永島昭浩(撮影:Backdrop・神山陽平)

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スポーツキャスターとして活躍している元日本代表のFW、永島昭浩は、生まれるのが早すぎた。高校を卒業して松下電器(現ガンバ大阪)でプレーを始めたころは、まだ日本にプロリーグができる気配すらなかった。

それでもプロサッカー選手になりたいという気持ちは収まらず、永島は会社の協力者の尽力で、ついにオランダ留学を果たすことになる。結局プロにはなれなかったが、思い切って日本を飛び出し勝負したことは永島にとって「転機」だった。

「転機」で学んだことは現役を終え、新たにメディアの仕事をしても役になっているそうだ。野心家が海外で学んできたことは何か。そして今、キャスターとストライカーの共通点をどこに見出しているのか。いつもの笑顔で語ってもらった。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:Backdrop・神山陽平】


自分の日頃の行動を見ていた上司の応援でオランダへ



転機と言えば、日韓戦が絡んでるけどな私は小学校、中学校っていうときが非常に多感で、精神的にも不安定というか。結構ヤンチャしてたときがあったんです。

いじめられることもあったし、ケンカをしてしまったこともあったというか、そういう時期でした。背も高かったり、ちょっと日本人じゃないような顔をしてたんで、結構、他校生に絡まれたりというのは小学校、中学校であったんですよ。高校からはサッカーだけに打ち込む、そういう人生になるんですけど。

私の一番の転機は1989年、24歳から25歳のときにオランダ留学したことですね。

当時はまだJリーグがない、アマチュアの日本サッカーリーグの時代で、私は松下電器のチームに所属していました。そのときにオランダ留学したことが大きく人生を変えたと思います。当時はそんなにたくさんの選手は留学してませんでしたね。

私は小学校6年生のときの卒業文集に「夢はオリンピック選手」という作文を書いたんです。つまり、日本代表選手になりたいということですね。それでまだ日本代表に選ばれてなかった24歳ぐらいのときに、何か悶々としているものがあって。そういう気持ちを持ったままプレーしてたんですけど、プロになりたいと、単純にそう思いまして。

それを会社に相談したところ、松下電器の当時の常務がたまたまオランダのフィリップス社の会長をご存じだということで、フィリップス社がメインスポンサーのPSVアイントホーフェンにルートを作っていただいたんです。

アイントホーフェンは1988年のトヨタカップでウルグアイのナシオナルに負けて準優勝だったんですが、勝敗を決めたのはPK戦だったんです。そんな強豪クラブで、元オランダ代表の、今は代表監督を務めているロナルド・クーマンなんかが活躍してました。

それで「応援するからチャレンジしてこい」と行かせてくださったんですね。しかも「うまくいったらそのままプロになれ。ダメだったら戻ってきたらいいから」というお計らいをいただいたんですよ。

後々、なぜあのときにそんなことをしてくれたのか、常務に聞いたことがあったんです。そうしたら……自分でこんなことを言うのは恥ずかしいんですけども……常務は「いろいろ永島の情報を聞いた」と。「午前中社業をして、昼からサッカーをしなければいけないという、まさにノンプロの環境の中で、会社の仕事もしっかりしてるし、練習以外のところでも努力してると聞いてる」と。

それで「一番は君がひたむきにやってるところを応援したくなったんだ」ということを言っていただいたんです。自分としては当たり前のことをしてるつもりだったんですけど、その姿勢というか、生き方というか、そういうところを評価していただいて、「大きく夢に向かってる人をとにかく応援したい」というところで、配慮してくださった。そういうことを聞いて、非常に……うれしく思いました。

さらに会社は、英語の先生を付けてくれたんです。最終的に、選手は僕ともう1人、それにコーチが付いていくということになって、3人で英会話の授業を受けさせてもらいました。それでアイントホーフェンに行って、17歳から24歳ぐらいまでの選手がプレーしているセカンドチームに入れてもらったんです。

ところが1カ月間、練習ばっかりで試合には出してもらえなかったんです。アピールする場面が全然ないんですよ。それでアイントホーフェンのGMから自宅に招いていただいて、食事しながらいろいろな話をしてるところで、僕のほうから切り出したんです。「私はプロになるためにチャレンジしに来た」と。

