名波浩や中村俊輔が躍動 トルシエの評価を高めた攻撃サッカーと2度目のアジア杯優勝
【アジアカップ“王者”の記憶|第2回】2000年レバノン大会「トルシエジャパンが見せた常識破りの強さ」
フィリップ・トルシエへの評価が割れていた。
1999年4月のワールドユース選手権(現・U-20ワールドカップ)で準優勝、2000年9月のシドニー五輪ではベスト8と若い世代を率いて好成績を残したが、逆にA代表の準備が遅れ成績が低迷。先走った大手新聞が1面で「解任」を報じ、日本サッカー協会(JFA)の岡野俊一郎会長が即時否定する。その後トルシエ率いる日本代表は、ハッサン二世国王杯で世界王者フランスを2-2(PK戦負け)と追い詰め評価を回復。キリンカップでもスタンドから「トルシエコール」が沸き上がり、多くのサポーターも支持の意を表した。
そして2000年10月、レバノンで開催されたアジアカップで、日本は常識破りの強さで頂点に立つ。開幕戦の相手は、Jリーグ創設以降一貫して大陸内の盟主争いを繰り広げてきたサウジアラビア。だが日本は、ボランチの名波浩と左ウイングバックの中村俊輔がポジションチェンジを繰り返しながら、流麗にボールを動かし崩していく。前半26分、中村が左からファーサイドに振ると、森島寛晃の折り返しを柳沢敦が詰めて先制。同37分には、ボックス手前でインターセプトした名波が絶妙のお膳立てで高原直泰のゴールを導き、さらに後半8分には中村―柳沢―名波とつないで3点目。終了間際には連係の乱れからオウンゴールで失点するが4-1と快勝した。
さらに2戦目のウズベキスタン戦では、開始早々の4分に西澤明訓がPKを外したものの、その西澤と高原がハットトリックを達成し8ゴールの猛ラッシュ。3戦目(カタール戦)はスタメン8人を入れ替えて1-1と引き分け、悠然とノックアウトステージへ進むのだった。
特にトルシエの評価を一変させたのが名波だった。1分2敗と惨敗した前年のコパ・アメリカでは「永遠にリーダーになれない」と酷評したが、この大会では紛れもなくリーダーとしてチームをけん引し、MVPも手にしている。何よりトルシエ自身が優勝を決めると真っ先に抱擁したほどで、最大限の称賛を惜しまなかった。
決勝のサウジ戦は耐えて1-0勝利、川口がファインセーブ連発
日本は準々決勝でもイラクを4-1で一蹴。だが準決勝の中国戦は、優勝した8年前と同じくシーソーゲームを強いられた。ボラ・ミルティノビッチ監督が指揮する中国とは同年3月に神戸で0-0と引き分けており、それがトルシエの評価を落とす一因にもなっていた。
ゲームの入り方は悪くなかった。前半21分には中村のサイドチェンジから、右に開いてフリーで受けた高原がライナー性のクロスでオウンゴールを誘発。ところが9分後には追いつかれ、後半に入ると明神智和のミスパスを拾われ逆転を許した。
しかし攻撃力に自信を持つ日本は、冷静に反撃する。後半8分、中村のFKがクロスバーを叩くが、跳ね返りを西澤がダイビングヘッドで押し込み同点。同16分にはショートパスを連ねて左から右へと横断し、最後は明神がミスを帳消しにするクリーンシュートを左隅に決めて3-2と試合をひっくり返した。
結局、決勝戦はサウジアラビアとの再戦。ただしサウジは日本に大敗した後に、ミラン・マチャラ監督が更迭され、新体制の下で韓国に競り勝つなど修正が施されていた。
「タフな戦いになる」
トルシエ監督の予想は的中した。日本は序盤にPKを献上。サウジのエース、ファラータのキックは完全にGK川口能活の逆を突く。だが幸運にもゴール左に逸れ、逆に日本は前半29分、中村のクロスを逆サイドから走り込んだ望月重良が合わせて均衡を破る。累積警告の稲本潤一に代わる形でのスタメン起用に応えた。
しかし快進撃を続けてきた日本も、決勝戦だけは劣勢を強いられた。とりわけ後半に入ると、サウジが決定機を連ね、日本の守護神川口が忙しくファインセーブを繰り返す。終了のホイッスルを待ちわびるような試合展開となった。
この優勝でトルシエは絶大な自信を得た。翌年には、今度こそ世界王者に一泡吹かそうとパリへ乗り込む。
「これで勝てば私の銅像が建つだろう」
ところが結果は0-5の大敗。孤軍奮闘で存在感を放ったのは、アジアカップ不在の中田英寿だった。(加部 究 / Kiwamu Kabe)