戦前の面影は、毒ガス製造に必要な発電所跡や、資料館の模型に残るばかり

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 1945年8月6日。アメリカは広島市内に原子爆弾を投下した。強烈な熱線と爆風が襲い、爆心地近くの広島県産業奨励館(原爆ドーム)の外壁も吹き飛んだ。前を流れる元安川からは、今でも破片を見つけることができる。

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いまだに遺骨がたくさん出る

 その引き上げ作業をしている学生団体「広島大学原爆瓦発送之会」の会長、嘉陽礼文さん(40=大学院生)が活動を始めたきっかけは、中学時代、被爆者のひとり、山岡ミチコさん(享年83)の話を聞いたことだった。

「東京から修学旅行に来たとき、山岡さんから被爆体験を聞きました。淡々とした話でしたが、原爆で亡くなった人たちの思いを一身に背負っているように感じ、逆に心にしみました」

 沖縄県出身の嘉陽さんは、祖父母から沖縄戦の体験を聞いて育った。いまだ遺骨が見つからない親族もいる。山岡さんにそのことを告げると、「元安川には被爆瓦があります。遺骨もたくさん出ます」と教えてくれた。友人と一緒に川に入り、溶けた一升瓶を見つけた。

「悪魔の爪のように溶けていました。すごくショックを受けました。将来は広島に来て、探したいと思いました」

 実際に広島に来ることができたのは10年後の24歳のとき。2002年、広島大学の夜間コースに入学した。昼間はアルバイトをして資金を稼ぎ、暇さえあれば、元安川で被爆瓦を探した。

「当初は、原爆の恐ろしさを伝えるため、見つけた被爆瓦を外国人に手渡しました。しかし、全員が思いをはせるものではないと感じ、より効果的な方法を探りました」

 戦災から復興を目指した広島大は戦後、世界中の大学に働きかけ、図書と苗木の寄贈をお願いした。そのときの資料を中心に、「被爆瓦を受け取ってもらえないか」と手紙を送った。すると、過去に連絡をとっていた50大学1機関と、当時、親交がなかった6博物館からも返事があった。

 当初は、嘉陽さん個人で活動をしていたが、「発送之会」を設立。その後も被爆瓦の発送を続けている。

 川の中から同館の破片が見つかった一因は、建物が頑丈にできていたからだという。

「設計はチェコ人で、手抜きがなく堅牢に造られていた。だから爆心地にあったのに残ったのでしょう」

 同会では'13年、同館の石材などの採取を始め、100キロにもなる破片を引き上げた。'15年にも、バルコニーの一部を発掘。'17年には、5階のバルコニーの一部と窓枠とみられる石片を見つけ、それぞれ引き上げた。

 今年の7月13日、石片の引き上げ作業に再挑戦した。重機を使ったのは4回目だ。

「山岡さんには、活動が形になったら挨拶へ行こうと思っていたのですが、亡くなってしまいました。それだけが心残りです。私は、明日も明後日も1年後も、川に入って瓦を拾い続けます。やめたいと思ったことはありません」

 引き上げられた被爆瓦などは広島大医学資料館ほかで展示されている。

 また、嘉陽さんは瀬戸内海に浮かぶ似島(広島市)で被爆者の遺骨も見つけている。

 似島では、原爆投下後、島東部にあった陸軍第二検疫所が野戦病院となった。20日間で負傷者1万人もの被爆者が運び込まれたと言われ、多くが亡くなり埋葬された。

 '14年に遺骨収集をした際、島民から「まだほかにも埋められたままの人がいる」と聞き、資金を集めて今年4月、似島へ向かった。すると5日間で約1〜10センチの骨片100個を発見。警察は、「被爆者の骨」と結論づけたという。前歯は10歳の子どものもので、足首の骨は150センチ以下の人物とわかった。

「出身の沖縄でも遺骨収集をしたいのですが、漆にかぶれる体質で、山に行くことができない。県外から来て遺骨を探すボランティアを、ありがたいなと思っていました。私も広島でならできます」

