香川真司、『メタモルフォーゼ』のその先へ/ブンデスリーガ@ボルシア・ドルトムント 2-0 ボルシア・メンヘングラードバッハ
香川真司は不思議な男だ。
そう感じるのは、一見すると地味なイメージだった香川が、いつの間にかスターダムへとのし上がっていたような印象を受けるからである。
FCみやぎバルセロナに所属していた高校生時代、香川はU-18東北代表に選出された。
しかし、当時のポジションはボランチ。
華奢で小柄な体格もあって、香川への周囲からの評価もそう高いものではなかったそうだ。
今でこそヨーロッパの舞台で活躍し、あのリオネル・メッシにも例えられるほどのアタッカー・香川真司も、その頃はまだ身近な指導者でさえも、その秘めたる才能に気がついていなかったのである。
そんな香川真司のポテンシャルを見抜いたのが、当時U-18東北代表を率いていた元・ベガルタ仙台監督、清水秀彦だった。
清水は直前のセレクションで香川のボールタッチの柔らかさ、ドリブルの緩急の巧みさに気が付くと、無名の少年をU-18東北代表に抜擢する。
そして清水は香川の攻撃センスを活かすため、ボジションを一列上げて攻撃的MFでの起用を試みた。
ここに、現在の香川真司の原点が誕生する。
このU-18の一員として参加した仙台カップ国際ユースサッカー大会で活躍した香川はサッカー関係者の注目を集め、高校3年生となった2006年にセレッソ大阪とプロ契約を果たす。
ただしその年にはトップでの出場機会は無く、さらに悪いことに、チームはシーズン終了時にJ2へと降格してしまう。
セレッソ大阪に通算4年半在籍した香川だけれども、そのうちの実に3シーズンを、香川はJ2で過ごしたのである。
このように香川真司は、おおよそ「エリート」や「天才」という称号とは無縁の存在だった。
それでも香川は2年目のシーズンからJ2で活躍を見せるようになり、徐々にプロの世界でその頭角を現していく。
そして代表チームでもU-20、U-23にそれぞれ飛び級で選出されて世界大会に出場。
次第にその存在は、サッカーファンの間で認知されるようになっていった。
ただしこの頃の香川の評価は、まだ現在のように確固たるものではなかった。
チームの大黒柱として参加した2008年のAFC U-19選手権では主力ではあったものの、ポジションはボランチ。
U-19代表も香川がチーム事情で離脱した後に敗退し、U-20ワールドカップへの出場を逃している。
余談だけれども僕の周りのサッカーファン、サッカー経験者の間でもこの頃の香川真司への評価は微妙なものが多く、「香川ってそんなに上手いかなあ?」というような声もチラホラ上がっていたような感じだった。
そんな香川真司が “覚醒” したのは、何と言っても2008年から2009年にかけてのJ2リーグの舞台だったろう。
「ゴールの重要性」を強く意識し始めた香川は、乾貴士との名コンビでゴールを量産。
2008年シーズンに16得点、2009年シーズンには27得点を挙げるゴールマシンへと変貌を遂げ、09年のJ2得点王のタイトルを手にする。
その勢いのままJ1へとステップアップした2010年には、シーズン前半の11試合で7得点の荒稼ぎ。
この活躍が認められて、ボルシア・ドルトムントへ念願の海外移籍を果たした。
そしてドルトムントでもすぐにレギュラーを獲得した香川は、2010-2011シーズン前半戦のブンデスリーガMVPに選ばれる大活躍を見せる。
骨折で後半戦を棒に振ったものの、チームは前半戦の勢いを駆って9シーズンぶりのリーグ優勝を獲得。
そして開幕からチームに合流した今シーズンでは尻上がりに調子を上げ、後半戦は完全にチームの主軸として復活。
リーグ2連覇の立役者となったのである。
香川真司、『メタモルフォーゼ』のその先へ
無名のサッカー少年から、ヨーロッパのトッププロにまで登り詰めた香川。
しかし、僕は香川真司を天才だとは思わない。
たぶん本人も、そう思ってはいないだろう。
ただし一般的に言う「天才」とはちょっと違うけれども、香川が天才的な部分を持っているのも事実だ。
