在日朝鮮人が北朝鮮へ“帰国”する『北送事業』は、1959年12月14日に最初の北送船が新潟港から出港し、数度の中断を経ながら1984年まで続いた。
 当初は、その後就航した万景峰(マンギョンボン)号ではなく、旧ソ連の軍艦を改造した貨客船『クリリオン』と『トボリスク』に乗船し、北朝鮮に送られたのである。
 その総人数は9万3340名。そのうち6839人は、石川氏の母・美代子さんのような日本人妻や、石川氏と同じく、その子供といった日本国籍保持者だった。日本人妻については、親族縁者から結婚に反対されたという経緯を持つ人も多く、さらには北朝鮮に渡るという行為に“縁切り”された方も多い。美代子さんもこのケースだった。
 北送事業は、在日本朝鮮人総連合会(=朝鮮総連、以下総連)が推進し、北朝鮮や総連では『帰国事業』と呼ぶが、そもそも在日コリアの人々は、日本から地理的に近い朝鮮半島南部、特に済州島出身者が圧倒的に多く、すべての北送者にとって異国への帰還と言ってよかった。

 最近、生活保護者に対する風当たりが強くなってきました。芸人の河本準一さんの母親が生活保護を受給していた問題に関し、小宮山洋子厚労相は、経済的な余裕がある受給者の親族に対し、保護費の返還を積極的に求める考えを示しています。返還に応じなかったり、扶養を拒んだ場合は、法的手続きを取ることも検討すると言っています。
 生活保護の受給者数は、今年209万人と過去最高を記録し、このかなりの部分は、本来は生活保護の対象にならない人たちともいわれています。今年度の生活保護費予算は、3兆7000億円にまで膨れ上がり、これは国家予算の約9%にも達しているのですから、不正受給者に返還を求めるのは当然のことでしょう。
 ただ、民法877条には「直系血族および兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある」とありますが、生活保護法では、「必ず扶養」とは明記されていません。厳密には扶養の義務付けはないわけで、またもや“お嬢様”小宮山大臣の勇み足といえる発言でしょう。
 ところで、この国家予算を圧迫する生活保護費問題と『北送事業』は、実は密接に結びついていたことを指摘しておかなければなりません。
 北送事業が始まった1959年の1年前の'58年の時点で、在日朝鮮人の生活保護受給者は8万1000人(在日朝鮮人全体の13.3%)もいました。これは日本人受給者の受給率である1.8%を大きく上回っていました。
 これでおわかりだと思いますが、在日朝鮮人が日本から消えてくれれば、日本の社会保障費を大幅に削減することができたのです。
 政府による社会保障費の削減は、'56年に生活保護費の削減という形で現れました。また、'57年から翌年にかけての「なべ底不況」により、在日貧困層の生計は厳しさを増しました。そこへ総連による“北朝鮮楽土”というキャンペーンが始まります。
 総連は、北朝鮮の体制を「衣食住の心配がない」「地上の楽園」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人や旧社会党がキム・イルソン(金日成)を毛沢東のようだとヨイショし、朝日新聞を筆頭にマスメディアによる北朝鮮礼賛が続いたのです。
 北送事業における日本側の呼びかけ人になったのは、日朝協会で中心的な役割を担っていた当時の社会党議員、共産党議員だけでなく、鳩山一郎氏や小泉純一郎元首相の父、小泉純也氏など当時の自民党大物議員も加わっていますが、特に鳩山氏は、イルソンと密約を果たし積極的に“口減らし”を画策しました。
 北送事業は、人道的見地から行われたことになっていますが、実態は、カネを食うだけの厄介者を日本から追い出すということが目的だったといえるのです。もちろん貧しい在日朝鮮人だって、いくら衣食住はタダと言われても、住み慣れた日本を離れたくないという思いはあったでしょう。
 私もそうでしたが、日本の学校に通っている2世は朝鮮語がしゃべれないのですから、行ったところでなじめるかどうか、親としては躊躇するのは当然だったと思います。石川家で朝鮮語が話せたのは父だけで、私は小学校は日本の学校に通っていたし、日本語厳禁の朝鮮中学校に通ったのはほんの数カ月ですから、まったくと言っていいほど話せませんでした。
 日本人である母にとっては「数年で里帰りできる」という総連のウソの宣伝にまんまと乗せられ、渋々応じたようなものなのです。
 このように、北送を促すための総連によるさまざまな偽装工作が至る所にあり、石川家もその渦中に置かれることになりました。
 当時の石川家は、川崎市高津区溝口で祖父が建設会社を経営し、祖母は市場で鶏肉を仕入れてきては、溝の口駅西口商店街で、昼は鶏肉店を開き、夕方からは居酒屋を営んでおり、かなり裕福でした。
 このような生活でしたから私たちの場合は、経済的理由で北朝鮮に行ったわけではありません。
 ではなぜ石川ファミリーが北朝鮮に行かなければならなかったのか−−。
 その理由は次号の機会にお話しさせていただこうと思います。

 石川昌司(いしかわ・まさし)氏は、1947年2月16日神奈川県川崎市生まれ。父は在日韓国人、母は日本人である。1960年13歳のときに一家で北朝鮮に渡り、その後36年間北朝鮮に居住していた。
 1996年、金正日体制の圧政に耐えかねて北朝鮮からの脱出を決意する。鴨緑江を越えての決死の脱出に成功し、外務省の保護下、密かに日本に帰国した。
 日本人脱北帰国者第1号である石川氏に、北朝鮮の最新情報を聞く!