オランダに行く前に英語を勉強して、多少は身につけながらも、オランダに行っていざ蓋を開けてみると、みんなオランダ語で話をしているんです。幸いにもそのGMは片言の英語を話していたので、やっとこちらの考えが伝わったんですよ。GMは「そんな考えだとは知らなかった」と。

語学というのは本当に大事だと知る大きな経験になりましたね。自分の思いというか目的というものを相手に伝えるという単純な作業ができていなかった。振り返ってみるとすごく大きな反省点がそこにあると思いました。

それで、たしか翌週にあった「ハーレムカップ」という大会の準決勝に出してもらったんです。僕が何しに来たかということをチームが汲んでくれて。まぁ恐る恐る出してくれたとは思うんですけど。

後半から出してもらって、幸いにも僕が点を取って勝ったもんですから、翌週の決勝戦はいきなり先発で起用してもらいました。ホント、弱肉強食じゃないですけども、ハッキリしてるなぁっていう、そういう感じがしましたね。

決勝戦でも2-0で勝って……2点とも僕が入れて。試合後インタビューを受けたんですけど……恥ずかしい話、片言の英語で通じないっていう。ホント、改めて語学ができない未熟さを痛感しましたね。

その後オランダのチーム入れたかというと、実は後に鼠径(そけい)ヘルニアで手術するんですけど、オランダにいるころから影響がすでにあって、足の痛みで走れなかったりしたんで、契約には至らなかったんですよ。結局、数カ月で日本に戻ることになったんです。

けれど、日本に戻ってきてプレーして、点を取ったりできたことで日本代表に選ばれたりするようになったんです。だから僕にとってオランダ留学は、数カ月ですけども、自分のモノにできる経験があったなぁと。あの数カ月で自分の人生が変わったという感じでしたね。

オランダに行って、世界で戦うために必要なこと、世界のトップの技術、戦術というものが見られたんです。ピッチ全体を使いますし、視野の確保と判断、そしてパワーも必要ですし。さらに個人戦術もしっかりと持ってなかったらできない。それは行ってみて初めてわかることばっかりで。

サイドキック一つでも、正確にパスしようとすると、日本で言うインステップで蹴るくらいのパススピードを出さないといけない。芝の深さ、芝生の下の粘土質の土、いろんなことを考えると、普通の日本人のサイドキックじゃスピードも落ちて通らないっていうことを感じました。

小学校で初めてサッカーを始めたときのサイドキックでは通用しない。だから蹴り方を変えるという工夫が必要になって。その時に、自分で改めてキックの技術を身につけさせてもらったという面で、本当に映像で見るだけじゃなくてプレーすることの大切さがあるとすごく感じましたね。

そのときはプロになれなかったんですけど、1991年ぐらいに、2年後には日本でもプロのリーグがスタートするという話が流れたんです。私は、松下電器のサッカー部はJリーグに参加するのかどうか、会社に聞いたんですよ。

それで「もし参加しないようだったらチームから出させてくれ」とお伺いするような形で聞いたんです。今思えば非常に生意気なことを言ったと思いますね。

その回答が非常に早かったんですね。すぐに参加するという返事をもらったんです。それで「じゃあ、Jリーグが始まる前だけど、今からでもプロ選手として契約してもらえないか」というお話しをさせてもらって、おそらくパナソニック(松下電器から改名)としては第一号だと思うんですけど、プロ契約に至って念願のプロ選手になりました。

Jリーグではガンバ大阪、清水エスパルスでプレーしていたんですけど、1995年にヴィッセル神戸に移籍するんです。当時の神戸はJリーグの下のプロアマ混合リーグだった日本フットボールリーグ(JFL)所属だったんですよ。

ヴィッセルに移籍したのは、1995年に起こった阪神淡路大震災がきっかけでした。震災もやっぱり現場に行って初めてわかったんですよ。私の実家が全壊して、たくさんの人が大変な苦労をなさっている状況を目の当たりにして。

