インターネットはいかにぼく(と音楽)を救ったか? - tofubeats寄稿

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バンドを組めなかった高校時代。音楽好きな仲間とつながるチャンネルはインターネットしかなかった。けれど、そこから生まれた音楽は、どの音楽よりも、いまの時代にフィットする音楽だった。インターネットレーベル「Maltine Records」とそこで育った新世代の「音楽ギーク」たち。その10年の歩みを、tofubeatsが自身の言葉で回想する。(雑誌『WIRED』日本版VOL.13より転載)

「インターネットはいかにぼく(と音楽)を救ったか? - tofubeats寄稿」の写真・リンク付きの記事はこちら


[原稿初出は2014年9月10日発売『WIRED』日本版(VOL.13)

来年で「Maltine Records」(マルチネレコード)が発足10周年を迎えるそうだ。ぼく、tofubeatsは、現在23歳、一緒に写真に写っているtomad(通称“社長”)は1つ年上の1989年生まれなので多分今年で25歳。DJ WILD PARTYは87年早生まれ、okadadaは86年生まれ。この4人は、マルチネレコードが主催するイヴェント「lost decade」のメンバーである。

マルチネレコードは2005年、社長と共同発起人のsyemが高校1年生のころに発足した、いわゆる「ネットレーベル」だ(一般的に日本ではネットレーベルと通常のレーベルは、フリーダウンロードができるかどうかで区別される)。

本来音源をアップしているウェブサイトを“レーベル”というのは一般的ではないが、海外ウェブサイトのInternet Archiveのなかにあった手法を引用し、彼らは当初からレーベルと名乗った。インターネットに大量に漂流する音楽にラベルを付け、フリーで配信する。いまも金銭的な利益は生んでいない。

デスクトップ音楽家の新しいコミュニティ

バンドを一切組むことのなかったぼくが(というか、組めなかった結果、ネットで調べてひとりで音楽づくりができることがわかったので)、最初に手にした楽器はサンプラーだった。

同級生がバンドの練習に勤しむなか、毎日親からもらった学食代でTSUTAYAに通い、母の勤め先の事務品落ちのPCで音楽について調べてみると、インターネット上に趣味の合う友達がいることがすぐにわかり、05年初頭にはmuzieといったサイト、もしくは掲示板に投稿するという方法でインターネット上で自分の楽曲を配り始めた。

そこで小さな交流を続けていたぼくに転機が訪れたのは06年、高校1年生の春だった。MPC1000というこれまでよりも立派な制作機材を得たぼくに、さらに自宅インターネットの高速化、さらにYouTubeの出現という状況が与えられたのだ。

tofubeats 1990年神戸生まれ。現在も神戸在住のDJ/音楽プロデューサー。マルチネではdj newtownとして活動。昨年メジャーデビュー。無類の「asics」マニアで、この撮影でも着用。(タキシード ¥265,000、シャツ ¥53,000、タイ ¥17,000、カマーバンド ¥26,000、カフリンクス ¥38,000〈すべてdunhill/リシュモン ジャパン TEL03-4335-1755〉※靴本人私物)

音楽を投稿して数個のコメントをもらうだけでは飽き足りなくなっていた自分は、もっとアクセスを稼ごうとブートレグのREMIXを投稿することにした。「歌声りっぷ」というフリーソフトの存在もありがたかった。このソフトのおかげで、既存のJ-POPの楽曲から歌声だけをアカペラで取り出してエディットできるようになったのだ。

そうやってつくったあるリミックスを、imdkm(イミヂクモ)という人がブログで紹介してくれた。彼こそがマルチネで最初(で最後?)の映像作品をリリースした人物だった。当時としてはかなり珍しかったヴィデオと音楽を双方向からマッシュアップした作品に衝撃を受けただけでなく、これがマルチネという音楽コミュニティを知るきっかけとなった。

そのころ、マルチネについてはファウンダーであるtomadの音楽紹介ブログ「DIG@BOOKOFF」をたまにチェックする程度でしか知らなかった。

当時、音楽家が個人でネットで活動することはいまほど根付いておらず、交流のメインは掲示板といくつかの音楽紹介ブログの2本柱だったように思うが、その点マルチネレコードはインターネットのアーティストのコレクティヴとして、非常に早い段階で機能していたようには見えた。