思うに香川は「吸収する天才」なのではないだろうか。
ひ弱なボランチだった少年は、まずドリブルの才能を開花させ、次にストライカーとしての才能を開花させた。
そして気がつけば、ヨーロッパでも屈指のテクニックを持つ一級品のアタッカーへと変貌を遂げていた。
この成長曲線は、ある意味で常識の範疇を超えている。
それを実現できたのは、香川真司がそれぞれのステージで、目まぐるしくプレースタイルを進化させてきたからだろう。
そして香川にはおそらく、それを実現できるだけのインテリジェンスとパーソナリティ、言い換えれば卓越した「素直さ」があったのではないだろうか。
その「吸収力」によって、サナギから幼虫、そして蝶になるように繰り返してきた “メタモルフォーゼ” 。
その結果が、現在の香川真司を形作ったのだと、僕は考えている。
僕は香川がドルトムントで活躍し始めた頃、香川真司は近い将来、ヨーロッパ主要リーグにおける日本人選手の得点記録を更新するだろうと予想したけれども、それは今シーズンにあっさりと実現された。
しかも今の香川真司の成長ぶりは、当時の僕の予想を遙かに上回っている。
香川にはいよいよマンチェスター・ユナイテッドやACミランなど、世界を代表するビッグクラブからのオファーが届きつつあると噂されているけれど、ブンデス2連覇を果たしたチームのエース級なのだから、それも当然の流れだと言えるだろう。
同時に香川真司は、日本のサッカー史上でも大きな勲章を手にした。
その実績という面でも、当時世界最高峰だったブンデスリーガで優勝を経験している奥寺康彦、同じく世界トップクラスのリーグだったセリエAでスクデットを手にした中田英寿と、少なくとも肩を並べたと言えるのではないか。
そして香川にとっては、迎える来シーズンは大きな飛躍の年となる。
世界に名だたるビッグクラブでの活躍を目指すのか。
あるいは、ドルトムントに残留してヨーロッパの頂点を目指すのか。
いずれにしてもその道は、香川真司がいよいよ、「日本サッカー史上最高の選手」へとチャレンジする道になるはずだ。
そう感じるのは、一見すると地味なイメージだった香川が、いつの間にかスターダムへとのし上がっていたような印象を受けるからである。
FCみやぎバルセロナに所属していた高校生時代、香川はU-18東北代表に選出された。
しかし、当時のポジションはボランチ。
華奢で小柄な体格もあって、香川への周囲からの評価もそう高いものではなかったそうだ。
今でこそヨーロッパの舞台で活躍し、あのリオネル・メッシにも例えられるほどのアタッカー・香川真司も、その頃はまだ身近な指導者でさえも、その秘めたる才能に気がついていなかったのである。
清水は直前のセレクションで香川のボールタッチの柔らかさ、ドリブルの緩急の巧みさに気が付くと、無名の少年をU-18東北代表に抜擢する。
そして清水は香川の攻撃センスを活かすため、ボジションを一列上げて攻撃的MFでの起用を試みた。
ここに、現在の香川真司の原点が誕生する。
このU-18の一員として参加した仙台カップ国際ユースサッカー大会で活躍した香川はサッカー関係者の注目を集め、高校3年生となった2006年にセレッソ大阪とプロ契約を果たす。
ただしその年にはトップでの出場機会は無く、さらに悪いことに、チームはシーズン終了時にJ2へと降格してしまう。
セレッソ大阪に通算4年半在籍した香川だけれども、そのうちの実に3シーズンを、香川はJ2で過ごしたのである。
このように香川真司は、おおよそ「エリート」や「天才」という称号とは無縁の存在だった。
それでも香川は2年目のシーズンからJ2で活躍を見せるようになり、徐々にプロの世界でその頭角を現していく。
そして代表チームでもU-20、U-23にそれぞれ飛び級で選出されて世界大会に出場。
次第にその存在は、サッカーファンの間で認知されるようになっていった。
ただしこの頃の香川の評価は、まだ現在のように確固たるものではなかった。
