中央線の神田〜御茶ノ水間には、かつて「万世橋」という駅がありました。この場所は「交通博物館」を経て、現在は商業施設に。明治時代に開業した駅の遺構があり、東京の「過去」と「現代」を体感できるスポットになっています。

戦前の駅の遺構を活用した商業施設

 日本のカルチャー発信地、秋葉原からほど近い場所に、東京の鉄道史を伝える貴重な遺構が残されています。

 秋葉原の南、神田川の向こうに見える赤レンガの高架線路。中央線の電車が行き交うその下に、JR東日本グループが運営する商業施設「マーチエキュート神田万世橋」があります。ここにはかつて、現在の鉄道博物館の前身にあたる交通博物館、さらに昔には国鉄の万世橋駅がありました。


2006年に特別公開された旧万世橋駅ホーム。駅名標はレプリカ(2006年4月、栗原 景撮影)。

 万世橋駅は、1912(明治45)年に中央本線の始発駅として開業した駅です。東京駅と同じ、辰野金吾が設計した美しい赤レンガ駅舎があるターミナルとして親しまれました。ところが1923(大正12)年、関東大震災によって駅舎が倒壊。復興都市計画による交差点の移設や、中央本線の全通などによって、万世橋駅の利用者は激減してしまいます。

 1936(昭和11)年、万世橋駅の敷地に、「鉄道博物館」(旧)が開館しました。それまで東京駅の高架下にあった施設が移転したもので、万世橋駅は博物館直結の駅に生まれ変わったのです。しかし、まもなく日本は戦争への道を進みます。1943(昭和18)年、万世橋駅は不要不急の駅として、営業休止(事実上の廃止)に追い込まれました。


神田川沿いにある旧万世橋駅、「マーチエキュート神田万世橋」。暖かい日にはオープンデッキを歩くこともできる(栗原 景撮影)。

かつてのホームを整備した「2013プラットホーム」。西側にはカフェ兼居酒屋があり、オープンデッキの客席もある(栗原 景撮影)。

鉄道博物館が開館した1936年ごろの万世橋駅ホーム。右端に現在の「1912階段」が見える(画像:鉄道博物館)。

 戦後、鉄道博物館(旧)は「交通博物館」として再スタートを切り、半世紀以上にわたって多くの人々に親しまれました。万世橋駅が復活することはありませんでしたが、ホームや階段などの設備は、長年閉鎖されたまま残されていました。

 2006(平成18)年5月14日、交通博物館が閉館。残された旧万世橋駅の遺構を利用して、2013(平成25)年9月に「マーチエキュート神田万世橋」がオープンしました。

交通博物館時代も使われていた! 万世橋駅の階段

 万世橋駅の休止から75年、そして交通博物館の閉館から12年。現在、旧万世橋駅の遺構は、プラットホームが展望デッキ「2013プラットホーム」として開放され、ホームに上がるふたつの階段も、かつての姿を維持した状態で公開されています。


駅開業当時は中央階段として駅舎につながっていた「1912階段」。次の写真とほぼ同一アングル(栗原 景撮影)。

交通博物館では休憩所として使われていた「1912階段」。戦前はここに駅直結の改札口があった(2006年4月、栗原 景撮影)。

万世橋駅としては7年しか使われなかった「1935階段」。タッチパネル式のディスプレイで、万世橋駅と交通博物館の歴史を学べる(栗原 景撮影)。

 施設の中央にある広い階段は、「1912階段」。開業当初から、赤レンガ駅舎とホームを結ぶ中央階段として使用された階段です。鉄道博物館(旧)が開館してからは、ホームから博物館に直接入れる階段として使われました。

 万世橋駅休止後、ホームに上がる部分は閉鎖されましたが、一部は交通博物館が閉館するまで使われ続けました。交通博物館を訪れたことのある人なら、1階に飲み物の自動販売機が置かれた休憩コーナーがあったことを覚えているかもしれません。実は、その休憩所は、中央階段の下半分を活用したスペースでした。