すでにフリーで落とせる音源を紹介するブログ的な立ち位置でなく、メールなどでtomad社長自身がリリースしたいアーティストをスカウトし、音源をつくらせてレーベルとしてリリースするというやり方は、そのころまだ珍しかったし、いまほど多くなかった若いデスクトップ・ミュージック(DTM)のユーザーを集め、いまに至る大きな流れをつくるきっかけになったと思う。

一方のぼくは、そのころはHIPHOP音源をアップして交流するサイトに属しており、現在のSeihoなどとは、そこで既にハンドルネームを通しての面識があった。

そこから徐々に地元・神戸のHIPHOPシーンと多少なりとも交流をもつようになるが、そこは、どちらかというと閉じた空間で、サンプリングにおけるルール(当時は特にJAZZY HIPHOPのブームなどがあった)の多さなどがあまり自分にフィットしないと感じ始めていた。またネットで年齢も関係なく匿名でアップすることに慣れていたからか、リアルな先輩後輩関係のようなものに全然馴染むことができず、その界隈からはフェイドアウトしていくこととなってしまった。

ニュータウン育ちのDJ

08年に事態は動く。バイト先の100円ショップが潰れて機材を買えなくなったので、MPCベースから制作のメインをPC環境に移行すべく、それまでのブートレグをまとめたCD-R「HIGH-SCHOOL OF REMIX」を自主発売することにしたのだ。

ヴィレッジヴァンガードやJETSETといったお店に自ら営業して売り歩いた結果、それを聴いた関係者から徐々に全国リリースタイトルのリミックスのオファーなどがくるようになる。納品書や請求書の書き方、そして小売りの仕組みなどを学んだのは、高校生だった、このころだった。

そしてその前後、mixiでメッセージが某メジャーレーベルの新人発掘部署の杉生氏から届く。ブートレグばっかりつくっているので怒られると思ったのと「メジャー」という響きが怖かったので最初は会うのを断ったのだが、結局、いろいろあって杉生氏の縁で、横浜アリーナでの「WIRE08」に出演することになった。tomad社長と初めて会ったのがこの日だった。

さらにその翌月には同じ杉生氏の企画で、tomad、imdkm、imoutoid、そしてぼくの4人による「セプテンバー9月」というイヴェントが、京都の小さなカフェで行われた。

tomad インターネットレーベル「Maltine Records」主宰。2006年ごろからDJ活動も開始。2009年からイヴェントオーガナイズも行っている。通称「社長」。(タキシード ¥57,000、ベスト ¥21,000、シャツ ¥18,000、パンツ ¥21,000〈すべてTOMORROWLAND〉、チーフ ¥12,000〈Kinlock/以上すべてトゥモローランド 渋谷本店 TEL03-5774-1711〉)

個人的にはこれがマルチネのメンバーと一緒にやった初めてのライヴだ。京都の大学に通っていたimdkmの家で、imoutoidとの3人で事前に会う機会もあり、これまでインターネット経由で行われていたやりとりが3年(!)の時を経てリアルな場へともちこまれ、ぼくの現実は一気に加速した。

「セプテンバー9月」の集客は50人程度だったけれど、「WIRE08」よりも自分の人生を大きく変えたイヴェントだった。彼らが高校もまったく行ってなかったことなどを知り、中高大一貫校にマジメに通っていた自分のことを「高校に通ってるだなんて普通だ!」と冗談でバカにされたのをいまもよく覚えている。imdkmは恋がしたい、と言っていた。そういう年ごろだったのだ。

マルチネでの初リリースもこの年だ。「WIRE08」に出演が決まったとはいえまだ四つ打ちをつくったことがなかった(!)ため、いくつかデモをつくることとなった。そのデモこそが「dj newtown - Flying between stars(*she is a girl)」(MARU-24)である。

tofubeatsとは別名義になっているのは、なんとなくそうしただけのことなのだが、後にこの名前が自分の音楽の方向性まで決定するとは夢にも思っていなかった。その後dj newtownは、これまでに自分が借りてきたTSUTAYAのCD、ブックオフのCD、YouTubeの関連動画欄などを、踊れる音楽へと編集していく際に使用する名義になっていく。

