
清水さんは上から「やれ!」ってことはしない人で、僕の良さやいいところ引き出そうって監督だったんで。あの人の人間のでかさというか、人の扱いの巧さというか。清水さんは他に実力があるけどクセもあるって選手もうまく使ってたし。今は監督やってないけど、それはちょっともったいないと思います。
それでその年、16試合で15アシストぐらいしたんですよ。そんときの相棒にヘディングが強い189センチのマルコスがいて。
今もそうなんだけど背の高い選手って、いいボールが入っちゃうと止められないんです。自分はボールの正確性に自信があったし、余計なことしないでアシストに徹しようと割り切って。だから左サイドからクロスを入れる練習ばっかりしてました。
それで2001年のキャンプのときにJ1のチームと練習試合をやったんだけど、強かったジュビロ磐田に0-1で負けた以外はJ1のチームに全勝したんですよ。韓国のチームと試合しても勝ったし。
その練習試合のとき、一度自分がすごく早いクロスを入れて、「あ、こんなの間に合わない」と思ったらマルコスがヘディングしてポスト直撃したんです。それで「あ、これじゃん。これあれば勝てる」って思ったんです。
キャンプの最後にサンフレッチェ広島とやって、5-1かなんかで勝って、しかもほとんどセットプレーで「やっぱりこれだ」って。で、J2の開幕戦がアウェイの水戸ホーリーホック戦で、延長戦になっちゃったんだけど勝って。それから勢いに乗ってJ1に昇格したんです。
あのときは「岩本テル」っていうサッカー選手の土台がしっかりできてたし、活躍もできた。そんな時期に仙台に行ったこと、そしてそこで清水さんのチームでプレーできたこと。そこが自分の中ではサッカー界の中での転機だったと思いますね。(了)
岩本輝雄(いわもと・てるお)
1972年5月2日、神奈川県生まれ。左足から繰り出すボールは力強さもコントロールも抜群。だがたびたび負傷に悩まされ、一時は右足のくるぶしがテニスボール大に腫れ上がった状態が続いていた。しかしリハビリで回復し、今でもパンチ力のあるキックを見せている。引退後はベガルタ仙台の初代アンバサダーも務めた。