私は、自分がボールを蹴るだけの仕事をさせてもらってるというのが、いかに恵まれた環境かというのを痛感しました。それで、神戸生まれの人間として何ができるかというところを考えたんですよ。Jリーグより下のリーグでしたけども、少しでも力になりたいという意味で。この移籍は所属していたエスパルスの協力もあったから実現したんで、エスパルスには本当に感謝してもしきれません。

キャスターもゴールを取り続けていかなければならない



現役を終えてメディアの仕事をしたときの変化よりも、オランダにいったときの変化のほうが大きかったですね。

確かにメディアとして必要な技術というのはあるんです。私は幸いにも、サッカーの解説以外に、ニュースコーナーでサッカーの解説をさせてもらったんで、いろいろわかったことがありました。

ニュースで流れる映像というのは各局同じような素材を流しているんです。そこに私が出演するということは、試合で点を取るのと同じように、視聴率を取ることを求められてるわけです。同じ映像を使いながらも、私の解説する言葉で数字を取る、要はサッカーでいう勝ち試合にするというのが重要なファクターなんですよ。

それはサッカーの解説とは違うんです。私はいろんなスポーツのジャンルを扱う番組に出させてもらったので、ものすごくいい経験させてもらったと思いますね。切り口が一方向では説得力がないので、いろんな角度から見なければいけない。その中から、今、これを出して言うべきだという、一番必要なものを瞬間の判断で言葉にしていくというのがすごく重要だと思うんです。

本当に瞬発力が要求されるし、決め打ちではなくて、準備した中でどれを選ぶかが大切で。いろんな角度から勉強して準備することが重要だというのは、その仕事をしたことですごく教えられました。

僕に何を求められているかっていうのは、ストライカーがゴールを取らなければいけないのと同じです。キャスターでいうと、もっともなことを言うのと同時に、結果を出さなきゃいけない。ゴールを決め続けなければいけないというのは、わかりやすいポジションですね。まぁ何回かに一回、オウンゴールで噛んでしまうんですけどね(笑)。

2000年に引退するまでは日本代表のユニフォームを着て活躍したいと思ってました。今は、日本サッカー協会が2050年までにワールドカップを自国開催して優勝するという目標を掲げてますから、それに貢献したいなと。

ただ指導の現場で日本サッカーを強くするのとは違う方向でも、今、サッカー界、サッカー人がやらなければいけないことって、たくさんあると思うんです。サッカーでいいプレーをするというのも必要なんですが、社会のニーズに応えるべく、立派な社会人でいなきゃいけないということも大切だと思いますね。そういう意味では、サッカー経験者が引退してからも様々な形で仕事を持って、社会に貢献することが必要だと感じます。

それに1年間で100人以上がプロサッカー選手になるということは、100人以上が職を失っているわけですから、現役選手がサッカーだけやって引退後を考えなくていいのかというところも疑問点はあります。かといって現役選手が副業ばかりやってサッカーが疎かになったという言い訳はもちろんダメですよね。そういういろんな課題はあると思うんで、そこはサッカー界全体で解決しなければいけない問題の一つでもあるんじゃないかなって思いますね。

私はこれからも自分がもっと努力して勉強して、サッカー界の力になれるような存在になればいいなと思います。サッカーの現場にも興味がありますし、テレビの面白さもわかってますし、いい仕事ができればいいなと思ってますね。

娘(フジテレビ・永島優美アナウンサー)と一緒にサッカーの番組をやってほしいと言われることがあるんですよ。でも、それは彼女が嫌がるでしょう。フジテレビも嫌がるかもしれない(笑)。娘はよく毎朝、頑張ってるなと感心しますね(5:25〜8:00「めざましテレビ」)。子どものこと褒めるのはアレなんですけどね、ホント、妻のおかげです。この「妻」っていう部分は入れてもらったほうがいいですね(笑)。(了)


永島昭浩(ながしま・あきひろ)

1964年4月9日、兵庫県生まれ。1983年、松下電器(現ガンバ大阪)に加入すると、日本代表にも選ばれFWとして活躍した。その後、清水エスパルスに移籍したが、1995年、故郷が東日本大震災で被災したのをきっかけにヴィッセル神戸へと移籍し2000年の引退までプレーした。