神戸のニュータウンという、歴史のない町、神社のない町で自らのルーツを見つけていくことは、現在のtofubeatsの活動の根幹をなす部分でもあり、このリリースが、そのことに気付くきっかけとなった。

さらに、自分が当時のHIPHOPに感じていた違和感、例えば日本人が、なぜアメリカ人の音楽であるジャズをサンプリングしなければならないのか? なぜレアグルーヴを集めなければならないのか? J-POPって格好悪いものなのか?といった疑問を解消するために、またそうした傾向へのある種の反発もこめて、自分の手の届く音楽を自分の好きなように編集してつくった作品でもあった。

レーベルに参加し、フリーの音源が「リリース」されることで反応もより可視化され、自分のつくった音源がすぐに世間に出て、多くの人から反応を得るという意味では、掲示板で公開していた時代よりも時期を追うごとに制作が楽しくなっていった。

おそらくTwitterなどのSNSの普及も、これには関与している。このころ、まだ自分はクラブに遊びに行ける年齢でもなかったので、ネットやソーシャル上の反応が、ぼくにとってはリスナーの反応のすべてだった。

「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」

ようやくオールナイトのイヴェントでDJができるようになったのは18歳になってからだ。初めて出たオールナイトのイヴェントトに一緒に出演していたのがokadadaである。当時からokadadaはDJが抜群にうまく、この日からいまに至るまで、いちばんうまいと思うDJのひとりである。

okadada 1986年滋賀生まれ。大阪でDJをしたり曲をつくったり。マルチネから「無職EP」「D is for Dance」などをリリース、tofubeatsの最新アルバム『First Album』にも参加。(タキシード ¥269,000、シャツ ¥69,000、チーフ ¥12,000、タイ&カマーバンド(セット)¥36,000、カフリンクス 参考商品〈すべてErmenegildo Zegna/ゼニア カスタマーサービス TEL03-5114-5300〉 靴 ¥13,000〈adidas Originals/アディダスグループお客様窓口 TEL0120-810-654〉)

ちょうどTwitterでマルチネレコードが「シカゴハウスコンピレーション用音源」を募集しており、彼がそこに音源を送ることでマルチネに合流した。

次いで、20歳になったtomad社長が2009年の2月に西麻布のBULLET’Sで「おいっ!パーティーやんぞ!」というイヴェントを企画。ここで関東ですでに参加していたWILD PARTYをはじめとする他メンバーとも合流し、マルチネはリアルなダンスフロアへと接近していくこととなる。

こうした活動は、やがて、2014年に恵比寿リキッドルームを満員にしたイヴェント「東京」につながっていくのだが、やっていることはいまも昔も変わらない。普段は顔を合わせないメンバーがその日に集まり、終わったら解散する。往復の夜行バスの交通費が賄えないこともザラだった。みんな楽しくてやっていた。

ちなみにいまに至るまでイヴェントのメンバーやタイトルはいつも流動的で、後述の「lost decade」を除いてレギュラーイヴェントは行っていない。

マルチネのイヴェントは、社長が立てるコンセプトに応じて企画され、ウェブサイトが毎回別URLで立ち上げられる。これはインターネットにおけるトレンドの変化への対応という意味合いが強い。また、その毎回変わるイヴェントのコンテクストをお客さんも理解してやってくるというのもユニークな点だ。

多くの音源が無料で入手できて、ぼくら自身のやりとりもネット上で公開されているので、マルチネのファンは予め楽曲を聴き、コンテクストを理解したうえでイヴェントを楽しむことができる。

これはバンドのライヴの後にCDを買うのとはまったく逆の発想である。加えて、会場で聴いた音源が家に帰ると入手できる、という点においてもとにかくスピード感がある。インターネットを媒介にどんどん現実を加速させていく試みといってもいい。そういう意味では単純なクラブミュージックとも一線を画していると言えるのかもしれない。

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1/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
ADEPRESSIVE CANNOT GOTO THECEREMONY” imoutoid(MARU-014/2007) リバーブを一切使わないという極端な手法でカットアップされた18禁ゲームの楽曲はいったい彼の何を映していたのか。今聞いても感想は一言。ズバ抜けてる。(tofubeats)

