死後に神として祀られた明智光秀。織田信長を自害させた謀反人の意外な結末
日本の歴史上、最も有名なクーデターといえば、やはり「本能寺の変」。世の中を震わせていた織田信長を京都の本能寺で追い込み、自害させた人物として明智光秀は知られています。
元々、光秀は信長に重用され、近江(滋賀県)の坂本城主となり、次いで丹波(京都)の亀山城主を務めていました。そんな光秀に転機が訪れたのは1582年のこと。主君である信長から中国地方の遠征を命じられていた光秀でしたが、信長のいる京都へ自軍を進めたのです。
主君を裏切り、クーデターを成功させたかのように見えた光秀でしたが、抗戦中だった毛利氏と和睦を結び、猛スピードで中国地方から戻ってきた豊臣秀吉と「山崎の戦い」で敗北。その天下はたった13日で終わってしまいました(俗にいう「三日天下」)。
光秀はわずかな部下たちを引き連れて落ち延びようとしたところ、落ち武者狩りの農民に竹槍で襲撃されて、命を落としたとされています。光秀が襲撃されたとされたところは「藪」(やぶ)があり、そこが明智光秀「終焉の地」とされています。
その場所は京都の小栗栖で「明智藪」と呼ばれています。光秀の首は秀吉の元に届けられたと伝わりますが、謀反人の首級にはありがちですがその後のことははっきりしていません。
現在、光秀の首が埋められたとされる「首塚」は全部で三か所伝わっています。一つ目は、京都市東山区梅宮町の小路脇にあり、光秀の家臣、または光秀の子孫が埋葬したと伝えられています。
二つ目は、京都府亀岡市の谷性寺の境内にあります。谷性寺は光秀が手厚く庇護していた寺院と伝えられており、やはり光秀の家臣によって埋葬されたと伝えられています。三つ目は、京都府宮津市の盛林寺の境内に築かれた首塚で、光秀の娘・細川ガラシャの元へ運ばれた首が埋葬されたと伝えられています。
もちろん、光秀の首は一つしかないので、少なくとも二つは‟言い伝え”ですが、いずれも光秀に近しい人によって埋葬され、首塚が築かれたということになります。光秀は、かつての領地であった丹波では福知山城を修造し、由良川の堤防を作り、川の氾濫を防ぎました。
領民からは慕われ、現在の福井県、岐阜県、愛媛県のあたりでは死後に神として祀り、神社を建立した地域もあったようです。神として祀られる謀反人。ある種、平将門を彷彿とさせますが、もしかしたら怨霊封じの意味もあったのかもしれません。