 中央通り寄りにあるもうひとつの階段は、「1935階段」。鉄道博物館(旧)の建設に伴い1935(昭和10)年に増設された階段です。これは交通博物館が閉館する直前の2006(平成18)年春に初めて特別公開されました。「1912階段」よりも小ぶりで、万世橋駅の利用者が減っていたことを伺わせます。

働く人々は交通博物館を知らない世代

 中央線の高架下は現在、「ノースコリドー」と呼ばれるレンガ造りのアーチ空間となっています。北欧ビンテージ家具・雑貨の店やオーダースーツの専門店など様々な店舗が入っており、周辺の会社員や国内外の観光客でにぎわいます。旧万世橋駅赤レンガ駅舎のジオラマや、歴史を解説する展示は国内の観光客に人気。近年は外国人観光客も増えています。

 ノースコリドーは、交通博物館時代には新幹線の運転シミュレーターや、車両の部品などの展示室として使われていました。レンガアーチやコンクリート柱にはカバーがかぶせられ、神田川に面した窓も塞がれていたので、中央線の真下にいるとは気づきにくかったものです。


山形の3つの老舗旅館がノウハウを提供したカフェ兼定食屋「フクモリ」。ここは、交通博物館時代は鉄道標識の展示室だった(栗原 景撮影)。

高架下の空間を展示室として利用していた交通博物館。東北新幹線の運転シミュレーターもあった(2006年4月、栗原 景撮影)。

交通博物館の収蔵物は、多くがさいたま市の鉄道博物館に引き継がれている(栗原 景撮影)。

「え、ここ昔はこんなだったんですか?」

 山形の食を楽しめるカフェ兼定食屋の「フクモリ」で、女性店員に交通博物館時代の写真を見せると、驚きの声があがりました。

「ここで働いて4年ほどになります。働き始めたときは、トンネルのなかにいるようで、秘密基地みたいと思ったのを覚えています。頭上で響く電車の音を聞くと、ここは駅だったんだなと感じます」

 交通博物館時代のことは知らないそうですが、客から尋ねられることも多いとか。

「懐かしそうに、壁や天井をご覧になる姿をよく目にします。そんなときは、『1912階段』を上ってかつてのホームの展望デッキへ行かれる経路をご案内しています」

 案内に従って「1912階段」を上がると、そこはかつての万世橋駅ホームが。

「高校時代に、通学で毎日中央線を利用していて、古いホームのようなものがあるなとは思っていたんです。今日は散歩していて偶然入ったんですが、こんな風になっていたんですね」

 ホームにいた50代くらいの男性は、このように話しながら懐かしそうに写真を撮っていました。

遺構はそのままに 東京の「過去」「現代」が一目で

「マーチエキュート神田万世橋」は、鉄道遺構としての姿をできる限り残しているのも特徴です。南側の壁面には、かつての建物と接続されていた鋼材の穴などが残され、歴史ある遺構がそのままの姿で保存されていることがわかります。


「常陸野ブルーイング・ラボ」。海外でも人気のクラフトビール「常陸野ネストビール」が飲める店で、外国人も多く訪れる(栗原 景撮影)。

「常陸野ブルーイング・ラボ」がある空間は、2006年当時は秘密の空間のような趣だった(2006年、栗原 景撮影)。

外壁には鋼材が入っていた穴や意匠もそのまま残され、この高架線の長い歴史が伝えている(栗原 景撮影)。

「3年前にここで働き始めたときは、なんとも言えない高揚感がありました」

 そう語るのは、中央通り側の入り口に近いカフェ・ビアバー「常陸野ブルーイング・ラボ」の黒澤大平さん(29)です。

「初めてここに来たときも、ライトアップされた夜だったこともあって圧倒されました。神田川を境に、秋葉原という現代の街と、歴史ある万世橋のレトロモダンが共存しているというのが良いなと思います」

 いまは、万世橋駅はもちろん、交通博物館の時代も知らない世代が日々活躍している旧万世橋駅の遺構。東京と鉄道の歴史を体験できるスポットとして、訪れてみてはいかがでしょうか。