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2/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
high-school girl(we loved)” dj newtown(MARU-031/2009)ニュータウンからの刺客がやってきたと書いたのは何年前だろう。あのころのピュアな気持ちとニュータウンの哀愁と焦燥が詰まった高校生活の集大成。(tomad)

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3/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
Soul Gem” Submerse(MARU-091/2011) アニソンをサンプリングした曲と、ほかのカチッとした曲とがEP内で並行に扱われている絶妙なバランス感が現在のシーンにもつながっている作品。(DJ WILDPARTY)

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4/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
Intense Electro Disco” banvox(MARU-102/2011) クラブの未成年規制から生まれたと言っても過言ではない、2010年代のカウンターカルチャー的作品。夢想がリアルを越えた一作。(DJ WILDPARTY)

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5/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
おしえて” Avec Avec(MARU-107/2012) 圧倒的なポップセンス。初期マルチネには縁のないセンスのようでいて、その実表題曲はアニソンをサンプリングしているという過去との接続が垣間見える。(okadada)

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6/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
PR0P0SE” PR0P0SE(MARU-113/2012) 大臣は多数の共作を行うがユニットの名前がついているのはPR0P0SEのみ。このふたりである必然性とは、まさしくここに歌われている恋そのものだ。(okadada)

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7/7ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
pale machine” bo en(MARU-123/2013) 日本語と英語、そして子どもと大人の狭間で、今まで聴いたことない奇形ポップミュージックが生まれてしまった。これを受け入れられるのはマルチネぐらい。(tomad)

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ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
ADEPRESSIVE CANNOT GOTO THECEREMONY” imoutoid(MARU-014/2007) リバーブを一切使わないという極端な手法でカットアップされた18禁ゲームの楽曲はいったい彼の何を映していたのか。今聞いても感想は一言。ズバ抜けてる。(tofubeats)

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high-school girl(we loved)” dj newtown(MARU-031/2009)ニュータウンからの刺客がやってきたと書いたのは何年前だろう。あのころのピュアな気持ちとニュータウンの哀愁と焦燥が詰まった高校生活の集大成。(tomad)

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ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
Soul Gem” Submerse(MARU-091/2011) アニソンをサンプリングした曲と、ほかのカチッとした曲とがEP内で並行に扱われている絶妙なバランス感が現在のシーンにもつながっている作品。(DJ WILDPARTY)

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ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
Intense Electro Disco” banvox(MARU-102/2011) クラブの未成年規制から生まれたと言っても過言ではない、2010年代のカウンターカルチャー的作品。夢想がリアルを越えた一作。(DJ WILDPARTY)

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ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
おしえて” Avec Avec(MARU-107/2012) 圧倒的なポップセンス。初期マルチネには縁のないセンスのようでいて、その実表題曲はアニソンをサンプリングしているという過去との接続が垣間見える。(okadada)

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ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
PR0P0SE” PR0P0SE(MARU-113/2012) 大臣は多数の共作を行うがユニットの名前がついているのはPR0P0SEのみ。このふたりである必然性とは、まさしくここに歌われている恋そのものだ。(okadada)

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ロスディケ・クルーが選ぶマルチネ傑作選7
pale machine” bo en(MARU-123/2013) 日本語と英語、そして子どもと大人の狭間で、今まで聴いたことない奇形ポップミュージックが生まれてしまった。これを受け入れられるのはマルチネぐらい。(tomad)

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大学デビュー(付属校上がりだけど)をしたぼくを待ち構えていたのはimoutoidの死だった。ズバ抜けた才能をもった彼は普通にデビューして、日本の未来を担う作家になるだろうと誰もが思っていたが、そうなることはなかった。インターネットは幻想の世界ではない。葬儀が彼との初対面だった人もいた。

それが原因というわけではないが、そのあたりから少しずつ始まっていった企画が「MP3 KILLED THE CD STAR?」だ。これはマルチネ50作品目を記念して2010年にリリースされたマルチネレコードの名を冠した最初のCD(-R)であり、CDとして流通させるためにdisc2にメガミックスが入っているが、本編は付属のコードからインターネットでDLし、盤面がプリントされたCD-Rに自分で焼く、という販売手法をとった。

