財政再建と女性スキャンダル、そしてヒラリーの夫・ビル・クリントンきょうで70歳

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きょう8月19日は、アメリカ合衆国の第42代の大統領を務めたビル・クリントン(在任期間:1993年1月〜2001年1月)の誕生日だ。1946年生まれの彼はちょうど70歳となる。

その1歳下の妻のヒラリー・クリントンは、先月26日に民主党の大統領候補に正式指名され、共和党のドナルド・トランプ候補を相手に、11月の大統領選挙に向けいよいよ本格的な選挙戦に入った。

もし、ヒラリーが大統領に選ばれたのなら、元大統領のビルがファーストレディならぬファーストジェントルマンということになる。大統領時代からすでに20年が経ち、そろそろ歴史上の人物になりかけている彼がふたたび表舞台に出てくるとして、妻に対してどんな貢献をはたすのか、気になるところではある。


ともあれ、このタイミングでその業績を振り返ってみるのも悪くはない。折しも最近になって中公新書から、政治学者の西川賢(現在、津田塾大学准教授)による評伝『ビル・クリントン 停滞するアメリカをいかに建て直したか』が刊行された。この記事では本書の内容を踏まえながら、その半生をちょっとたどってみたい。

ダメージからの強靭な回復力


クリントンの伝記を読んでいて、まず強く印象に残ったのは、彼がダメージを受けるたび即座に対処し、強靭な回復力(レジリエンス)を示してきたことだ。

たとえば、1978年、32歳にしてアーカンソー州知事に就任したものの、1期目を終えた2年後の知事選に敗れ、下野したときのこと。再起を期して動き始めたクリントンは、テレビCMをつくって州内で流している。そのなかで彼は、選挙戦の敗因とされた知事在任中の政策のひとつ、自動車登録料の値上げについて、それが「州民の気分を害した」ことを認め謝罪しながらも、値上げを決断したこと自体は正しいことだとして、あくまで自らの正当性を主張したのだった。

このCM制作に際して相談を受けたクリントンの選挙参謀は、彼が政策の非をけっして認めず、「謝罪」しなかったことに、「この男は大統領になれる」と確信したという。はたしてこのあと1982年の州知事選で返り咲きを果たしたクリントンは、以後、5期10年を務めて大統領選に臨むことになった。

この間、1988年の大統領選では、民主党全国党大会においてマイケル・デュカキスの大統領候補指名演説を託されたものの、制限時間を大幅に超えて30分以上にわたり長広舌をふるい、うんざりした聴衆からブーイングを浴びせかけられた。このときもクリントンの対処は速かった。1週間後にテレビのトーク番組に出演した彼は、自虐的なジョークで笑いを誘ったほか、得意のサックス演奏を披露し、辛くもイメージコントロールに成功する。

さらに大統領に就任して2年目、1994年の上下両院の議員の改選を行なう中間選挙では、共和党に大敗を喫してしまう。クリントン政権初期の政策のうち、真っ先に着手された財政再建策は当初、国民にその真価が理解されなかったし、リベラルな立場に偏るあまり、保守層に受け入れられず頓挫したものも国民皆保険制度の導入など少なくなかった。こうした失策と不人気が選挙の敗因につながった。

このとき、一時はたもとを分かちながら再起用した選挙参謀から「三角測量」なる選挙戦術を進言された。これは、2大政党の従来の見解を両辺に、その中間の真上に大統領の主張をそれぞれ置くという戦略だ。ようするに《2大政党の主張を戦略的に取捨選択することで「第三の道」を形成し、中道路線を力強く打ち出す》ものであった(154ページ)。

政権内では反対もあったが、クリントンはこれを採用する。以後、場合によっては共和党の主張を取り入れて、「小さな政府」のスローガンにもとづく福祉改革や、規制緩和・自由競争促進など保守的ともいえる立法を成立させていった。その一方で、人工妊娠中絶の容認、あるいは食品の安全確保、環境対策、人種問題などの分野ではリベラルな成果を達成している。こうして「保守とリベラルの中間」へ巧みに軌道修正を果たしたクリントンは1996年の大統領選で再選され、みごと復活をとげた。

やがて財政再建の道筋をつけるべく大統領就任直後に断行した増税と財政赤字削減の効果が、好景気も追い風となって表れるようになる。1999会計年度予算は30年ぶりの財政黒字を計上した。《クリントン政権の最大のレガシー(遺産)が財政再建の成功であることに、異論の余地はないであろう》と著者の西川は書く(206ページ)。

女性スキャンダルとインターネット


そんな功績の陰で、大統領在任中のクリントンには数々のスキャンダルが噴出する。なかでもホワイトハウス実習生だった27歳下の女性とのスキャンダルは、1999年、アンドリュー・ジョンソン以来131年ぶりに大統領が上院の弾劾訴追を受けるという事態にまで発展した。

このスキャンダルについてくわしくは本書の第5章に譲るとして、この事件の背景としてひとつ注目したいのは、インターネットの普及だ。たとえば、このとき、クリントンと元実習生が関係を持ったとする“特報”を、保守系ウェブサイトが流したことがあった。これを受けてクリントンは、ヒラリーをはじめ周囲に対し噂を否定するハメに陥る。

