ウィルチェアーラグビー、別名「マーダーボール」。車いす同士の激しいコンタクトが認められている、唯一無二のパラスポーツだ。2016年のリオパラリンピックで、日本代表が銅メダルを獲得したこともあり、2020年の東京大会でもメダルが期待されている。

ウィルチェアーラグビーはその激しさゆえか、男女混合競技ながらも、男性選手の割合が圧倒的に高い。しかし2017年、女性として初めて、倉橋香衣(商船三井)がウィルチェアーラグビー日本代表に選出された。

2017ウィルチェアーラグビー競技大会速報動画

競技を始めて3年となる現在は、商船三井で働きながら、練習と両立させている。勤務は週に2回。うち1回は虎ノ門の本社に出勤し、あとの1日は在宅で仕事をしている。四肢麻痺(※両手足の四肢に起こる麻痺のことで、頸髄や脳などの損傷によっても起こる症状)という重度の障がいがあり、首から下は力が入らない。それでも一人暮らしをし、自ら車を運転して出社している。

彼女は、商船三井に初めてアスリート採用枠で入社した人物である。商船三井で働くことを選んだ理由を聞くと、「働きながらラグビーを続けたかった。会社を探しているときに、障がいも、ラグビーを続けたいという意思を、一番理解してくれたのがここ(商船三井)だったんです」と話してくれた。身の回りのことを自分で行い、生計を立てながらアスリートとして世界と戦う。常人には理解できないであろうハードな日常の乗り切るエネルギーはどこから湧いてくるのだろうか。今注目の女性パラアスリートの素顔に迫った。


(写真提供:商船三井)

代表選出という挑戦

「ぶつかっても怒られないんですよ、ウィルチェアーラグビーって。それがいいな、楽しいなって思うんです」
倉橋さんはウィルチェアーラグビーの魅力をそう話す。

ウィルチェアーラグビーは、1チーム4人で行われるスポーツだ。車いすバスケなど他のパラスポーツと同様、選手には障がいの程度によって、0.5点刻みの点数が付けられており、最も重い0.5点から3.5点までの7段階に分かれている。ウィルチェアーラグビーの場合、4人の合計点が8点以下になるようにメンバーを組まなくてはいけない。

男女混合競技であるウィルチェアーラグビーは、チームに女性選手が加わるときに大きな特徴がある。女性選手1人に対し、チームの持ち点から0.5点がマイナスされるのだ。倉橋さんの持ち点は0.5点。つまりそれは、チームに入ると0.5点が引かれるため、彼女自身の点数は実質「0点」になることを意味する。

「0.5点の男性選手と同じ動き、同じ活躍をできるようになりたい」と彼女は語り、練習は男性選手ばかりの中で行っている。なかなか厳しい環境に思えるが、そこへ入ることに抵抗を感じることはない。一番重い0.5点であっても、唯一の女性選手であっても、臆することなくぶつかっていき、そしてその環境を楽しんでいる。

リハビリが「楽しい」と思える強さ

倉橋さんは大学時代、トランポリンの競技中に首から落下し、頸髄を損傷した。それから3年間入院し、長いリハビリに励んだ。
「首から下に全く力が入らなかった。だから最初は寝たきり状態で、頭を起こすだけで貧血になったりして」と倉橋さんは当時の様子を笑顔で話す。ベッドから起きること、普通に呼吸すること、顔を洗うことから髪をとかすことまで、日常生活の全てがリハビリだった。スポーツ選手の中には、大きな怪我をし、自分のものとは思えないほどうまく動かなくなった身体に気を病む人も多い。しかし彼女は違った。できなくなったことがあるなら、またできるように頑張ればいい、そう考えていた。

「歯磨きできた、やったー!って言ってました。リハビリは楽しかったですよ。障がいを持ってもリハビリすれば、動けるしいいや、手紙もかけるしいいや、って思ってました。しゃべれるし、生きていたし」

できないことを嘆くのでなく、できるようになったことを喜んだ。

「入院中辛かったことは…特にありません。飽きることはありましたけど。また顔洗わないといけへん、めんどくさいなあとか。でも、それができないから入院してるんだなって納得していました」

変化は、人に不安をもたらすことが多い。今までとは違う環境、それまでとは違う自分。変わってしまうことで、怖くなり、前に進むことを躊躇してしまう。
しかしどんな状況に置かれても、倉橋さんは変化を楽しみ、変化することを望んでいた。

 

 

自分で自由に動きたいと、新しい世界へ

入院生活も終盤に差し掛かった2014年、倉橋さんは入所していた所沢市の国立障害者リハビリテーションセンターで、ウィルチェアーラグビーに出会う。リハビリの一環として、水泳や卓球など複数のスポーツをすることできたが、彼女はラグビーが一番面白いと感じていた。