これは、音楽産業のありように対する揶揄ととられがちではあったけれど、“ネット”レーベルとしてのジョーク的な側面も強かったようにも思う。社長から直接「このCDの最後の曲を頼みたい」と提案されてつくった楽曲が「朝が来るまで終わる事の無いダンスを」だった。

あるときから、この曲はアンチ風営法ソングとして扱われるようになったが、もっと大きな意味で「ダンス」を続けるための曲としてつくったものだった。別にクラブで踊れなくたって家でヘッドホンを付けて踊れればいい、という思いがここには込められている。マルチネのメンバーはダンスミュージックが好きだが、全員、未成年のときに自分の部屋で「踊る」ことから出発したはずなのだ。

水星とカラオケボックス

同じころにいまに至るまでの代表曲「水星」も完成する。高校1年のころから自分の音楽観にインターネットと同じくらい影響を与えてくれた当時神戸在住の先輩、オノマトペ大臣とは、遊びで一緒に曲をつくるようになっていた。

いつものようにカラオケボックスにPCを持ち込んで作曲していたある日、ぼくはTEI TOWA作曲のKOJI1200「ブロウ・ヤ・マインド」をオケに曲をつくっていた。オシッコをするためにトイレに行って帰ってくると、驚いたことに、すでにあのサビの前半が完成していたのだった。

この曲はSoundCloudにフルでアップロードしていたのだが、1年後の2011年にレコードでリリースされ1,000枚以上のヒットとなり、さらに1年後の廃盤にともないデジタル盤でリリースすると、こちらはiTunes Storeで総合1位にもなった。最終的には吉本興業にクリアランスも取ることができた。

カヴァーではなく、サンプリング的な手法で日本の音楽を参照する、自分のなかで腑に落ちるHIPHOPをここでひとつ、達成することができた瞬間だった。また、すでにネット上で公開されている音源でも内容によってはきっちりとした販売実績を残すことができるという自信にもつながった。実際、iTunesでノーマネジメントのアーティストの音源が1位を取ったのは異例のことだったはずだ。

レコード、CD、データとさまざまな媒体の特性について言えば、ぼくは、流動性とグッズ性の比率の違いにすぎないと思っている。だから特に媒体そのものにこだわりがあるわけではない。それぞれのよさがあり、それぞれの弱みがある。

ぼくらの世代はHIPHOPブームの流れからアナログレコードにも接してきたし、CDをレンタルしたりブックオフで買ったりしつつも、データで音楽を配信をしていた狭間の、ある意味ラッキーな世代なのかもしれない。インターネットについてもちょうど数MB程度の音楽が一般家庭で扱えるようになったのが中学、高校のころだった。マルチネのコアメンバーが同年代に集中しているのは、おそらく偶然ではない。

失われた10年

大学生になりしばらくすると発注仕事もほぼ毎月舞い込むようになり、同時期に某社の育成部署でのメジャーデビューへのプレゼンに本腰を入れるという目標もあり、一度dj newtownを“解散”した。

「大学の間に決まるようであればメジャーデビューもいいのかも」と思っていたが、3度のトライもすべて見事に失敗。応援してくれる人もいるにはいたのだが、担当者も自分も「就職したほうがよさそうだ」と感じるようになっていた。

インターネットがある以上は学生時代のように音楽が続けられると思ったし、そういうふうに楽しんでいる大人もたくさん知っていた。ぼくは普通に就職ガイダンスに出たり…はあまりしなかったのだが、それにも理由があった。

胃が痛すぎたのだ。メジャーデビューをめぐるストレスの自覚は本当になかったのだが、いよいよヤバいと思って病院に行って検査をしてみたら胃潰瘍。ある会社から就職採用の声も掛けていただいていたのだが、それも全部やめてリミックスの仕事で得たギャラを手に、大学を留年してどこかでゆっくりしようと考えた。

2012年、実家を出て大学に近い神戸の山麓の静かな家に引っ越すことにした。「水星」のiTunes Storeでの売り上げなども定期的に入っていたので、大学も留年するつもりで適当に通いながら、商品としての流通を前提にアルバムをつくった。学生時代最後の思い出に、もうきちんとCDを出すチャンスはないだろうと思いながら制作を始めたのが「lost decade」だ。

