現役時代に残した実績がカリスマ性を生み出し、日々の練習を充実させる相乗効果をもたらす。もっとも、現役を退いたのは10年以上も前。ゼロからのスタートを、井原監督は自らに課していた。

「選手としての実績は指導者としては関係ない。ただ、そういう実績があるから『井原は監督としてもしっかりとした成績を残す』という見方をされると思うし、そのプレッシャーがだんだん強くなってきたのかなと。自分としてはそのプレッシャーを逆にパワーに変えたというか、プレッシャーがあるからいい仕事ができると思うようにしてきました」

 プレーオフ進出圏内につけたままで迎えた終盤戦。前半戦とは明らかに異なる戦いぶりを見せるほど、福岡は変貌を遂げていた。

「1−0で守り勝っていくうちに、自信がついたんだと思います。勝っているのに引いて守ることをせず、まるで負けているかのようにみんな前へ出て、2点目、3点目を取りにいくようになった」

 笑顔でこう振り返る中村北に、城後も続いた。

「監督のやりたいことが浸透すると、今度はプラスアルファのことを選手たちがやろうとしてきた。夏場にウェリントンが加入したこともあって、ただ単につなぐだけでなく、最終ラインからウェリントンを狙ったロングボールを増やして相手が嫌がる状況を作るとか、シンプルにサイドからクロスを入れるなど、みんなで考えながらプレーするようになりました」

 微に入り細に徹した井原監督のオーソドックスな指導が、堅守という確固たるベースを築いた。思いどおりにいかない状況に陥った時に立ち戻れる場所ができた。おのずと芽生えた安心感が、攻撃でも個々のストロングポイントを前面に押し出していくチャレンジ精神を生み出す。

 2位でJ1へ自動昇格したジュビロ磐田と勝ち点82で並んだ最終節まで、約半年前に樹立したチーム記録を再び更新する12試合連続無敗を達成。一つの引き分けを挟んで11もの白星を並べ、そのうち3ゴール以上をマークした試合が5度を数えた。

 実は無類の強さが発揮され始める2節前の8月15日に、井原監督はJ1昇格を確信している。2−0で磐田に快勝した90分は、初めて4バックで白星を手にした一戦でもあったからだ。

 J2を戦いながら、指揮官は4バックの精度を高めてきた。確信うんぬんは誰にも口外しなかったが、2つのシステムを使い分けられるメドが立ったことで、胸突き八丁の終盤戦を乗り切れる手応えを得たのだろう。

 迎えた12月6日。セレッソ大阪にリードを許し、このままなら敗退が決まるJ1昇格プレーオフ決勝。福岡は残り3分で同点に追いつく劇的な展開で引き分け、5シーズンぶりのJ1昇格を決めた。

 3−4−2−1でスタートさせたシステムを失点直後に2トップに変更。徐々に圧力を増し、84分からは4バックにスイッチ。さらに攻撃に枚数を割いた。自らのボール奪取を起点に仕掛けたカウンターから豪快な同点弾を叩き込んだのは、ワイドから右サイドバックにポジションを変えていた中村北。同じく左ワイドから左サイドバックに移り、トップスピードで攻め上がってアシストを決めた亀川は「相手よりも人数をかけようと、いつも北斗さんと話してきた」と胸を張った。

 決勝の相手がC大阪に決まってから、井原監督はビハインドを背負った状況を想定。紅白戦でレギュラー組に4バックで戦わせるなど、周到な準備を積んできた。

「(準備をしてきたから)慌てないで済んだし、選手たちも信じてプレーしてくれた。(選手時代と監督とでは)プレッシャーの度合いが違いましたが、それでもワールドカップ出場といったものに比べればまだまだだと思って自分はやってきました」

 偽らざる本音だった。自分自身を信じながら、心の中で常に見えない敵とも戦ってきた日々が脳裏を駆け巡っていたのか。試合後の井原監督は、何度も頬を伝う涙をぬぐっていた。

 4年連続で14位以下に低迷していた福岡が成就させた悲願。巷に飛び交う“井原マジック”なるものが存在するとすれば、そのタネは意外性に富んだ采配や大胆な選手起用などではない。選手として経験した1993年10月の「ドーハの悲劇」に象徴されるように、サッカーは天国と地獄が常に表裏一体で推移する。後者と遭遇する確率を可能な限り引き下げるために――“勝負の神様は細部に宿る”という精神をどんな状況になっても愚直に貫いた指揮官のぶれない心が、大輪の花を咲かせた。

文=藤江直人