「怪我した瞬間、もう寝たきりのときから早く動きたい、動きたいってそればっかり。スポーツしたいなって友達と話していたのですが、そもそもパラスポーツにどんな競技があるのかも知らなくて」

ウィルチェアーラグビーに出会い、また知らない世界の扉を叩くことになった。

自分で自由に動きたい、と入院生活の間そう思い続けていた彼女が、ハイスピードで、自由自在にコートを駆けるラグ車(競技用車いす)に惹かれるのは当然だったのかもしれない。

「ラグビーをやり始めた当初は、ただただ楽しいなって思っていて。ラグ車に乗っているだけで楽しかったんです。特にルールも分からない状態でした。でも、やっていくうちに、だんだん知らないことに出会っていって、それがまた面白かった。そこからまたどんどんはまっていきました」

ウィルチェアーラグビーは、バスケットボールのコートで行い、バレーボールに似たボールを使用する。ラグビー、バスケットボール、バレーボール、アイスホッケーなど、様々な競技の要素が組み合わさっており、なかなか奥が深い競技だ。

「今でも学んでいる最中というか、知らないことだらけで面白いです。健常者のときだったら知らなかったことが、今はたくさん知れるようになって…。この状態が良かったというわけではないけど、いいことだらけだなとは思います」
退院後は、以前通っていた埼玉の大学へ復学し、大学4年次に本格的にウィルチェアーラグビーを始めた。

親からは実家に戻るよう言われたが、反対を押し切り東京に残り、再びスポーツをすることを選んだ。この選択に、はじめ両親は賛同してくれなかった。

「それでもラグビーを知って欲しくて、東京からマメに連絡をしていました。今度テレビでウィルチェアーラグビーやるから見てね、とか。とにかく知ってもらいたかった」

倉橋さんの努力の甲斐もあり、実家の家族もだんだんウィルチェアーラグビーを知り、理解し、好きになっていった。

「今は親も、やりたいって決めたなら頑張りなさいと応援してくれています。
また怪我したら?でも、怪我はつきものですから。親にも怪我したら怪我したでしょうがないって思ってくれたらなって」そう言ってはにかんだ。

プレイヤーとして「好きなもの」を発信する

2020年の東京大会に向け、日本全国でパラスポーツを推進する動きが多くある。その中で、パラアスリートとして彼女はどのような社会の変化を感じているのか。

「正直そんなに“変わった”とは感じていないです」
パラスポーツを福祉・リハビリの一環としてではなく、一競技として捉えるという変化は、感じているという。しかし、その競技ひとつひとつへの理解や関心が十分に高まっているかと言われると、まだその段階には達していないのを実感しているとも話す。

「『ウィルチェアーラグビーって何?見たことない』とよく言われます。そもそもウィルチェアー=車いすっていうことが知られていないから、ウィルチェアーラグビーと言っても伝わらないことは頻繁にあります。だから自分が話すときは、“ラグビー”と言うことが多いんです」

自分自身がプレイヤーになるまで、パラスポーツについてほとんど何も知らなかった。だから今、世間の人々がパラスポーツを詳しく知らないということは仕方ないことだと倉橋さんは考えている。
「自分がメディアに出ていったりすることで、どんどんこの競技を知ってもらいたいし、ただ楽しんで競技をするだけでなく、ウィルチェアーラグビーを広める立場にいるという自覚を持たないと」

ウィルチェアーラグビーに出会った当初から抱いていた、好きなことを他の人にも知ってほしい、という純粋な想い。今はそれに加え、競技を世間に知ってもらうという競技者としての責任が加わった。それでも彼女はそのことを重くは感じず、やはり楽しむ姿勢を忘れない。

「今年の12月、パリで女性選手だけのウィルチェアーラグビー大会があります。日本はまだまだ女性選手が少ないけど、他の国の女性選手のプレーやチームの体制など、たくさん見て学んでこようと思っています。いろいろな国の人が集まってくるので楽しみにしています」

倉橋さんの原動力は好奇心だ。「知らない」ということを受け入れ、新たに「知る」ことを楽しむ。壁に当たっても、その先に広がる世界が見たいからと、笑顔で壁を突破していく。そんな彼女の姿を見ることで、私たちも自分自身の前にある壁が、意外と簡単に崩せるものだと気づくことができるのではないだろうか。

2020年、東京で彼女は新たに何を知り、何を楽しむのだろうか。笑顔いっぱいの若き挑戦者から目が離せない。


(写真提供:商船三井)