DJ Wildparty 1988年横浜生まれ。2005年ごろよりDJとしての活動を開始。「MOGRA MIX」や「VERSUS」等幅広いジャンルでMIX CDをリリース。ユニット「OL KILLER」でも活躍中。タキシード ¥650,000、シャツ ¥90,000、タイ ¥18,000、カマーバンド ¥42,000〈すべてKiton/キートン TEL0120-838-065〉 チーフ ¥4,500〈FIORIO〉、カフリンクス ¥9,500〈UNITED ARROWS/以上ともにユナイテッドアローズ 原宿本店 メンズ館 TEL03-3479-8180〉

「lost decade」はもともと、2010年にtomad、okadada、DJ WILDPARTYとぼくとの4人で、一度好き勝手にDJをできるイヴェントを始めようという社長の一言で始まったイヴェントの名前だ。命名は社長である。

「失われた10年」というそのタイトルは、中高大の10年間、エスカレーターで上がってきた自分が大学を卒業するタイミングで出すものとして、またバブル崩壊後に育った自分たちにはピッタリだと思い、社長の許可をもらって拝借した。そしてこれが流通のみワーナーのネットワークに乗せてもらえることが決まる。

翌年春、アルバム『lost decade』がリリースされ、それに合わせて日本人アーティストとしては初の全曲先行フルストリーミングがiTunes Storeで行われた(いまでもlost decadeはSoundCloudで全曲フルで聴くことができる)。

これはフリーダウンロードから始まり、人に音楽を聴いてもらえることが嬉しいだけのところから始まった自分がずっと思っている「音楽を聴く前に音源を購入すべきなのか」という考えからである。

もちろんアナログレコードも買うので内容を聴かずに買う楽しみもわかるけれど、30秒程度の試聴で自分のもっている大事な金銭を投下するか決めて後悔されるくらいなら買ってくれなくてもいいし、逆にお金を払ってはくれなくても、好きになってくれる人が潜在的に増えてくれれば、とも思う。もちろんこの考えはマルチネでのフリーダウンロードを重ねて育まれた考えだ。

やりたい音楽をやる権利と自由のために

2013年晩夏には遂にワーナーミュージック・ジャパンのunBORDEからのメジャーデビューが発表される。森高千里さんや藤井隆さん、今回のデビューアルバムでは中学時代から憧れのBONNIE PINKさんといった刺激的なコラボレーションを行うことができたり、他人に音楽を聴いてもらうという意味でも制作という意味でも、またひとつ上のステップに踏み込むことができた。

その一方で作品の完成から公開までの途方もないタイムラグや、自分の楽曲を自分の好きなように扱えない権利関係の煩雑さや、柔軟とは言えない状況には衝撃を受けた(しかし一方で、unBORDEはそのようなジレンマにも比較的協力的ではあるということは記しておきます)。SoundCloudに自曲をアップロードすることもメジャー契約したいまでは著作権的にはグレーゾーンである。しかしこれまで自分たちがやってきたことが果たして間違っていただろうか?

音楽は時代とともにある。いずれ、この時代に合ったかたちに音楽は、変化せざるをえない。その日をぼくは10年間、待ち続けている。もしかしたらいまがそうなのか? そうでないのか? いまはわからない。

2014年、10月2日の“トーフの日”にメジャーデビュー後初のアルバム『First Album』が発売される。初回盤は2,400円で2枚組。lost decadeほど時間をかけることはできなかったけれど、CDパンパンに入った精一杯の1枚目(でもフリーのころから数えれば何曲目になるだろう?)だ。通常盤より初回盤の方が安い。

できないことも多いが、できる限りやりたいようにやる。たかが23歳、と言われるかもしれないけれど、10年にもわたって何百曲もつくって、やっとここまできたのだ。

別に必要以上に金や名誉が欲しいわけではない。自分たちがやりたい音楽をやる権利と自由を得るために、あとは自分の友達(顔を知っていようが、いまいが)や自分の好きなもの、経験が与えてくれた影響を証明するために挑戦してみたいだけだ。

日々をよくするために、音楽をやろう。

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