さらに、クリントンの大陪審に対する供述にもとづく捜査報告書が下院に提出され、インターネットでも即日公開された。そこには、クリントンと女性の性的接触の経緯が赤裸々に記されていた。このとき、クリントンは一人娘のチェルシー(当時19歳)に、ネットでその報告書を読まれてしまうという大きな苦痛を味わっている。

クリントンは政権初期、副大統領のアル・ゴアとともに「情報スーパーハイウェイ構想」を提唱し、高速コンピュータネットワークの構築による情報化とコンピュータ産業の発展をめざした。その在任中、アメリカのインターネット関連企業は確実に成長し、これを起爆剤に政権後期には空前の好況がもたらされることになる。

クリントンがその普及に貢献したはずのインターネットが、先述のようにスキャンダルと結びついて彼自身を苦しめることになったとは何とも皮肉ではある。この点も含めて、クリントンはまさにインターネット時代の始まりを象徴する指導者であった。

継承されなかった中道路線


このほか、クリントンによる政策の後世への影響を見ていくと、たとえば、銀行・証券・保険業の兼業を認可した「グラム=リーチ=ブライリー法」(1999年11月成立)、店頭デリバティブ取引に関する規制緩和である「商品先物取引近代化法」(2000年12月成立)は、のちにリーマン・ショック(2008年)の原因をつくったとして厳しく批判された。

あるいは、現在まで続くアメリカの「テロとの戦い」はクリントン政権から始まったともいえる。1993年にニューヨークの世界貿易センタービルが、1998年にケニアとタンザニアのアメリカ大使館がそれぞれ標的となった爆破テロ事件は、いずれもオサマ・ビン=ラディン率いるテロ組織アルカイーダが関係していた。このうち98年の事件の直後、クリントン政権はスーダンとアフガニスタンのアルカイーダ関連施設を巡航ミサイルで攻撃している。

ポスト冷戦期にテロが安全保障上の一大脅威になることを見抜き、さまざまな政策をとったクリントンだが、しかし、ビン=ラディンを捕えることはできなかった。ビン=ラディンが首謀し、前出の世界貿易センタービルを崩壊させた同時多発テロ事件は、クリントン退任後の2001年9月に起こった。ビン=ラディンは、それからじつに10年後、オバマ政権下で米軍によって殺害されるにいたる。

そのオバマはリーマンショック直後に大統領に就任し、経済危機からの脱却に腐心し続けた。一方で、かつてクリントンが最初の大統領選で公約に掲げながらも実現に挫折した、国民皆保険制度の導入と同性愛者の軍隊入隊禁止措置の撤廃は、オバマ政権によってようやく日の目を見た。

こうして見るとオバマ政権は、同じ民主党政権としてクリントンが成し遂げられなかったことを継承したかに見える。だが本質的には、オバマはクリントン政権の中道路線を否定し、「民主党左派の反動」という顔をもって独自の路線を歩もうとしたと、西川は指摘する。

クリントンとオバマの路線の違いがはっきりと現れたケースとして、上記の同性愛者の軍隊入隊をめぐる政策があげられる。クリントンは、民主党からも含め強い反対を受けた末、妥協策として入隊禁止の規定そのものを撤廃するのではなく、「軍は兵士に同性愛者であることを尋ねず、軍内部の同性愛者も同性愛者であることを公言したり行為におよんだりしないかぎり、除隊されない」とする法律(通称DADT法)を成立させた。だが、これはかえって軍隊内部で同性愛者を探し出そうとする魔女狩り的行為が増加する結果を招いたともいわれる。オバマは左派の立場から、このDADT法を廃止し、同性愛者の軍隊入隊を全面的に容認したのだ。

しかし、オバマ政権について西川の評価は、《クリントンほどの成果を達成することはなかった》となかなか辛辣だ。そればかりか、《彼[オバマ――引用者注]の治世下でアメリカのイデオロギー的分断と党派対立はいっそう激しさを増した》という(247ページ)。結局、クリントンの中道路線は民主党内に定着することなく、対する共和党も、強硬な保守派が勢力を伸ばし、右傾化していった。

ここで西川の述べる《いまや共和党からも民主党からも「中道」は消失してしまい、アメリカの政治では2大政党による激しいイデオロギー対立が絶え間なく続くようになった》(同上)という政治状況は、細かい点はともかく、いまや日本を含む多くの国々に共通するものではないか。

本書によれば、1960年代から70年代にかけてのアメリカでもまた、過剰にリベラルな立場に偏りすぎた民主党と、右傾化しすぎた共和党とのあいだで激しいイデオロギー対立が起こったという。クリントン夫妻の政治的出発点はまさにそこにあった。その反省から、クリントンは地方政治家から大統領となってからも、中道化を模索し続けることになる。いかにして理想の政治を実現していくかを考えるうえで、彼の軌跡から学ぶべきことは、いまだからこそよけいに多いはずだ。
(近藤正高)