チームの大黒柱として参加した2008年のAFC U-19選手権では主力ではあったものの、ポジションはボランチ。
U-19代表も香川がチーム事情で離脱した後に敗退し、U-20ワールドカップへの出場を逃している。
余談だけれども僕の周りのサッカーファン、サッカー経験者の間でもこの頃の香川真司への評価は微妙なものが多く、「香川ってそんなに上手いかなあ?」というような声もチラホラ上がっていたような感じだった。
そんな香川真司が “覚醒” したのは、何と言っても2008年から2009年にかけてのJ2リーグの舞台だったろう。
「ゴールの重要性」を強く意識し始めた香川は、乾貴士との名コンビでゴールを量産。
2008年シーズンに16得点、2009年シーズンには27得点を挙げるゴールマシンへと変貌を遂げ、09年のJ2得点王のタイトルを手にする。
その勢いのままJ1へとステップアップした2010年には、シーズン前半の11試合で7得点の荒稼ぎ。
この活躍が認められて、ボルシア・ドルトムントへ念願の海外移籍を果たした。
そしてドルトムントでもすぐにレギュラーを獲得した香川は、2010-2011シーズン前半戦のブンデスリーガMVPに選ばれる大活躍を見せる。
骨折で後半戦を棒に振ったものの、チームは前半戦の勢いを駆って9シーズンぶりのリーグ優勝を獲得。
そして開幕からチームに合流した今シーズンでは尻上がりに調子を上げ、後半戦は完全にチームの主軸として復活。
リーグ2連覇の立役者となったのである。
香川真司、『メタモルフォーゼ』のその先へ
無名のサッカー少年から、ヨーロッパのトッププロにまで登り詰めた香川。
しかし、僕は香川真司を天才だとは思わない。
たぶん本人も、そう思ってはいないだろう。
ただし一般的に言う「天才」とはちょっと違うけれども、香川が天才的な部分を持っているのも事実だ。
思うに香川は「吸収する天才」なのではないだろうか。
ひ弱なボランチだった少年は、まずドリブルの才能を開花させ、次にストライカーとしての才能を開花させた。
そして気がつけば、ヨーロッパでも屈指のテクニックを持つ一級品のアタッカーへと変貌を遂げていた。
この成長曲線は、ある意味で常識の範疇を超えている。
それを実現できたのは、香川真司がそれぞれのステージで、目まぐるしくプレースタイルを進化させてきたからだろう。
そして香川にはおそらく、それを実現できるだけのインテリジェンスとパーソナリティ、言い換えれば卓越した「素直さ」があったのではないだろうか。
その「吸収力」によって、サナギから幼虫、そして蝶になるように繰り返してきた “メタモルフォーゼ” 。
その結果が、現在の香川真司を形作ったのだと、僕は考えている。
僕は香川がドルトムントで活躍し始めた頃、香川真司は近い将来、ヨーロッパ主要リーグにおける日本人選手の得点記録を更新するだろうと予想したけれども、それは今シーズンにあっさりと実現された。
しかも今の香川真司の成長ぶりは、当時の僕の予想を遙かに上回っている。
香川にはいよいよマンチェスター・ユナイテッドやACミランなど、世界を代表するビッグクラブからのオファーが届きつつあると噂されているけれど、ブンデス2連覇を果たしたチームのエース級なのだから、それも当然の流れだと言えるだろう。
同時に香川真司は、日本のサッカー史上でも大きな勲章を手にした。
その実績という面でも、当時世界最高峰だったブンデスリーガで優勝を経験している奥寺康彦、同じく世界トップクラスのリーグだったセリエAでスクデットを手にした中田英寿と、少なくとも肩を並べたと言えるのではないか。
そして香川にとっては、迎える来シーズンは大きな飛躍の年となる。
世界に名だたるビッグクラブでの活躍を目指すのか。
あるいは、ドルトムントに残留してヨーロッパの頂点を目指すのか。
いずれにしてもその道は、香川真司がいよいよ、「日本サッカー史上最高の選手」へとチャレンジする道になるはずだ。
大阪在住・横浜出身のサッカーファンがサッカーへの愛を書き綴ったブログ。日本代表、J、海外から女子サッカーまで追いかけています。