2012年、五輪3連覇を達成した吉田沙保里。日の丸をなびかせ大歓声に応える姿は、ロンドン五輪を象徴するシーンとなった

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2012年、五輪3連覇を達成した吉田沙保里。日の丸をなびかせ大歓声に応える姿は、ロンドン五輪を象徴するシーンとなった

五輪3連覇を含む世界大会16連覇、個人戦206連勝......数々の金字塔を打ち立て、女子レスリングを日本のお家芸に押し上げた吉田沙保里(よしだ・さおり)が現役を引退した。

長年、吉田本人や家族らを取材してきたスポーツライター・布施鋼治氏が、"霊長類最強女子"の幼少時代の知られざるエピソードをつづる!

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オリンピック3連覇、個人戦206連勝など、とてつもない記録を次々と打ち立てた吉田沙保里(よしだ・さおり)。2012年には13大会連続世界一を達成しギネス世界記録に認定され、レスリング選手として初めて国民栄誉賞を受賞した。

16年のリオデジャネイロ五輪では惜しくも銀に終わったが、母・幸代(ゆきよ)さんに対し「金メダルばかり見てきたから、銀もすごくいい色に見えてきた」という名言を残している。

その後、一度は東京五輪を目指すと宣言したが、1月10日、都内のホテルで引退会見を開き、世界を驚かせた。

「東京五輪に出場したいという思いもあったので日々迷いながらここまできました。でも、若い選手たちが世界の舞台で活躍する姿を数多く見るようになり、改めて自分と向き合ったときに、もうすべてやり尽くしたという思いが強くなりました」

3歳で初めてレスリングマットに上がってから33年。その言葉には重みがあった。吉田の軌跡を振り返ってみると、「やっぱり」と思える話もあれば、「嘘でしょう?」と驚くような話も多い。そのギャップが人としての魅力を増幅させるのだろう。

吉田は生後6ヵ月で生命の危機に瀕(ひん)している。パチンコ玉を喉に詰まらせ窒息寸前に陥ったのだ。両親は「もう助からないかも」と諦めかけたという。一命を取り留めた後、母の幸代さんは「とにかく元気に育ってくれたらいい」と両手を合わせたそうだ。

しかし、両親の心配をよそに、吉田は丈夫に育った。運動神経はレスリングの元全日本王者だった父・栄勝(えいかつ)さんとテニスの元国体選手だった母譲りといわれている。自転車は5歳の頃にわずか15分程度練習しただけで補助輪なしで乗れるようになったという。

「沙保里は子供の頃から常に前向き。転ぼうが関係なし。怖いという感情がなかったんでしょう」(幸代さん)


「レスリングはすべてやり尽くした」と語った1月10日の引退会見には母の幸代さんも駆けつけた

吉田本人は自分の運動神経についてこう語っている。

「きょうだいの中では最も運動神経がいいという自信はあります。一輪車もすぐ乗れるようになりました。途中でサジを投げるようなことは絶対にしない。乗れるまでやらなきゃ気が済まない。最後は意地です(微笑)」

負けず嫌いは子供の頃から筋金入り。小2の頃、遠征の帰路でフェリーに乗っていたとき、船内にあったクレーンゲームに夢中になった。

「手持ちのお金は3000円足らずだったけど、そのゲームにすべてつぎ込んでいましたね。どれだけ戦利品があったかは覚えていないですけど」(幸代さん)

吉田は3人きょうだいの末っ子。ふたりの兄と共に、自宅で父が無料で教えていた教室でレスリングに打ち込んだ。その影響もあってか、ママゴト道具など女の子が遊ぶようなオモチャを持っていた記憶がない。

「女の子はトロいので、いつも男の子とばかり遊んでいました」

小学生までの大会では男子とも闘っていたが、男子を簡単に負かすほど強かった。小3のときには相撲にも挑戦している。

「短パンを穿(は)いて、その上からまわし。上は裸だった。恥ずかしい? 全然! だって小学校低学年ですよ」

子供の頃から豪快だった吉田沙保里。『週刊プレイボーイ』5号(1月21日発売)では、そんな彼女の意外な弱点から規格外の人間力まで、彼女をよく知る人物たちの証言を集めている。

●布施鋼治(ふせ・こうじ) 
1963年生まれ、北海道出身。スポーツライター。著書に『なぜ日本の女子レスリングは強くなったのか 吉田沙保里と伊調馨』『吉田沙保里119連勝の方程式』など

文/布施鋼治 撮影/保高幸子