練習終了予定の16時に時計の針が近づくと、テニスボールを手にした少年・少女たちは一斉にフェンス際に駆けより、「ニシコリー!」「ケイ!」とお目当ての選手の名を叫ぶ。

 予定時間ギリギリまで、友人でもあるアレクサンドル・ドルゴポロフ(ウクライナ)とボールを打ち合い汗を流した錦織圭は、必死に手を差し伸ばすファンたちにゆっくり歩み寄ると、ペンをすばやく何度も何度も走らせた。

 今年は会場や街を歩いていても、ファンや道行く人から声を掛けられる機会が多い――。テレビ局のインタビューを何社も受け、開幕前の会見にも多くの地元記者たちが集まり、質問を浴びせかけた。

「やはり、グランドスラムの大きさはすごいな。トップ10に定着したお陰でもあるんだろうな」

 昨年、自分が成し遂げた『準優勝』の大きさを改めて肌身で感じつつ、彼はふと、こうも思う。

「去年は、負けて良かったのかもしれないな......」と。

 1年前、彼はまだ世界の11位だった。その彼を今の4位に押し上げた疾走の始まりは、昨年の全米オープン決勝における、人生で最も悔しいひとつの敗戦である。

「もし優勝していたら、充実感が大きすぎて満足し、ひと息ついていたかなと思うので。負けて、よりハングリー精神が増したところもあり、悔しい思いがバネになった」

 たしかに全米オープン決勝で敗れた直後の彼は、第1シードとして挑んだマレーシア・オープンで「勝って当然」のプレッシャーに打ち勝ち、頂点へと到達した。その翌週には、日本中の注視を集めた楽天ジャパンオープンで、「壁を打ち破り」2週連続優勝を成し遂げている。さらに11月には、年間上位8選手のみが参戦できるロンドン開催のATPツアーファイナルで、ベスト4に勝ち進んだ。

「どうなっていたかはわからないけれど、負けて良かったのかもと思うところもあります」

 今年の全米オープンを控えた会見で、錦織は飾ることなく本音を口にした。

 錦織圭とは、来た道を振り返ることのないアスリートだ。だが彼は、何もかもを背後に置き去りにするわけではない。忘れてもよい過去と、決して忘れてはならない想いを峻別し、後者は心の大切な場所にそっとしまっておく。

 だからこそ彼は、1年前に抱いた誓い......そして表彰セレモニーで口にした言葉を、今でもはっきりと覚えている。

「チームのみんな、ごめんなさい。今日はトロフィーを手にできなかったけれど、次は必ずつかんでみせる」

 昨年、足裏の「のう胞摘出手術」を受けたばかりで自信を抱けずにいた錦織を、心身両面でフォローし、時に厳しい言葉を掛け、背を叩いてくれたチームの願いを彼は感じ、感謝の気持ちをトロフィーとして示すつもりであった。それにもかかわらず、良いパフォーマンスができなかったことが何より悔しく、「チームのみんなにも悪いと思った」のだと言う。

 その悔しさを共有した、フルタイムツアーコーチのダンテ・ボッティーニ、トレーナーの中尾公一、そしてもうひとりのコーチのマイケル・チャン......昨年ともに戦ったチームの面々は、今年も全員、ニューヨークに顔を揃えた。
 
 先週のシンシナティ・マスターズはでん部の痛みもあり、大事を取って欠場したが、先週の水曜日からは、チャンが現役時代から師事するトレーナーのケン・マツダ氏もチームに合流。フロリダのIMGアカデミーで1週間、みっちり練習と身体づくりに取り組んできた。

 また、夫人の出産もあって全仏オープン以降は離れていたチャン・コーチも、今回は久々のトーナメント帯同。彼が加わることで、チームの緊張感は一気に増した。

 待望の男児が誕生したチャンではあるが、錦織は、「男の子が生まれて少し丸くなるかなと思ったら、まったくなくて。厳しさは相変わらず」と苦笑いする。もちろんそれは、冗談交じり。「それが彼の良いところ。今回も練習中にアドバイスもたくさんいただき、けっこう新しいこともプレー中に試している。それがうまくいっているし、彼がいることの効果は本当にあります」と、元世界2位の存在の大きさを改めて認識した。

 開幕を2日後に控えた練習でも、チャンたちスタッフが厳しい視線を送るなか、午前中はIMGアカデミーの大先輩でもあるトミー・ハース(ドイツ)と、そして午後はドルゴポロフと実戦さながらの緊張感に満ちた試合形式の打ち合いを見せている。さらに、今回はケン・マツダ・トレーナーもニューヨークに呼び寄せ、大会開幕までの期間も、2週間戦える身体づくりに励む予定だ。

 昨年は準優勝、ならば今年は優勝......と性急に騒ぐ周囲の喧騒をよそに、当の錦織は、「今年はまた新しい全米オープン。そんなに決勝に行けるとも限らない」と、客観的に現状と自分の立ち位置を俯瞰する。そして、だからこそ、「自分自身のプレーを初戦から貫いていく。体調もテニスの調子もとても良いので、しっかりやれば、後半に行けると思います」と雑念や油断をすべて排除し、信頼するチームとともに、目指す高みへと一歩ずつ進んでいく心づもりだ。

 錦織は昨年を振り返り、「負けて良かったのかも」と思ったのだと言った。

 では、果たして今年も彼は、心のどこかで優勝を恐れているだろうか?

 そう問われると、世界4位は表情を和らげ、フッと困ったような笑みを漏らしながらも、目には強い光を湛えてはっきりと断言した。

「もう大丈夫だと思います。経験も積んで、トップにいる自覚もあるので。グランドスラムも、いつか優勝したいと思います」

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki