2005年の夏の甲子園で、当時大会タイ記録となる1試合19奪三振をマークし、大阪桐蔭をベスト4に導いた辻内崇伸。しかし、ドラフト1位で読売ジャイアンツに入団したものの、度重なる故障により思うような投球ができず、一軍公式戦で投げることのないまま2013年に現役を引退した。甲子園という華やかな舞台で脚光を浴びた一方で、”ドラフト1位”という肩書きへの苦労、プロ野球の厳しさを味わった。書籍『ドライチ』(カンゼン刊)のなかで辻内が赤裸々に語った。


2005年の夏、大阪桐蔭のエースとしてチームをベスト4に導いた辻内崇伸

■なんで振ってくれるんやろなって思って投げていました

―― 背番号1を背負った3年夏の甲子園では同学年の平田良介(現・中日)、2学年下の中田翔(現・日本ハム)らとともにベスト4入り。大阪桐蔭では1年生のときから目を引く存在だったんでしょうか?

「入学当初は”平民”っすね。いや、平民以下でした。特待、準特、セレクションがいたなかで、僕たちセレクション組は静かにしていました。2学年上に三島輝史(03年にロッテからドラフト5位で指名)さんがいて、1学年上にも凄い人がたくさんいた。そして同級生に平田がいて……。平田は体つきがまず1年生じゃなかったです」

―― 躍動感のあるフォームから繰り出される150キロのストレートが甲子園では大きな注目を集めました。何がきっかけで球が速くなったのでしょうか?

「高校に入る前は128キロぐらい。(大阪桐蔭・西谷浩一)監督にはとにかく下半身を徹底的に鍛えられました。それでピッチングをしたら、『オレ、こんな速かったっけ』みたいな感じで、140キロぐらい出るようになっていたんです。下半身をやっておけば間違いないです」

―― 夏の甲子園2回戦の藤代(茨城)戦では、当時の大会タイ記録となる19奪三振を記録。あのときは打たれない自信があったんじゃないですか。

「自信はなかったです。ホンマにあれ、奇跡なんですよ。ただ、きれいな(回転の)ボールを投げたいと思っていました。なんであんな高めのクソボールを振るんですかね。『なんで振ってくれるんやろな、ラッキー』と思いながら投げてました」

―― 夏の甲子園の後も9月に韓国で行なわれたアジアAAA野球選手権の日本代表に選出されます。韓国との決勝戦に登板し、金メダル獲得に貢献。2005年のドラフト会議で最も注目を集める存在になりました。プロでやっていく自信はありましたか?

「(僕は)球が速いだけ。スピードがなかったら取り柄がない。そんなんでプロ行けるのかなというのがありました。平田のようにホームランを量産しているわけでもない。中田はバッティングもいいけど、ピッチャーとしても凄い。僕は『指名していただけるならありがたい』と思っていました」

■無理するところが違っていた

―― ドラフト会議ではオリックス・バファローズとの抽選の末、読売ジャイアンツが交渉権を獲得。1年目の春季キャンプでは二軍スタートながら大きな注目を集めました。

「キャンプでは(練習の)最初と最後に囲み取材があるんです。でも(毎日囲み取材で)話すことなんかないんです。でも、(記者は)なんか言わせたい。言葉を膨らませて書かれることはわかっていたので、僕は言わない。向こうは(捕手の)阿部(慎之助)さんに叱られたとか、そういうのを書きたいんです。ああ、これがドラフト1位の宿命なんやと……」

―― 注目を集める一方で、度重なる肩やヒジの故障により思うような成績を残すことができませんでした。

「野球やっている人はみんなそうだと思うんですけれど、古傷はいっぱいあります。僕もちょくちょく痛めるけど、軽度で終わっていた。でも、プロに入ったら毎日投げる。痛くて投げないとケガ人にされてしまう。お金をもらっている以上、野球をしなきゃいけない」

―― 2年目の2007年にトミー・ジョン(靱帯再建)手術を受けました。

「春季キャンプで10球くらい、ヒジが痛いまま投げていました。『ああーっ』て叫びたいぐらいの痛み。(後日、キャンプから離れて)病院をいくつか回ったら、靱帯がないと言われたんです。靱帯が切れていると。手術の後、151キロ出たんですけど、次の日は激痛で投げられない。リハビリをして良くなるんですが、投げるとまた痛くなる。その繰り返しでした」

―― 手術後も度重なる故障に悩まされました。何が原因だったんでしょうか?

「プロ入り5年ぐらいで結果が出てなければクビになる。だから(秋の)フェニックス・リーグに行く前に、肩とヒジに痛み止めを打ってもらいました。でも秋に無理をするから、翌年はキャンプ前の自主トレからずっと痛い。どうしようと思っているうちにキャンプが始まる。初日から投げないといけない。痛みが出る。無理するところが違ったんですよ」

■戦力外通告を受けてホッとした

―― プロでは8年間で一軍公式戦での登板はゼロ。クビを覚悟したのはいつですか?

「2013年は、試合で投げたのがシーズンの最後の方だったんです。それで128〜129(キロ)しか出なくて。これが限界なんやと思いました。それまではしつこくプロ野球選手でいたいと思っていました。でも128とか129というのは自分のなかでも衝撃で、『これはもうプロ野球選手ちゃうな』というのがありました。もうしょうがないなと」

―― 戦力外通告を受けたときの心境は。

「めっちゃほっとしましたね。『野球、終わった』みたいな感じ。やっとこの苦しさから解放されるんや、ヒジや肩が痛くない生活ができるんやと。明日から投げなくていいという解放感がすごかった」

―― 戦力外通告を受けた後、トライアウトを受験しようとは思わなかったのでしょうか?

「(戦力外通告を受けることを察知して)嫁はまだプロとしてやってほしい、トライアウトを受けたらどうかと言っていたんです。でも僕は、もう痛いのが嫌だった。それで記者の方にトライアウトは受けないという記事を載せてもらったんです。これで嫁は(引退を)受け入れざるを得ないだろうと思って」

―― もう一回、人生をやり直すことができるとしたら、どこに戻りたいですか?

「違う人生を歩みたいという気持ちはあります。小学校とかに戻るんやったら、野球はやらない。大阪桐蔭のあんなしんどい練習は二度とやりたくないですから。でも、あの練習でプロになれた。それは感謝しています。僕の人生で自分の思ったような速球を投げられたのは、3、4年ぐらい。それで野球人生を終えたことに後悔はしていないです」

辻内崇伸(つじうち・たかのぶ)

大阪桐蔭高校3年時、夏の甲子園1回戦の春日部共栄戦で152キロをマーク。一気に注目を浴びる。2回戦の藤代戦では当時の大会タイ記録となる19奪三振を記録。同校をベスト4へ導く原動力に。05年の高校生ドラフト会議では読売ジャイアンツとオリックス・バファローズとの競合の末ジャイアンツが交渉権を獲得し、1巡目指名で入団。しかし、プロ入団後は度重なる故障に悩まされ、結局06年から引退する13年まで一軍公式戦出場はなかった。引退後、2014年より日本女子プロ野球機構(JWBL)のアストライアのコーチ、2016年はレイアのコーチを務める。2017年、埼玉アストライアのヘッドコーチに就任。
http://www.kanzen.jp/book/b317291.html

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