 次世代に伝えるための活動は今後も続けられていく。

知らないうちに兵器を作らされていた

「うさぎの島」として知られる、瀬戸内海に浮かぶ大久野島(広島県竹原市)。三原港から船で行くと、アナウサギたちが迎えてくれた。

 実は、島にはもうひとつの顔がある。第二次世界大戦中、毒ガス製造工場があったのだ。当時、毒ガス製造は国際条約で禁止されていた。その製造に関わり、いまでは語り部となっているのが元美術教師、岡田黎子さん(88)だ。

 島では、1929年から'44年までの間、学徒動員で5種類の毒ガス、6616トンが作られていた。岡田さんは'44年11月、動員学徒として島に派遣され、毒ガスと知らされずに兵器を作っていた。作業内容は、主に3つ。

「1つは発煙筒作り。“敵の戦力を弱めるための煙幕”と言われていましたが、実際は毒ガスが入っていました。2つ目は、偏西風を利用し、アメリカへ飛ばすための気球爆弾の球体部を作りました。和紙をこんにゃくのりでつなぎ合わせるのです。それから、毒ガスを運搬しました」

 製造に関わった人たちは毒ガスの被害にあっていた。例えば、イペリットガスは致死性のびらん性ガスで、視覚障害、呼吸器障害、消化器障害などの症状が出たという。

「'86年までに死亡した学徒の89%はがんでした。生きている人は慢性気管支炎になっています。従業員の場合、がん死は通常の2倍でした」

 '45年8月15日。日本は戦争に敗れた。同時に動員は解除となった。そのとき、校長から広島市内へ救護に行くように命令される。そこで被爆することになる。入市被爆だ。これも被害の側面だ。

 一方、昭和天皇が亡くなろうとしているとき、岡田さんは戦争の時代を振り返った。

「国民全員がやった戦争。自分も知らない間に殺人兵器を作っていた加害者です」

 戦後、美術教師として教壇に立ち、多くの子どもたちに体験談を話したが、伝わらないものを感じていた。視覚的に伝えようと、大久野島へスケッチに向かった。その船の中で昭和天皇の「崩御」を知った。島に着くと、建物がなくなり、きれいに整備されている現状を見た。

「これでは(毒ガスを作っていた)大久野島が消えてしまう。残さないといけない。残すべきだと思いました」

加害の事実を消さないで

 毒ガス作りに従事し、また、被爆もした岡田さんは被害者だが、加害者の面を自覚したエピソードがある。

 岡田さんたちが製造に関わった風船爆弾の被害をアメリカの研究者から知らされた。爆弾の放球基地は千葉県一宮町、茨城県大津町、福島県いわき市勿来の3か所だ。偏西風を利用し、アメリカまで飛ばすという偶然に頼った作戦だった。9300個が飛ばされ、うち285個を米国内で回収、2か所で被害が出た。

「1つは電線に引っかかり、送電がストップしました。そのため、日本へ投下されることになる原爆の製造が3日遅れたそうです。もう1つは、子どもたち5人と付き添いの女性が亡くなりました。女性は妊婦でした」

 風船爆弾は、全国24か所の女学校の学徒が動員されることで作られたという。

「関わった当時の学徒は“あれだけの仕事でたった6人か”と嘆きました。しかし、亡くなったのが10代の少年少女だと知り、自責の念にかられたのです」

 体験談を語り、資料を調べ、絵本づくりも行っている岡田さんは、加害の事実が消されている現実を嘆く。

「加害事実が消されているのは、まず当事者が沈黙したから。東京裁判では毒ガス戦については裁かれませんでした。80棟あった工場をほとんど焼き払われ、残すべき戦争遺跡はなくなりました」

 被爆地・広島は戦前、軍都として栄えた町でもある。

「被害と加害の両面を併せ持つのが戦争。加害者は戦争の実態を直視し、体験した生き証人です。過ちを正当化しようとする動きを正すことができます。加害者の証言は、被害者と同様に反戦の大きな力になるはずです」

 事実を見つめ、証言を語り伝えていくことが、戦争を考えることにつながる。

(取材・文/渋井哲也)

〈PROFILE〉
しぶい・てつや ◎ジャーナリスト。栃木県生まれ。長野日報を経てフリー。東日本大震災をはじめ、自殺、いじめ問題など幅広く取材。近著に『命を救えなかった─釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)

〈INFORMATION〉
被爆瓦展示の問い合わせ電話番号:090-1185-1620