【磐田】中村俊輔がサックスブルーの決意。「ジュビロイズムを身体に染み込ませる」
ジュビロ磐田の2017シーズン新体制発表記者会見が1月13日、ヤマハスタジアムで行なわれた。通算13シーズンに渡りプレーした横浜から加入した中村俊輔ら7選手(ムサエフは19、20日頃に合流)が抱負を語った。
新加入選手や名波監督、服部強化部長らと登壇した中村は、まず次のように磐田での決意を語った。
「38という難しい年齢での決断でした。魅力あるクラブであり、服部さん、名波さんが門を開けて待っていると言ってくれている状態にしてくれて、そこで自分も挑戦してみたいと決めました」
スタジアムの記者会見場には100人ほどが詰めかけた。その人いきれを、磐田の新10番はさっそく感じ取っていた。
「期待は十分に分かっています。あとはピッチで結果を残すこと。ジュビロのサポーターから、『あいつを獲って間違いがなかった』と思われるように、勝点をひとつでも多く積み重ねていきます」
また、磐田の歴史について聞かれた中村は、ジュビロイズムという言葉を使って、想いを語った。
「僕が若い頃は、名波さんをはじめ代表選手が多い黄金時代。スター軍団がやっている感覚で、勝てない試合が多く、歯が立ちませんでした。今、そのチームに入れて、不思議な気持ちです。ジュビロイズムを身体に感じて染み込ませて、グラウンドで発揮していきたいです」
また、現役時代の印象について聞かれた名波監督と中村は、この移籍に結び付いた背景とも言える、非常に興味深いことを語っていた。
名波監督は中村について、次のように語った。
「お互いシャイボーイ同士で、部屋を行き来することもなく、ピッチ上以外ではそこまで絡んでいなかった。ただ僕は、年齢も、先輩後輩も、社会的地位も関係なく発言してきて、その中で、年下でも俊には尊敬の念を抱いていた。子どもの頃からの変わらない揺るがぬサッカーへの情熱を、ひしひしと感じていた」
そして監督と選手という立場になった以上、中村について「息子だ」と強調した。
「僕の手元にいる以上は、全員が息子。そう振る舞うので、そういうふうに接してきてほしい。これはクラブ的なスタンスでもあるが、外的要因が降りかかってきても、守る自信があります」
その指揮官の期待を受け止めるように、中村は次のように応えた。
中村は次のように語った。
「(名波監督が)ジュビロでプレーされていた頃、サッカーをよく知っていると思いました。余計なタッチがなく、後ろからも前からも見えている印象があった。日本代表では、トルシエ時代のアジアカップが印象に残っています」
そのように日本代表が優勝を果たした2000年のサウジアラビア大会について振り返った。
「僕が中盤の左サイド、名波さんはボランチでプレーしていました。監督の指示がなくても、名波さんはポジションチェンジを自然としてくれた。僕がサイドでやっているストレスを感じ取り、僕が中でプレーできるようにしてくれて。そのように自分のプレーを出すだけではなく、メンタル面まで見えていた。そういった他の選手とは異なる、見えないところで差を出していたように思います」
まさに以心伝心といえるつながり。そのようにふたりのレフティは目には見えないところで、通底しながらプレーしていたと言うのだ。
「あとはバスで移動する際、後ろからミスチルの歌が聞こえてきて、あれスピーカーか? と思ったら名波さんが歌っていたんです。本物かと間違えるぐらい、上手かった(笑)。僕にとってお兄さんであり、お父さん。そういった信頼関係を、どんどん作っていきたいと思います」
新加入選手や名波監督、服部強化部長らと登壇した中村は、まず次のように磐田での決意を語った。
「38という難しい年齢での決断でした。魅力あるクラブであり、服部さん、名波さんが門を開けて待っていると言ってくれている状態にしてくれて、そこで自分も挑戦してみたいと決めました」
スタジアムの記者会見場には100人ほどが詰めかけた。その人いきれを、磐田の新10番はさっそく感じ取っていた。
「期待は十分に分かっています。あとはピッチで結果を残すこと。ジュビロのサポーターから、『あいつを獲って間違いがなかった』と思われるように、勝点をひとつでも多く積み重ねていきます」
また、磐田の歴史について聞かれた中村は、ジュビロイズムという言葉を使って、想いを語った。
「僕が若い頃は、名波さんをはじめ代表選手が多い黄金時代。スター軍団がやっている感覚で、勝てない試合が多く、歯が立ちませんでした。今、そのチームに入れて、不思議な気持ちです。ジュビロイズムを身体に感じて染み込ませて、グラウンドで発揮していきたいです」
また、現役時代の印象について聞かれた名波監督と中村は、この移籍に結び付いた背景とも言える、非常に興味深いことを語っていた。
名波監督は中村について、次のように語った。
「お互いシャイボーイ同士で、部屋を行き来することもなく、ピッチ上以外ではそこまで絡んでいなかった。ただ僕は、年齢も、先輩後輩も、社会的地位も関係なく発言してきて、その中で、年下でも俊には尊敬の念を抱いていた。子どもの頃からの変わらない揺るがぬサッカーへの情熱を、ひしひしと感じていた」
そして監督と選手という立場になった以上、中村について「息子だ」と強調した。
「僕の手元にいる以上は、全員が息子。そう振る舞うので、そういうふうに接してきてほしい。これはクラブ的なスタンスでもあるが、外的要因が降りかかってきても、守る自信があります」
その指揮官の期待を受け止めるように、中村は次のように応えた。
中村は次のように語った。
そのように日本代表が優勝を果たした2000年のサウジアラビア大会について振り返った。
「僕が中盤の左サイド、名波さんはボランチでプレーしていました。監督の指示がなくても、名波さんはポジションチェンジを自然としてくれた。僕がサイドでやっているストレスを感じ取り、僕が中でプレーできるようにしてくれて。そのように自分のプレーを出すだけではなく、メンタル面まで見えていた。そういった他の選手とは異なる、見えないところで差を出していたように思います」
まさに以心伝心といえるつながり。そのようにふたりのレフティは目には見えないところで、通底しながらプレーしていたと言うのだ。
「あとはバスで移動する際、後ろからミスチルの歌が聞こえてきて、あれスピーカーか? と思ったら名波さんが歌っていたんです。本物かと間違えるぐらい、上手かった(笑)。僕にとってお兄さんであり、お父さん。そういった信頼関係を、どんどん作っていきたいと思います」